第9話 剥奪された勇者免許 [前編]
十年前の事故が起きたのは、東の採石場だった。
坑道で魔力石の原石が割れ、作業員五人が閉じ込められた。
A級勇者だったイサーク・ノルンは救助に入り、三人を連れ出した。
しかし坑道が二度目の崩落を起こし、残りの二人は亡くなった。
事故後、イサークの資格は剥奪された。
許可外の高位魔法を坑道で使い、崩落を招いたという判断だった。
イサークは今、王都の外れで荷車を修理している。
「うちの店には、勇者の仕事は来ない」
エルドが名乗ると、イサークは工具を置かずに言った。
「修理の依頼なら、車輪を見せてくれ」
「十年前の記録を見直しています」
「何度も見た。結論も聞いた」
イサークは木槌で車軸を叩いた。
乾いた音が小屋に響く。
「今さら二人を生き返らせる方法でも見つかったのか」
エルドは答えられなかった。
隣のミレイスも黙っていた。
彼女がこの事件へ同行すると決めたのは、父の署名を見た夜だった。
「手続きに誤りがあれば、資格剥奪を取り消せます」
エルドが言うと、イサークは木槌を下ろした。
「それが俺に何になる」
失った十年は戻らない。
作業員の家族と会えないまま過ぎた時間も戻らない。
エルドは目の前の車輪を見た。
割れた木の縁を新しい板で補ってある。
資格が戻れば、イサークはまた勇者の依頼札を取れるかもしれない。
けれど、十年間ここで覚えた手つきまで、なかったことにはできない。
エルドは指先についた木屑を払う男を見た。
自分の机の引き出しにも、不合格通知が入っている。
取り消しの話を聞きに来た人間が、そんな紙を持っていることを言い出す気にはなれなかった。
まして自分の場合は、試験に落ちただけだ。
イサークから奪われたものと並べるのは違う。
そう思いながらも、返す言葉を探す間だけ、引き出しの取っ手の冷たさを思い出した。
「まだ分かりません。だから、事実を確かめたいんです」
イサークはようやく顔を上げた。
「現場へ行け。俺の話より、石は正直だ」
*
採石場は十年前に閉鎖され、入口に蔓が絡んでいた。
管理人が鍵を開け、エルドとミレイスを中へ通す。
坑道の中は石灰の匂いがした。
補強した梁には事故当時の傷が残っている。
ミレイスは壁に鑑識針を当てた。
すぐには反応しない。
何度か場所を変え、崩落箇所から離れた排水溝の前で止まった。
「ここです」
針先が青く光る。
イサークの使用記録にある術式は赤系の熱魔法だった。
青い反応は、地脈を冷やして固める魔力に近い。
「十年経っても残るんですね」
「深い石の中なら。表面は入れ替わりますが」
ミレイスは崩れた梁の下から試料を採った。
別の術式が二つ重なっている。
青い層の上に、赤い層。
採取場所を変えても順序は同じだった。
「青が先、赤が後」
エルドは古い事故報告を開いた。
結論は、イサークの熱魔法が原石を刺激し、青い魔力が噴出したというもの。
現場の層は逆だった。
「当時の鑑定では、なぜ分からなかったんですか」
「採石場の壁から、試料を取っていません」
ミレイスは記録のページを指した。
事故翌日、監査局の鑑識班が採ったのは、地上へ運ばれた原石だけ。
崩落地点への立ち入りは、危険を理由に止められていた。
「父の署名は、その立入停止の後です」
声は落ち着いていたが、彼女の指先が少し白くなっている。
エルドは帳面を閉じた。
「まず、現場の順序を証明しましょう」
坑道の奥で風が鳴った。
管理人が灯りを上げる。
十年前にも、誰かがここで同じように音を聞いたのだろうか。
*
原本の一部は、監査局の通常書庫に残っていた。
鑑識図、救助記録、聴取票。
イサークの供述には「青い光が走ったあと、熱を使って梁を支えた」とある。
だが裁定書では「熱魔法による魔力噴出」と要約されている。
「供述の順番を入れ替えています」
