【第10話】真理子の決意
書道室の窓から差し込む光が、ゆっくりと机の上を移動していた。
筆を持つ手が止まる。
山下真理子は、目の前の半紙をじっと見つめていた。
「……うまく、書けないなあ」
細くつぶやいた言葉に返事はなかった。
今日は、あすかも志津香も用事で遅れていた。
書道室には、真理子ひとり。静かで、少し心細い。
彼女の前には何枚もの半紙があった。何度も書いた「心」の字が並んでいる。けれど、どれもピンとこない。筆先が、迷っている。
「なんで書いてるんだろ、私……」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で驚いた。
書くのが好きだと思っていた。でもそれは、「誰かの後ろで」「失敗しない程度に」「迷惑をかけないように」書くことだった。
でもそれって、本当に「好き」なのかな……。
そのとき、不意に机の端に置かれた感想ノートが目に入った。
先週、三人で書いた合同作品の展示に、通りすがりの生徒が書いていった感想。
――『まんなかの“和”、なんかあったかい感じがして好きです』
――『三人の書、全然違うのに一緒に並ぶと変な迫力がある。いいと思った』
思わずページをめくる手が止まる。
誰かの言葉が、自分の書に向けられている。自分の名前は書いてないけど、自分の字だとわかる。
「伝わった……のかな」
心の奥で、ぽっと火が灯るような感覚があった。
書くことは、誰かと繋がれることなのかもしれない。
その瞬間、扉が開いた。
「真理子〜! 遅れてごめん、体育の顧問に捕まってさー!」
あすかがドタバタと駆け込んでくる。
そのあとに、静かに志津香も続いた。
「……あれ? 一人で書いてたの?」
「うん。うまく書けなかったけど、でも……書きたくなって」
真理子は、迷いなく答えていた。
あすかがにっと笑う。
「お、なんかやる気出してんじゃん!」
志津香はそっと真理子の書いた紙を手に取り、目を細めた。
「この“心”、今までで一番、芯がある」
「……ほんと?」
「ええ。本当に“あなたの字”になってきてる」
真理子は、胸の奥で何かがほぐれていくのを感じた。
そうだ。
うまくなくていい。まだ下手でもいい。
でも私は、書きたい。
この場所で、二人と一緒に、もっと。
「よし。私も、ちゃんと書く。負けないように」
そう言った真理子の表情には、確かな決意が宿っていた。
彼女の“書道部員としての第一歩”が、いま、踏み出されたのだった。




