櫻野さんは話したい
昨日は女の子を一人、泣かせてしまった。何て罪作りな大人、などと冗談でも思いたくない。相手は晶君の同級生、つまり13歳。花も恥じらう中学生の乙女だ。そもそも泣かせたと言われても身に覚えがない、全くない、断固としてない。しばらく、いや、相当な時間、路上で向かい合い無言で立ち尽くす彼女にいたたまれなくなった私は(悪いけど晶君、この子と一緒に帰れます?ゴメンね、急いでるから…後はお任せします)と、彼女の対処を知人であろう晶君に丸投げして、早足で帰って来てしまった。だが、責任放棄とは言わないでほしい。こちらも突然の出来事に混乱していた。それにしても思春期の子供達はよく分からない。自分の時はどうだったのかなんて、今時の子と比較対象するだけ無駄。30年前とは時代が違うのだ。そもそも記憶の限り、私は彼女と面識がない。まさか人違い?人違いで泣かれても迷惑と言うもの。しかも何かの因果で私が彼女を泣かせたとなれば、晶君も良い気分ではないのでは。むしろ関係性を疑い始めるだろう。断じて誓うが、面識はない。過去から現在に至るまで櫻野なる子女との接点はない。親か?親なのか?確かに親であれば、私と知り合いである可能性は多少なりとも出て来るのか、同世代として。ただ「櫻野」と言う姓を持つ友人知人は思い当たらない…旧姓?母親側の名前か。いや、知り合いに旧姓櫻野もいない。そもそも私は友人が少ない。家族ぐるみで面識を持つ知り合いもごく少数。となればやはり人違いでまず間違いないだろう。晶君に何といえば良いか言葉は見つからないが、会って話せば万一の誤解も何とかなるハズ。私には一点のやましい所もない。そう、大丈夫。
うだうだと寝起きから思考を巡らせる。全ては予想される面倒事への対処の為に尽きる。やはり、私に思春期との会話は早過ぎたのか。因果応報、目下の少年と浮かれて調子づくものではないな。軽い反省の結論に至りつつある。
とにかく今朝は食欲が湧かない。と言っても毎朝何も食べない、飲むのは水だけ、が習慣である。今朝だけ湧かないと意識するのは毎日のそれに対して不公平かも知れないが、これは安易な被害者ムーブではない。傷付き易い40歳独身男の心の内をどうかご理解頂きたいものだ。
取り留めのない言い訳をツラツラ考えながらドアを開けた目の前に彼女は立っていた。は?嘘だろ?
「おはようございます」
「…」
絶句絶句とよく聞くけれど、玄関開けたら昨日の子が立っていた。隣には気まずそうな晶君。えっと…何してるの?
「…おはようございます」
「…」
私が気まずい気分になるのは可笑しな話。ここは堂々とした態度を示して良い場面。
「何……してるんです?」
「お待ちしていました」
随分丁寧な物言いですね。お待ち?尊敬語なのか。君に尊敬される謂れはない。そもそも君は誰、私は何処。ここはマンション、オートロックだよ。ああ、晶君か。君が招き入れたのかね、プライバシーはどうした、君の知人友人とは言え、そう易々と招き入れられても困るのだよ。先ずはアポイントを切って欲しい。私も今からお店、君等は学校だ。…9時過ぎてるが?
「学校は?」
「夏休みです」
「なるほど」
「昨日は失礼致しました」
「いえいえ」
「お話をさせて下さい」
「お話?」
「はい」
今から話と言われても、インターフォンを鳴らすのが先ではないのか?と言いたい。言いたい所だがそこは大人、グッと我慢もしよう。私も忙しい、お店までは5分で歩けるが、開店の準備もある。そう、10時には開店しなければならない。ただ、モーニングはない。数種類の珈琲に紅茶、幾つかの甘味しかない。それでも暇ではない筈だ。
「歩きながらでいいですか?お店まで付き合って頂ければ、コーヒーでも」
「光栄です」
光栄?随分仰々しい物言いだ。初めて言われたよ、光栄ね。私も光栄だ。エレベーターの前まで歩きながら軽口を叩くつもりが、続く自己紹介に遮られる。
「ご無沙汰しております、猊下」
「…」
思わず晶君の顔を見た。けれども、彼も明らかに困惑している様子。猊下?猊下って何。
「…櫻野さん、ですか。ご丁寧にどうも。肥田です」
「…」
エレベーターの三人は沈黙する。稼働時間がやけに長い。息の詰まる感覚を覚えながらエントランスへ開放されると、早歩きしたくなる衝動を抑えながら、それでも彼等の歩幅を忖度して一応歩みを合わせる努力はするつもり。我ながら誠実な大人ではないか。
「猊下は珈琲がお好きなんですね」
猊下呼びは気になるが、一々話を止めても埒が明かない気がして来た。ここは穏便に流そう。
「好きですよ」
「紅茶を好まれておられましたが」
「紅茶も好きですね」
「駅前で喫茶店をされておられると伺いましたが」
「雇われ店長です」
「今日は何時に終わられるんですか?」
「仕事?」
「お仕事です」
「9時に閉めて…退店は10時前あたり、です」
「…10時にお会いしていただけますか?」
「それは無理でしょう、貴女には遅過ぎます」
「では…お休みの日にでも」
「お休みも忙しくて、申し訳ありません」
「ではどうすれば」
「先ずは用件をお聞かせ下さい」
「用件…」
「私と君は初対面…昨日ぶりですか。ただ、私は君を知りません」
「知らない…」
溜息を呼吸に代えて歩く。体感速度では5分はとうに過ぎているハズだ。下り坂がやけに長い。今日は朝から忙しい。夏休みの中学生は暇なのか。晶君、櫻野さんを何とかしてくれ。お店の前に着く瞬間、扉の前に割り込む華奢な体。櫻野さんどいて、鍵が開けられない。
「私をお忘れですか?」
「忘れる?すみません…昨日が初めてかと」
…そうですよね、この姿でお分かりにはなりませんよね。櫻野さんは考えている。