ミレイスが書類のページをめくった。
要約の作成者は、事故当時の勇者庁の役人。
ミレイスの父ではない。
「お父様は、何を確認したんでしょう」
エルドの問いに、ミレイスは答えず、署名の横を見た。
細い字で補記がある。
『現場鑑定未了。最終裁定への同意を留保する。』
読み落とすほど小さい。
しかし確かに書かれていた。
「父は、反対していました」
ミレイスは席を立った。
通路の窓を開け、しばらく外を見た。
エルドは後を追わなかった。
人が何を感じているか、記録のようには読めない。
彼女が戻るまでに、エルドは救助した三人の名を確認した。
救助された一人の息子は、今は採石場の管理人をしている。
「会いに行きましょう」
管理人は話を聞くと、頑丈な金庫から父の手帳を出した。
事故の日の文面には、採石場の水位と、原石の温度が書かれている。
温度が急に上がり始めたのは、イサークが坑道へ入る二時間前だった。
「父は、あの人のせいじゃないと言っていました」
管理人は手帳を閉じた。
「でも、二人が亡くなった家にそれを言いに行けなかった。俺も、言えませんでした」
エルドは責めなかった。
何十枚の記録より、一軒の家の扉を叩くことの方が難しい時がある。
管理人が見送るとき、採石場の小屋から古い箱を持ってきた。
中には事故後に使われた仮の作業札が入っている。
亡くなった二人の名もあった。
「父は、これだけは捨てなかったんです」
木札は汗と石粉でざらついていた。
事故のあと、残った家族で道具を分けたという。
エルドは札を手にせず、箱の中で読んだ。
二人の名を、自分の仮説を証明する材料だけとして持ち帰りたくなかった。
「ご家族に、再審のことを話してもいいですか」
「先に私が行きます」
管理人はそう答えた。
「また誰かの役人が来たら、あの家では扉を閉めます。でも、俺なら話せるかもしれない」
ミレイスは頷いた。
急がないでください、とだけ言った。
王都へ戻る前に、彼女は父の家へ寄りたいと言った。
エルドは同行を申し出たが、「玄関までで」と返された。
ハルトナー家は、細い運河のそばにあった。
窓辺で干されている布が風を受け、玄関の木戸は塗り直されている。
十年前に辞めた監査官は、今は小さな会計事務所を営んでいた。
ミレイスがノックすると、父親が自分で出てきた。
娘の隣に監査局の制服を見て、表情が止まる。
「用件は」
「採石場の件です」
ミレイスは父親へ写しを渡した。
崩落地点から採った魔力層の写真。
古い供述の写し。
父親はその場で読まず、二人を居間へ通した。
エルドは玄関までの約束を思い出し、外で待つと告げた。
ミレイスは振り返って一度だけ頷いた。
外の運河では、荷を積んだ小舟が橋の下をくぐっている。
エルドは岸の石段に座り、持ってきた書類の順番をもう一度確かめた。
事故の再審には、現場の先行反応が重要だ。
父親が何を証言するかは、それとは別に必要になる。
しばらくして、戸が開いた。
ミレイス一人だった。
「父は、明日、監査局へ来ます」
「話はできましたか」
「少しだけ」
彼女は運河の方へ歩き出した。
エルドは隣を歩く。
「父は最初、リュカさんのような費用の付け替えを見逃したそうです。事故が起きた後、そのせいで救助現場に人が入り、危険が広がったと思っていた」
ミレイスは川面を見る。
「でも、実際の異常は先に始まっていた。あの人も石を見たかった。立入を止められたとき、もっと強く言えばよかったと」
彼女はそこで言葉を切った。
父をどう思うか、エルドは聞かなかった。
「明日、何を話してもらいますか」
「知っている順番を。私のための謝罪より、まずそれが欲しいです」
翌日、元監査官ハルトナーは聴取室へ来た。
エルドとミレイスの前で、十年前の現場を説明した。
最初の土砂崩れの報告。
許可が出ないまま中止された壁の鑑識。
勇者庁が急いで出した裁定案。
