【第38話】初めての「ありがとう」
文化祭が終わって数日後の放課後。
書道室には柔らかい日が差し込み、いつもの静けさが戻っていた。
あすかは床に腰を下ろし、墨をすっている。
志津香は筆を整えながら、新しい課題に目を通していた。
そこに、真理子がノートを片手に入ってきた。
「ねえ……ちょっと、これ見て」
彼女が手にしていたのは、文化祭で使われた感想ノートの“原本”だった。
「この字……」
真理子は、ある一文を指差した。
「あなたたちの字は、嘘がないと思いました」
「……あ、それ。あったな」
あすかが頷く。
「この字……たぶん、あの子だと思う」
真理子は声を潜めた。
「一年の、瀬川さん。前に、私に“問って字、好きです”って言ってきた子」
「え、あのちょっと内気そうな子?」
志津香が言う。
「うん。話すのがすごく苦手みたいだったけど、あの展示の日、一人でずっと作品を見てて……。
たぶん、誰にも気づかれないように書いていったんだと思う」
沈黙が流れる。
「……よし」
あすかが急に立ち上がった。
「お礼言いに行こ。こういうのって、言葉にしとかないと、ダメなんだって最近思うようになってきた」
「うん。私も、ちゃんと伝えたい」
真理子が続いた。
「“ありがとう”って、ちゃんと口にするの、実は私……書くより緊張するけど」
「だからこそ、言葉で言わなきゃね」
志津香が微笑んだ。
放課後、三人は瀬川莉子を呼び出した。
図書室の奥で静かに本を読んでいた彼女は、少し驚いた顔を見せたが、三人の姿に気づくと、おずおずと立ち上がった。
「瀬川さん、文化祭の感想ノート……書いてくれたよね?」
あすかの問いかけに、瀬川は一瞬目を見開き、それからおずおずとうなずいた。
「ご、ごめんなさい……名前、書けなくて。でも……すごく、心に残ってて……どうしても何か、伝えたくて……」
「ありがとう」
真理子が、小さく、でもはっきりと言った。
「瀬川さんの言葉、すごく、私たちに届きました」
「“嘘がない”って言ってくれたの、あれ……多分、うちらが聞きたかった言葉だったんだよ」
あすかが言った。
「言葉にするのって、怖いよね。でも、伝えてくれて嬉しかった」
志津香も静かに続けた。
瀬川は、目に涙をためながら、そっと頭を下げた。
「……私、書くのが苦手で。話すのも、怖くて。でも、あの日、三人の字を見て、初めて“字って言葉になるんだ”って思えたんです」
「うちらも、同じだよ。話すのが苦手で、だから筆で叫んでた」
あすかが笑った。
「筆の力って、すごいね」
真理子が小さく言った。
その日、四人は長くは話さなかった。
でも、たしかに“ありがとう”が通じた。
そして、“伝えたい”と思った気持ちが届いた。
それは、筆だけでは伝えきれないことがあるからこそ、
言葉が、やっぱり必要だと思える瞬間だった。
そしてその「ありがとう」は、
三人にとって、最初の――けれど、何よりも大切な“感謝の筆跡”となった。




