【第33話】志津香、教えるということ
秋の終わりの木曜。
放課後の書道室には、柔らかな陽が差し込んでいた。
「佐々木先輩、ちょっといいですか……」
声をかけてきたのは、書道部の一年生・中山莉央。
志津香は、軽くうなずいた。
「うん、どうしたの?」
「この“永”の字、何回書いても、右払いがうまくいかなくて……。筆先が、途中で震えちゃうんです」
差し出された半紙には、何枚もの“永”が並んでいた。
ぎこちないながらも、真面目に書こうとした線の痕跡がある。
志津香はしばらく紙を見つめたあと、穏やかに言った。
「すごく丁寧に書こうとしてるの、伝わるよ。でも、たぶん、腕に力が入りすぎてるんだと思う。リラックスして、手首を少し浮かせてみて」
「手首……浮かせる?」
「うん。あと、“止め”を強く意識しすぎると、次の線にうまくつながらないの。
筆を“引いていく”って感じで。……やってみて」
莉央は緊張した様子で筆を握ると、息をひそめて一字書いた。
「……どうでしょうか」
「今の、すごくよかった。最後の払い、前よりずっと自然になってた」
莉央の顔が少し明るくなった。
その表情を見て、志津香の胸の奥に、ふわりと何かが灯る。
(“できた”って思ってもらえること、こんなに嬉しいんだ……)
自分が書くことに夢中だった頃には、気づかなかった感情。
誰かの“できた”を一緒に喜べる、そんな温かい感覚。
でもそのあと――
「佐々木先輩って、最初からすごく上手だったんですよね?」
その言葉に、志津香の筆が一瞬止まった。
「……ううん。むしろ、最初は“上手く見せる”ことばっかり考えてた。
本当に“書けた”って思えたのは、きっと最近だと思う」
「えっ、でも……あの展覧会の“澄”、あれ、すごかったです」
「ありがとう。でもね――」
志津香は、自分の書を思い出す。
“美しくあろう”とすることにとらわれていた日々。
“正しさ”を信じて疑わなかったあの時間。
「私、ずっと“教わる側”だったから、今日みたいに“教える”の、すごく不安だったの。でも……教えるって、自分の言葉で、書を説明するってことなんだね」
「自分の言葉で……」
莉央がつぶやく。
「“見て覚える”も大事だけど、“言って伝える”のって、もっと難しい。でも、そうやって誰かに伝えていくことで、私自身も“なぜ書くか”って問い直せる気がするの」
外から吹き込んだ風が、紙をひらひらと揺らす。
志津香はそれを押さえながら、少し微笑んだ。
「また分からなくなったら、いつでも声かけて」
「はいっ!」
莉央の返事には、ほんの少し、芯があった。
志津香は、またひとつ、筆の深さを知った。
“書ける”ことと“伝えられる”こと。
それは違うけれど、どちらも“書道”の道だった。