そして自分が補記を書いた日。
「なぜ辞職したんですか」
エルドが聞くと、元監査官はミレイスを見ないで答えた。
「裁定が出たあと、再調査を続ける権限がなくなった。外から訴えようとしたが、封印指定がかかった。私は、そこで手を止めた」
「止めさせられたのでは」
「止めたんです」
彼は指を組んだ。
昔の事故を、誰かのせいだけで説明したくない人の声だった。
「家に子どもがいた。これ以上の争いを避けたかった。娘には、規則を曲げて事故を招いたとだけ話した。自分が途中で口を閉じたことを、言えなかった」
ミレイスは聴取記録へ日付を書いた。
父親が自分を見ていることに気づいても、顔を上げない。
「その供述は、再審へ提出します」
仕事の声だった。
父親も「頼む」と答えた。
二人の間に、すぐ埋まるような沈黙はなかった。
エルドは紙を揃え、最後の確認事項だけを尋ねた。
「魔王記録管理室への移管は、誰が決めたか分かりますか」
「局長になる前のオルディス・クレイバーだ。直接聞いた」
ミレイスのペンが止まった。
元監査官は続ける。
「あの人は嘘をつかない。だが、言わないことを決めるのは誰より早い」
聴取を終える合図をミレイスが出しても、父親は椅子を立たなかった。
机の上には、彼が十年前に書いた補記の写しがある。
小さな字で「同意を留保する」。
それを見つけたとき、ミレイスは父が裁定へ反対していたと知った。
「これを、なぜ私に見せなかったんですか」
彼女が聞く。
父親はすぐには答えない。
「封印指定があった」
「事故の内容は話せなくても、自分が反対したことは話せたでしょう」
「話せば、お前は続きを聞く」
「聞きましたよ。十年後に、他人の書類から」
ミレイスは声を荒げなかった。
エルドは聴取票に目を落としたまま、席を外すべきか迷う。
しかし彼女は立会人を求めて彼を呼んでいる。
都合の悪い瞬間だけ出ていくのも違う。
「父が悪いことをしたと、ずっと思っていました」
「悪いことはした。途中で止めた」
「それは、今あなたが自分で言ったことです。私が知っていたのは、別の話」
父親は机の補記を手に取った。
かつて書いた時より、紙は薄く見える。
「お前が監査局へ入ると決めたとき、止めようと思った」
「止めませんでした」
「お前が私と同じところまで行って、違うことを選ぶかもしれないと思ったからだ」
ミレイスはそこで初めて顔を上げた。
「私の選択に、昔のあなたの続きを預けないでください」
父親は頷いた。
反論はしなかった。
娘が監査官になった理由を、自分の失敗だけで説明するのは、また彼女の道を狭くする。
ミレイスがまだ学校にいたころ、父は辞職して帰ってきた。
理由を聞くと「仕事で間違えた」とだけ言い、その夜も食卓で計算をしていた。
ミレイスは父が何を間違えたのか知りたくて、翌朝、使い古しの算盤を借りた。
珠の動かし方は教えてくれたのに、事故のことは教えてくれなかった。
今なら、口にできなかった事情も分かる。
だが、父が家で黙ったことまで正しかったとは思えない。
ミレイスは筆先を机へ置き、十年前の父に尋ねたかった問いを、今日の聴取票へは書かなかった。
家で聞くかどうかも、まだ決めていない。
エルドは聴取票に、元監査官が供述内容を確認したことを書き足した。
父親は署名し、退室した。
ミレイスはしばらくその席を見た後、別の封筒へ証拠を入れた。
「再審には、今の話も要りますか」
「いいえ。あれは、私が聞きたかったことです」
エルドは頷いた。
記録しなくていい話があると、彼女自身が決めた。
彼は聴取票の一行を見直し、必要な事実だけ残した。
証拠は揃った。
現場の魔力層、当時の温度記録、イサークの供述。
ミレイスは鑑識報告をまとめ、エルドが再審請求を書いた。
封印指定の理由は分からないままだが、資格剥奪の前提は崩せる。




