第三節「空白」
黒武山は標高約九〇〇メートル、支丞市の北やや東寄りの場所にある山である。昔から、霊山として周囲から崇められており、今でも山伏が修行に来たりしている。
そんな黒武山にまつわる伝説は非常に多い。どんな病気でも治してしまう泉があるとか、烏天狗の親戚が住んでいるとか、内容としては他愛のないものが多いが、ここがそれだけ地元民と密接に関わってきた場所であることを示しているのは確かだ。
今、銀埜と玄恵は隆希たちと別れ、黒武山ふもとの黒竹商店街付近までやってきていた。
銀埜は歩きながらあたりを見回して眉をひそめた。
「なあ、気のせいならいいんだけどさ。さっきから誰とも会ってないよな」
「それは気のせいじゃないでしょ」
玄恵も当然ながらそのことには気づいていた。なにせ、人の気配が全くないのだ。
人通りがないだけではない。家の中に引きこもってるわけでもないらしい。真夜中ならともかく、まだそんな時間でもない。
確かに、街の外からは魔術師以外は入れないようになっているから、外部から人間がくることはそうないだろう。
しかし、そうであるなら、もともと結界の中にいた住民たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
銀埜はしばし考えこみ、ひとつの仮説を思いついた。
「考えられることとしては、住民がまるごと転送されたということ」
「そんなわけないじゃない。単に人口だけ考えれば十万人強いるのよ」
玄恵にすかさず返され、銀埜は口をつぐむ。
いくら強力な魔術使いでも、超大規模結界を張るのと十万人もの人間を消すのとでは規模が違いすぎる。
「そんなことよりも、私たちが実は支丞じゃない場所にいるっていう可能性は? 数人程度の転送なら出来るはずだから」
「その根拠は?」
銀埜の冷静な返しにむっとしながらも、玄恵は自分の中で思い出したことを話した。
「半月ほど前、アストライア・スピカの一件の時のこと覚えてる?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、あのとき蒼河くんが受けたっていう、空間断絶系の魔具のことは」
「…………そういえば言ってたなあいつ」
ふとしたところで遭遇したアストライア・スピカという幼い魔術師を追跡した隆希は、そこで空間断絶の魔術を受けてしまった。その話を隆希が玄恵たちにしたときに、銀埜は確かにスピカについて調べていた。
「あの時に調べた限りでは、スピカ本人の魔具ではなさそうだったな」
「そう。じゃあ、誰のものかってことなんだけど、もしかしたらヘスティアの魔具なんじゃないかって。彼女は、空間系の魔術にも長けているんじゃないかな」
「そうか……。じゃあこの街を包んでた結界はある種の選別装置なのかもしれないな。ここが仮に擬似空間だとして、もしかしたら俺たちすでに意識体だけで動いていて、体は結界の外に落ちてたりしてるかもな」
そうなれば笑いものだ、と銀埜は自嘲気味に鼻で笑った。
「笑い事じゃないわ。実感としては、現実世界そのものだし、とはいえ擬似空間はそう思わせるものだしね。敵地のど真ん中に足を踏み入れてるんだからそれだけでも警戒しないと……」
商店街を抜け、数分歩いたところで山を登る道のちょうど入り口に当たる。山を登ることのできる車道の中で一番大きい道だ。この道をたどれば山の中央付近まで登ることができる。
「結界の陣があるとしたらどこだと思う?」
「そうだな。気の集中してる山頂付近じゃないか? あ、そうだ。神社があったろ。上の方に。そこじゃないか」
「あー、そういえばあったね」
黒武山の山頂付近には街の人にも親しまれている神社がある。そんなに大きな神社ではないが、夏には夏祭りもあるし、元旦には初詣の客で賑わう。
銀埜が前に何処かで聞いた話によると、その神社の歴史はかなり古いらしい。
魔術陣が敷かれている場所としての可能性は十分にあるといえよう。
「ところでさ、銀埜。華雪友香のことなんだけど」
「ん?」
玄恵はふいに彼女の名前を口にした。
今回の事件に関わった人物。今回の事件の発端となった人物。
「彼女の変容、それについてどう思う?」
玄恵の言葉に、銀埜は一瞬だけ足を止めた。またすぐ歩き出しながら、銀埜は質問の意図を探るように問い返した。
「どうってそれはつまり、魔術師であることを拒否したはずの彼女がってことか?」
うん、と玄恵はうなずく。
友香について疑問を抱いているのは玄恵だけではない。銀埜ももちろんそうだったし、隆希や美波についても同じことだ。
はじめに会ったときと雰囲気が変わりすぎている――もっとも、はじめに会ったときが彼女がハナユキトモカによって軟禁されてるときだったので、彼女の平生ではなかったが――気がするのだ。
