【第11話】墨の海、心の波
「今日の課題は、自由」
顧問の田島先生がそう言って、いつものように教室をあとにしたあと、書道室に静かな緊張が漂った。
「自由って……なに書いてもいいってこと?」
あすかが首をかしげる。
「うん。何でもいいって、逆にむずかしいよね……」
真理子がそっと答える。
「そうね。決まった課題があるほうが、むしろ安心できる」
志津香が静かに言った。
けれど、その言葉とは裏腹に、三人はそれぞれ筆を取った。
あすかは真っ白な紙を前に、眉をしかめた。
(何書こう。勢いでいく? でも、この前みたいに暴れたら、また志津香に怒られるかも……)
手が止まる。
志津香はというと、何度も墨をすっていた。紙の前に座っても、筆はなかなか上がらない。
(書きたい言葉が……浮かばない)
いつもなら、技術や構成を考えて書いていた。でも「自由」と言われると、そこにぽっかりと穴が開いたような気がした。
一方、真理子は、静かに紙の端に「迷」と書いた。
その字はたしかに未熟で、筆の運びも不安定だったが、どこか生々しい熱を持っていた。
その瞬間、あすかが動いた。
「もういいや、これ!」
大きく筆を走らせ、「叫」という一文字をぐいと書き上げた。
墨が飛び、線が荒れ、紙がぐにゃりと波打つ。
「それ……今の気持ち?」
真理子の問いに、あすかは、笑ったような、泣いたような顔でうなずいた。
「わかんねーけど、なんか、叫びたかったんだよ」
志津香は黙っていた。けれど、真理子とあすかの字を見つめたあと、自分の紙にそっと筆を置いた。
彼女が書いたのは、「澄」。
墨の流れがやわらかく、線には深い呼吸のような静けさがあった。
「……これが、わたしの波」
志津香は、ぽつりと言った。
三人の前には、それぞれ違う“海”が広がっていた。
荒れ狂うようなあすかの“叫”。
迷いながらも前に進む真理子の“迷”。
静かに満ち引きする志津香の“澄”。
墨のにおいが書道室を満たす。
その香りは、不思議と落ち着く匂いだった。
「……字って、気持ちがにじむんだね」
真理子の声に、ふたりがうなずいた。
誰も教えてくれなかった。
けれど、確かに知った。
書とは、墨の海に心の波を落とすことなのだと。




