下心
5章ラストです!
お楽しみください!
強い向かい風が俺に叩きつけられる。
目の前に立つニーナちゃんの銀色の絹のような髪が流されて俺の身体に少し掛かるが、しかしそれを気にかける余裕もなく、俺は今しがた銀色の美少女から放たれた言葉にショックを受けて固まっていた。
セックス。
単語はいくらでも聞いたことがある。
性行為。
見たことはある、借りてきたAVで。
でも、自分が実際にしたことはない。
そういったセクシャルな話題は友人たちとの会話で稀に上がるが、それをどこか遠い出来事のように感じている自分がいた。
恋愛経験が無く、彼女もいたことのない自分にとって、それは幻のように不確かな存在だったのだ。
しかし今目の前に圧倒的なリアルさを持って、その単語が俺に突きつけられていた。
「カズキさん。私としませんか……?」
渇いた喉からは返事の言葉が出てこない。
潤そうと、唾を飲み込もうとするが唾液も出ない。
口の中までカラッカラだ。
しかし、何かを言わなければならないと、かすれた声を何とか絞り出す。
「何で……急に、そんなこと……?」
狼狽えて途切れ途切れになる俺の言葉に、ニーナちゃんは口元に薄い微笑を浮かべて間を空けに切り返す。
「決まっています。私がカズキさんとしたいからです」
「……何で、俺と……?」
「言ったでしょう、公園で。カズキさんは初めて『王女ではない1人の女性』として私を見てくれた。初めて私に触れてくれた、そして初めて性的な欲を向けてくれる純粋な男性でした。そして、そんなあなたに私の胸も熱くなったのだと」
「で、でも俺は……」
「カズキさんは私を抱いて、きっと満足するハズです」
有無を言わさぬ口調で、ニーナちゃんはそう断言する。
それは自分の美貌と身体への自信がそうさせるのか、それともーー
「カズキさんは、何で私がそこまで断言できるのか気になっている。そうですね?」
「……ああ」
言い当てられたことに驚きは無かった。
ニーナちゃんの洞察力は深く、鋭い。
自分に何を言われたら俺がどう考えるか、そのくらいの先読みをして筋書きを作っているんだろう。
この場に会話は必要なかった。
俺は相槌を打つだけ、ニーナちゃんの言葉の先を促すだけの存在でしかないのだと、強い意志を感じる冷たい瞳が俺を抑えつけている。
「大した話ではありません。あなたの身体が、あなたの本能が、私を求めている。ただそれだけです」
分かるでしょう? と差し向けられた視線が、あの時の部屋の熱気を俺の頭へ運んできた。
制御の効かないこの腕がニーナちゃんの背中に回され、下着を剥ごうと指を動かしたその感覚までもがありありと思い返される。
胸板に押し付けられた柔らかな感触が、鼻にかかった甘い吐息が、確かに俺の本能を突き動かしていたのだ。
何も反論できない。
いや、反論する必要さえなかった。
否定する材料などどこにも見当たらなかったのだから。
俺は苦し気な表情を下に向け、ニーナちゃんの言葉を、そして自身の記憶を受け止めていた。
拠り所なんてさっぱり分からない、何だか恥ずかしいような悔しいような感情がグルグルと心の内で回っている。
「アイアちゃんのことは、大切ですか?」
突拍子もなく出てきたアイアという名前に俺はハッとして顔を上げた。
「そりゃあ……大切だよ」
「そうですか。それは女の子としてですか? それとも幼馴染として……つまり友人としてですか?」
「え……?」
「女性としてのアイアちゃんを大切にしているんですか? それとも友人としてのアイアちゃんを大切にしているんですか?」
重ねられたその問いに、俺は答えを返せない。
それは、尋ねられるまでもなく、自分自身で疑問に思っていることだった。
俺はアイアをどういった対象として大切に思っているのか。
最初は、子供の頃はきっと友人としてだっただろう。
それから何年も一緒に友人として過ごしてきた。
でも今、アイアのちょっとした女の子の仕草にドギマギするようになって、ワキなんかにも目が行くようになった。
だから今現在、俺が大切に思っている点はーー
「ーー分からないんですよね?」
俺の思考にピンを打つように、ニーナちゃんが答えを先回りする。
「だから、不用意に今の関係性を変えたくなかったカズキさんは『一歩』を踏み込まなかった」
