花の香り
ピンポーーーン
その音はやけに大きく部屋へと響いた。
ハッとして身を引く。
相変わらずヒューッと鳴るヤカン、額には気温の低くなった夜の空気に冷やされた汗を感じる。
深い海の底から急に陸へ返されたように、遮断されていた外の刺激が一挙に押し寄せた。
ピンポーーーン、と再び音が鳴る。
インターホンが押されている。
間を空けずにピンポーーーンと連続して音が鳴り、同時に部屋のドアを突き抜けた声に俺の目は完全に覚めた。
「カズキ!? いるんでしょ! さっさとドアを開けなさい!!」
この聴き慣れた声は、アイアのものだった。
それからの俺の行動は素早かった。
咄嗟にニーナちゃんの後ろに回していた手を戻し、上半身が露わなニーナちゃんの腰まで下りていたワンピースを慌てて肩まで上げて着させる。
何かを考える間もない。体が勝手に動いていた。
しかしその体を動かすものは先程俺の体を支配していたやましい本能ではなく、アイアとの付き合いの長さが悟らせた「この状況を見られたらマズいことになる」という直感だ。
絶賛テンパりながら行動を起こす俺はあぐらの上からニーナちゃんがどく前に立ち上がってしまい、その勢いでニーナちゃんは畳みに後頭部を強打し「ぎゃっ」と可愛らしからぬ悲鳴をあげる。
俺は俺でヤカンの火を止めようとコンロの方へ足を出そうとして卓袱台にすねをぶつけ、バランスを崩し受け身も取れないまま顔から畳に突き刺さるようにして転んだ。
「ちょ、ちょっと何やってるの!?」
ドッタンバッタンといった音に短い悲鳴まで混ざった部屋内の様子にアイアは流石に不審がってドアノブをガチャガチャ回し始める。
「だ、大丈夫!! だからちょっと待ってて!!」
俺はすねをぶつけ、そして顔面を畳みに強打した痛みに耐えつつかろうじて言葉を絞り出す。
立ち上がって二度深呼吸をし、ニーナちゃんの衣服の乱れをチェックし、ヤカンの火を止め、何も問題がないことを確認するとドアの鍵を開けた。
ドアの目の前に憮然とした表情で立っていたのは当然アイアだった。
「すごい音がしていたみたいだけど、何してたのよ?」
「い、いや…………。ちょっと、突然のチャイムにビックリして…………」
「インターホンくらいいつも鳴らしてるじゃない」
「今日はその…………、そう! ニーナちゃんと話すのに夢中になってたからさ」
俺の返答に訝し気な表情をするが、部屋の奥に座り変わりない様子でこちらに手を振るニーナちゃんを見て、それ以上の追求はしなかった。
「あ、そうだ。コレ」
アイアは短くそう言うと、手に持っていた紙袋を俺に押し付ける。
「これは……?」
「うちのママから。どっかのお土産よ。カズキに渡したいって言っていたから、ニーナを迎えに行くついでに渡しちゃおうと思って」
「そうなんだ……、サンキュ。でもニーナちゃんなら俺が送ってくつもりだったから良かったのに」
「わ、私が散歩したい気分だったのよ…………」
アイアはそう言うと何故かバツが悪そうに横を向いた。
その横顔に一筋スルッと光る線が縦に流れる。
よくよく見ると首元にも蛍光灯の光に照らされて何か……。
するとまた、今度は顔の中心に向かって上から光の線が走った。
「お前、それ汗か?」
そう指摘するやいなや、アイアは顔を真っ赤に染め上げる。
「なっ、だっ、だったら何よ!? 悪い!?」
「い、いや別に悪いとは言ってないけど……。もしかして走ってきたのか?」
「ち、違うわよ!!!! 今日は暑かったんだからしょうがないじゃない!!」
「いやもう大分涼しいとおも………」
「何?」
「何でもないです…………」
気圧されてしまいそれ以上聞くのは無理そうだ。
これ以上その話題を続けようとすればアイアの逆鱗に触れてしまうのは間違いあるまい。
走ってきたのはお土産を届けがてらに軽く運動をしようと思い立っただけかもしれないしな。
まあでも…………。
「ちょっと待ってろ」
「へ?」
俺は洗面所に向かい、どれも結構使い込んではいるのだが、比較的綺麗でフワフワ感を保っているフェイスタオルを選ぶ。
そして玄関先に突っ立っているアイアの頭へとおもむろに被せてやる。
「なっ、何するのよ!?」
「この時季に汗かいたまま外歩いたら風邪引くだろ」
俺はアイアの髪をタオル越しにワシャワシャとかき回した。
「いいって、自分でやるから! 貸せ!」
アイアはそう言うと俺の持つタオルを引っ張って奪うと、自分の体を拭き始めた。
