第8話 功績を捨てた勇者 [後編]
その朝、ノエルはいつもより早くギルドへ来た。
机の上に置いた手帳と証言書が、何度揃えてもずれる。
エルドが入ると、彼はすぐに聞いた。
「手順、もう一回確認してもいいですか」
「最初に訂正届。次に支援の記録。判断できない箇所は、分からないと答える」
「分からない、と言っていいんですよね」
「言ってください。後で確かめられることは、後で確かめます」
ノエルは頷いたが、落ち着かない。
四件目の宿場の術が何秒持ったか、手帳には二十七秒とある。
本人の記録だけで認められるか不安なのだろう。
「あの時、宿の主人は子どもがいたことを覚えていました」
エルドが言う。
「それとあなたの秒数は、別の事実です。両方を無理に一つの証明にしなくていい」
ノエルは手帳を閉じた。
「ガイルさんが書いてくれた数字なら、何も考えなくて済んだ」
「何も考えないまま昇格したかったですか」
「……最初は」
答えが正直だった。
エルドも少し笑った。
審査室では、三人の委員が待っていた。
討伐記録の訂正は淡々と受け取られたが、支援功績へ移ると質問が増えた。
「術で止めた魔物をガイルさんが倒した。共同功績なら分かります。しかし、治癒や避難誘導を昇格点へ入れる前例は少ない」
年配の委員が言った。
ノエルは一度、エルドを見た。
エルドは何も言わない。
本人の実績を、本人が話す席だった。
「俺は、剣で一人前と呼ばれたくありません」
ノエルは言った。
「剣が必要な現場もある。だから、剣の訓練は続けます。でも、俺を剣の強い勇者として派遣されたら、次に困るのは一緒に行く人です。俺に任せてもらいたいのは、傷を見て、逃げ道を作って、術が何秒持つか数える仕事です」
委員は表情を変えず、手帳を読んだ。
「数えた秒数が一つ違えば、人の命に関わることもあります」
「はい。だから、次の現場ではもう一人に数えてもらいます」
ノエルは宿場の橋の記録を出した。
工事責任者の署名がある。
魔物討伐ではないため、正式な勇者功績として認められるかは分からない。
ただ、彼がどんなふうに働くかは見える。
「審査には時間をください」
委員が言った。
ノエルは肩の力を落とした。
即日の合格を期待していたわけではない。
それでも、紙が受理箱へ入る音を最後まで聞いていた。
昇格候補からノエルの名前は外れ、支援功績の特別認定申請が受理された。
結論までは一か月かかる。
部屋を出てから、ガイルが「俺が言えばもっと早い」と言った。
ノエルは首を横に振る。
「ガイルさんの話も必要です。でも、俺の仕事の説明は、自分でできました」
ガイルは何も言わず、ノエルの背を叩いた。
手加減を忘れていたらしく、ノエルが咳き込む。
審査室の扉の向こうで、誰かが笑った。
「待たせるんですね」
審査室の外で、エルドがミレイスに言った。
「会議が月に一度しかないので」
「必要な人は、毎日いるのに」
ミレイスは用紙を折り畳んだ。
「だから、制度の運用を変える提案には記録が要ります。この件は残します」
ガイルは先に廊下を歩いていた。
ノエルが追いつくと、無言で頭を下げた。
「俺がお前の数を作った。悪かった」
「守ろうとしてくれたのは、分かってます」
「それでも、お前に別の剣を持たせかけた」
ノエルは返事の代わりに、手帳を見せた。
「一か月、記録を増やします。今度はちゃんと、俺の仕事で」
ガイルは鼻をすすり、「勝手にしろ」と言った。
目元は赤くなかったから、エルドも見なかったことにした。
ギルドの掲示板で、ノエルは来週の北部医療班から自分の名が消えているのを見つけた。
責任者にはC級の別の勇者が入る。
治療の腕ならノエルの方が上だと、そこにいた受付係も知っていた。
「補助なら同行できます」
受付係が言う。
ノエルは首を振った。
「その人には先に症例を渡します。夜に息苦しくなる患者がいる。朝の測定だけ見て帰らないように」
自分が選んだ訂正でも、札を外されるのを平気で見られるわけではない。
ノエルは掲示板の前に長く立った。
ガイルが横へ来たとき、彼はまだ代役の名を読んでいた。
「エルド。お前の言ってることは正しい」
ガイルは掲示板を見たまま言った。
「だから腹が立つ。あいつが毎晩診てた患者を、紙を直した翌週から知らない奴に預けるのか」
「責任者の条件は、僕だけでは変えられません」
「分かってる。今、お前に怒鳴る筋もない」
それでも彼はエルドを見なかった。
ノエルは二人の間へ入らず、受付係に患者の名前を伝えた。
言葉にできない分を、現場の引き継ぎに使っている。
エルドは掲示板の写しを監査記録に添えた。
正しい訂正で生じた空席も、残しておくために。
代役の勇者が、午後、来週の出発準備を確認しに来た。
年上だが治療の実績はノエルより少ない。
彼は手帳を受け取ると、患者の夜の発作に印を付けた。
「この薬の量、前の医師は半分だと言っている」
「昼の量です。夜は息が浅くなる」
「俺の責任で出すなら、現場で一度測りたい」
ノエルは頷きかけて、手帳を取り返した。
「測る間に悪くなる人です。あなたが決めるなら、夜に行って話を聞いてください」
代役は怒らなかった。
自分の名を責任者欄に書く前に、患者へ行くと答えた。
ノエルは手帳を渡したが、指が離れるまで少し時間がかかった。
相手が悪い人間でないことと、自分の欄が消えた痛みは、別に残った。
その日の午後、監査局へ新しい調査依頼が届いた。
十年前の採石場事故で救助された作業員の家族からだった。
封筒には、古い認定書の写しが入っている。
エルドは最初の頁を読んで手を止めた。
失効理由は、許可外の高位魔法による救助事故。
今日までの事例と違い、報告の食い違いが十年間も裁定のまま残っている。
だが、その下には見慣れない印があった。
国家勇者監査局・特別封印指定。
ミレイスも印を見た。さっきまでの穏やかな目つきが変わる。
「これ、私の父が署名した事件です」




