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筆の軌跡 **「未」**  作者: 南蛇井


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【第9話】志津香の静けさ

放課後の書道室。

 天童あすかと山下真理子が、にぎやかに筆を走らせていた。


 「これさ、勢いで書くと気持ちいいよね〜!」


 「うん……でも私、まだバランス取るので精一杯」


 二人の向かい側、佐々木志津香は、何も言わず筆を取っていた。

 その姿は、まるで音を立てない湖のように静かだった。


 筆の入り、運び、抜き。すべてが滑らかで無駄がない。

 まるで彼女自身が、書の一部に溶け込んでいるかのようだった。


 しかし、あすかは思った。


(……なんか、冷たくね?)


 昨日の“暴走騒動”以降、志津香は言葉を減らしていた。あすかの書き方を咎めたつもりはなかったのかもしれない。でも、あの静けさの中には、明らかに距離があった。


 「ねえ、志津香。なんか怒ってる?」


 そう切り出したのは、あすかだった。


 志津香は、ゆっくり筆を紙から離す。


 「怒ってない。……ただ、集中してるだけ」


 「そうかな。なんか、話しかけたら筆が止まりそうでさ」


 「……止めるのは、私の問題。あなたのせいじゃない」


 それだけ言って、志津香はまた筆をとった。

 でも、その線は、どこか硬かった。


 真理子は静かに言った。


 「志津香ちゃんの字、きれいで、すごく整ってて、わたし……ちょっと怖いときある」


 志津香の手が、ぴたりと止まる。


 「怖い?」


 「うん。完璧すぎて、気持ちが読み取れないときがあるの。なんていうか……閉じてるみたい」


 あすかが続けた。


 「わかる。うまいのに、“伝わってこない”って感じ。……本当の志津香が、どこにいるか分かんねーなって」


 沈黙。


 しばらくして、志津香は筆を置いた。


 「……子どもの頃、言われたの。“あなたの字には感情がない”って」


 あすかと真理子が目を見開く。


 「だから、練習した。“感情が見えなくても、美しい字”を。それが……わたしにできることだって思ったから」


 声は静かだったが、その奥にあったのは痛みだった。


 あすかはそっと笑った。


 「バッカじゃないの。感情なんか、勝手に出るもんでしょ」


 真理子もうなずいた。


 「わたし、今日の“静”の字、好きだった。あれは、たぶん……寂しさだったと思う」


 志津香は驚いたように二人を見た。

 それから、ほんの少しだけ、息を吐くように笑った。


 「……よく、見てるのね」


 その笑みは、いつもの凛とした表情とは違っていた。

 静けさの中に、初めて“ぬくもり”があった。


 その日、三人はあまり書かなかった。

 けれど書道室には、静かな変化の気配が漂っていた。

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