そして肌に流れる汗を一通り吸収させると、再び俺の部屋の中を覗き込み、ニーナちゃんへと声を掛ける。
「ニーナ! 食べ終わったんなら帰るわよ!」
「……はぁーい!」
ニーナちゃんは玄関に立つ俺の横まで来て、靴を履き外へと出た。
「カズキさん、今日はごちそうさまでした」
そしてご飯を食べたこと以外、まるで何事も無かったかのようにそいう言うと丁寧なお辞儀をする。
「あ、あぁ…………。こちらこそ、一緒にご飯食べれて楽しかったよ」
俺も極力自然を装って返事をする。
お辞儀から姿勢を戻したニーナちゃんの目はいつもと変わらない、宝石のように綺麗な色をしていた。
「じゃあ、私たち帰るから」
アイアがそう言って、ドアを閉めようとする。
「あ、ちょっと待て。タオルは?」
アイアはタオルを首にかけたまま去ろうとしていた。
「え? いや私使っちゃったし、今度洗って返すわよ」
「別に気にしなくていいって。どうせ明日俺も洗濯するし、一緒に洗うから」
そう言って、俺は首元のタオルへ手を伸ばすが、アイアは猫がビックリしたかのような素早い動きで身を引いた。
「だ、だからいいって言ってるじゃない! 汗を拭いたんだから汚いでしょ! 私の家で洗うから!!」
顔をまた真っ赤にしてアイアはどうしても譲らない。
「俺気にしないし。大体汚いもんでもないだろ」
しかし俺も譲らない。こういう時って何故だか分からないがお互いに引けなくなっちゃうんだよな。
でも俺としては勝手にタオルを差し出してるのは自分だったから、アイアにわざわざ洗って持ってこさせるのもな、という気持ちだ。
「汚いわよ! 汗が染み込んだもの置いとくとは臭うんだから!!」
「だから明日には洗うって言ってるだろ」
「そういう問題じゃないの!!」
「じゃあどういう問題だよ」
「ここにある、っていうのがそもそも問題なの!!」
「…………?」
母さんとかアネキとかアイアとかとはたまに言い争いになることがあるんだが、俺は大体相手の理屈がさっぱり分からないことが多い。
今回だって俺の主張に問題なんてどこにも無いはずだ。
匂い出す前に洗えばアイアにとって問題はなくて、そして俺は明日洗濯すると言っているんだから。
でもアイアが言うにはそれで問題は解決しないらしい。
もう何がなんやら、だ。
アイアはさっぱり分からないといった表情をしているだろう俺に溜まりかねて最後の爆発をする。
「だーかーらー!! 汗拭いて臭いかもしれない物を人の家に置きたくないの!! 察しろ!!」
目を瞑ってかなり思い切ったんだろう、ただでさえ真っ赤だったアイアの顔はさらに赤く染め上げられている。
だがーー
「別に臭くってもいいんだけど」
なんと言われようが俺は気にしないんだけどな。どうせ洗剤と一緒に柔軟剤も入れるし。
ていうかアイアは結構体臭気にするんだな。
もしかして結構キツかったりするのかもーー
「臭くねーよ!!!!!」
「ぶへっ!!」
恐らく今度は全く違う意味で顔を赤くしたアイアが大きく振りかぶってタオルを投げつけてきた。
そして俺の顔面へとクリーンヒット。
「もう勝手にすれば!!? 死ね!!!!!!」
アイアはそう言い残すと走り去っていった。
急激に訪れた玄関前の静寂の中で。
「別に臭くないな…………」
俺は顔面に投げつけられて張り付いていたタオルを取ると、そう独り言ちてドアを閉める。
まあ多少臭いがあったところで何だと言うのか。柔軟剤の香りの強さを知らないハズもないだろうに。
ただ、なんだろうか。その少し湿ったタオルには、最近俺の頭の片隅に気にかかっている何かと似た気配がした。
変態っぽいな、と自分で感じながらもアイアの汗を吸収したタオルに鼻を埋める。
そこからは家の柔軟剤とはまた違う、しかし確かに覚えのある爽やかで甘い、花の香りがしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ドアチャイムの音に身体の制御を取り戻したカズキ、間一髪で一線を越えることはありませんでした。
一旦展開が落ち着いたように見えますが、しかし私はそう簡単に穏やかにさせてやる気はありません笑!!
大波は続きます。
次回をお楽しみに!!
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それでは!




