【第102話】後輩たちの筆
春の光が差し込む書道室。
机の上に並ぶ半紙の白が、どこかまぶしく見える。
「うーん……なんか、上手く書けないなぁ」
伊藤が筆を置いて、ため息をついた。
「何度書いても、線が迷ってる。……気持ちがそのまま出ちゃう感じ」
山根が眉を寄せながら言う。
「うちは……“書けてる”けど、“何も伝わってない”気がする」
結子の声が、わずかに震えていた。
そこに、あすかがふらっと顔を出した。
「なんや、春からうじうじしてるやん」
軽く笑いながら、三人の机を覗き込む。
「う、うじうじしてませんっ」
伊藤がむきになって返す。
「せやけど、うまく書かれへんってのは本音やね」
山根が素直に言う。
あすかは少し黙ってから、自分の筆を持ち、空いている机に向かった。
墨をすり、半紙を広げる。
そして、一筆。
**「荒」**という字が、豪快に、しかし不思議と整った線で書かれていく。
「うまい字って、なんやと思う?」
あすかが、筆を洗いながら言った。
「……バランス? 正確さ?」
伊藤が首をかしげる。
「いや、気持ちが伝わる字?」
結子が言う。
「それもあるけど……うちは、“その人の線”が出てるかどうかやと思う」
あすかが書いた「荒」の字には、まっすぐで、少し無骨で、でも温かい線があった。
「後輩たちの字、最初から完璧である必要なんかない。
せやけど、“自分で書いてる”って感じることが、大事なんやで」
三人は、黙ってその字を見つめていた。
志津香や真理子が言っていた言葉も、思い出されてくる。
「うちらの筆、ちゃんと前に進んでるのかな……」
山根がぽつりとつぶやいた。
「進んでるよ。ただ、迷いながらやけどな」
あすかが笑う。
「迷った線も、ぜんぶ自分のもんにしたらええ。
それが“うちらの後を継ぐ”ってことや」
その言葉に、三人の中で、何かが静かに変わった。
この筆は、先輩たちのものじゃない。
自分の手で握った瞬間から、“自分の線”になる。
伊藤が、新しい半紙を広げる。
山根も、深く息を吸って筆を構えた。
結子は、最初の一画に、勇気を込めて力を込めた。
春の光の中、三つの線が、それぞれの方向へと進みはじめた。
三年生の背中を追うだけでなく、“自分たちの筆跡”を描くために。
新しい書道部の一年が、本当に始まりつつあった。