お見通しとばかりに、俺の胸の内が露わにされていく。
そして、ニーナちゃんによる俺の心の言語化は、雨の日から俺のことを絶えず悩ませてきた不確かな感情にまで及ぶ。
「カズキさん、あなたがアイアちゃんに抱いていた感情を教えましょうか?」
慈悲深ささえ感じられる表情を、ニーナちゃんは俺に向けている。
それは無知な子羊に『教え』を授けようとするような、1つ上の目線から投げかけられるような言葉だ。
しかし俺は感じ取っていた。
これから俺に授けられるのは『教え』じゃないと。
「やめてくれ……!」
俺の懇願に、ニーナちゃんは頭を左右に振ることで応える。
「聞きたくないんだ……ッ!」
俯き、泣いているかのような哀れな声を上げてしまう。
そんな俺に構うことはなく、いつの間にか間近へと迫ったニーナちゃんが、俺の耳に唇を当てるように囁いた。
「『下心』ですよ……。自分の色で汚したいという、ただの男の欲望でしかありません……」
「……ぅあっ」
容赦なく突き付けられた『罪』に、俺は呻き声を上げる。
そしてニーナちゃんは畳みかけるように続けた。
「そして同時に私に向けられている感情も『下心』です……。そして、私はそれでいいんです。私がカズキさんに向けているこの感情も『下心』に違いないんですから」
分からない。いや、分かりたくない。
俺は怯えたような目をしていることだろう。
認めてしまったら、気付かずに今まで自分が被ってきた人間の皮が、全て剥がれてしまう気がしていた。
自分の中に、卑しい獣のような感情が潜んでいたなんて思いたくなかった。
突然、震える手が包まれた。ニーナちゃんの冷たい両の手のひらに。
俺を見上げた瞳には、ドロドロと渦巻く劣情は無く澄んでいるように見えた。
しかし垂れ下がった眦が、どうしようもなく淫靡な印象を俺に与える。
「カズキさんが向ける感情は、私とアイアちゃんで変わりませんよ。同じ『下心』です」
「それ、は……」
「アイアちゃんだったら『下心』を元に踏み出された『一歩』に、傷ついていたかもしれません。でも、私は違うんですよ……? 私なら、カズキさんの全てを受け止められるんですよ……?」
その誘惑に、心が激しく揺さぶられた。
そしてダメ押しとばかりに、彼女は胸を張って俺の瞳を覗き込むかのようにして俺に訴えかける。
「カズキさん、あなたの『下心』を向けられる女の中で、私以上の女はなかなかいないと思いませんか……? 私を最上の女として、抱けると思いませんか……?」
吐息のかかる距離で紡がれる言葉が、どうしようもなく甘く耳を打った。
前に傾いてしまいそうになる。
包み込んでくれるその手を握り返したいと思った。
しかしーー
ーー俺がその場で何かを答えることはなく、時間が経つ。
それは腹の底から上ってくる欲望を制御できたわけではなく。
ニーナちゃんの言に差し挟む異論があったからというわけでもなく。
みっともなく下らない、男としての矜持だった。
一方的に言われるがままの俺の、唯一の抵抗。
ただそれだけだった。
そんな俺に興が削がれたのか、呆れたのか、ニーナちゃんが俺から目線を逸らして手を放す。
俺は離れゆく手の感触を惜しむ素振りは表に出すまいと心に念じて耐えた。
ニーナちゃんは俺に近寄った歩数分だけ離れると、後ろを向いた。
「伺いますから」
「……え?」
どこに? という疑問を含めた問いだった。
そして返ってきた答えに、俺は息を呑む。
「明日の夕刻、カズキさんの部屋に伺いますから」
そう言うと、ニーナちゃんはパシャパシャと雨で濡れる路面を1人で歩き始めた。
本気だ。
ニーナちゃんは明日、本気で俺とセックスする気でいる。
振り返ることなく、ニーナちゃんの背中は小さくなっていく。
あなたの感情は全て『下心』なのだから、それを発散する相手に『最上の女』以外の何を求めるというのか。
回答の決まりきった質問を俺へと残して。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回から終章となります。
長らくお付き合いいただきありがとうございます、最後まで読んでいただけるととても嬉しいです!!
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