玄恵が、華雪友香の一件のとき彼女について集めていた情報では、少なからず今の友香の姿と食い違いがある。
魔術師であることをやめ、一般人になろうとした、現代で言えば普通の少女のはずだった。若い世代が、魔術の世界に背を向けるのは昨今ではそう珍しくはない。それが時代の流れというものだ。
「確かに、彼女の魔術に対する知識量は、魔術師の世界から離れていたはずの人間にしては異常すぎるな。でも、魔術師になることを拒んだあとも、未練のようなものがあって勉強していた、ってこともあるんじゃないのか」
銀埜の言葉に玄恵は首を横に振った。
「それはないと思う。だって、彼女の今いる家の人間は魔術師ではないし、魔術師の存在を知っている人間だとしても、魔術関連の知識を集める手段がないわ。時代が時代だしね」
「むぅ」
銀埜は難しい表情で黙り込んだ。
「ねえ、銀埜。彼女、もう一人のハナユキトモカに似てなかった」
玄恵はそっと呟いた。銀埜は黙ったままで反応しない。ただ、ほんの僅かにはっとした表情になった。
「彼女の副人格の分離体。まあ、そりゃあもともと彼女自身なんだから、あのハナユキトモカも元の華雪友香の一部というのはたしかにそうなんだけどね。あまりにも似すぎてるんじゃないかって」
「それは確かにそうだな。元々の彼女について、俺はあまり知らないが、分離されたハナユキトモカに似ていることは似ていたな。雰囲気とかが」
「そう。情報によると、彼女はもう少し明るい元気な性格だったらしいんだけど、ちょっと今は違うみたいだから」
玄恵たちも閉じ込められていたあの倉庫から助けだされた友香は何事にも冷静に見えた。人間、ずっと狭い空間に閉じ込められていれば、確かに性格も変わってしまいそうなものだが、その友香の姿やまとうオーラのような何かはハナユキトモカに酷似していた。
「銀埜、副人格と主人格の相互作用ってあるのかな」
「なんだ、突然」
「彼女は副人格が今も無いんだよね」
「ああ……」
そういえばそうだ。
分離した副人格は、友香自身にコロされた。
人間の人格は二つの人格から成り立っている。その片方が失われることはめったにない。友香の性格の変化が、副人格が失われたことに起因しているとも考えられる。
「彼女自身が、認識してしまった副人格に近づいていっているようで」
「でも、そうだとしても、それは今はどうでもいいことだろ。彼女自身、自分の意志ははっきり持ってる。暴走するようなことはないさ」
「でも……」
玄恵はまだなにか言いたげだったが、前方に神社の方向と距離を示す立て看板を見つけるとそこで口をつぐんだ。
古ぼけた木の立て札は神社がこの先、五分ほどのところにあることを示していた。神社の名前のところは掠れていて読み取れない。
立て札通り、それから五分ほど歩いたところで神社に辿り着いた。幾らかの石階段を登ると、朱塗りの鳥居が出迎えた。
鳥居を抜けると、神社の手前は広場になっている。夏祭りのときなどは、沢山の人で賑わう場所だが、今は人の気配がなく、そのかわりに異様なものが地面に描かれていた。
「銀埜、これ……」
「ああ。魔術陣だな」
地面に描かれていたのは直径にして約五、六メートルほどの魔術陣だった。いくつかの魔術陣が組み合わさった複合型の陣だった。大きな陣と小さい陣で構成され、全体が淡い光を放っている。大きな陣は平面的なものだったが、小さな陣は半球状になっていた。
銀埜は魔術陣の際に立つと、屈み込み魔術陣をじっと見つめた。
「うん。大規模結界のパーツとしては十分なものだ……。たぶん、最外郭結界の魔力安定もこの陣がやっているみたいだな。こりゃあ解呪には手間がかかるぞ」
「私にもなにか手伝えることがあったら言ってよ」
そう言って玄恵は銀埜のとなりにしゃがみ込む。
「ああ、そうしてほしいが……。それにしても、なんだかおかしいな。この陣の感じ……いや、これはオドか。このオドどこかで」
気になることを見つけた銀埜は陣を詳しく解析するために、詠唱をしようとした。
ちょうどそのときだった。二人の後方から足音が聞こえた。
二人は驚いて振り返る。
「お前は――」
そこにいたのは、
†
だいたい、もとより失われたものなんてなかったのかもしれない。
†
もとより失うものなんてなかったから、私はただ得るだけだった。
†
隆希、美波、そして友香の三人は、例のメールの場所と思われる支丞市東の杭森地区を目指していた。
隆希たちのほか、人っ子一人いない道。しかし、道端の電線の上には黒黒とした羽根の烏がやたらと目についた。煩いほどに鳴き声が響く。
幻の夕空の下、烏の鳴き声を背景音に、何故か前方に桃の木が見えてきた。




