第7話 功績を捨てた勇者 [前編]
報告書の討伐者欄には、ノエル・リーヴの名が六回続いていた。
六件とも、立会人はガイル・フェンリス。
対象は湿地の小型魔物で、どれもB級以上なら一人で倒せる相手だった。
ノエルの実習評価が急に上がったのは、あの村の件から三週間後である。
「ノエルは剣が得意でしたか」
エルドが聞くと、ミレイスは報告書をめくった。
「学校の実技は下位。治癒と拘束は上位。最近、剣術が急に伸びた記録もありません」
窓の外では雨が降っていた。
王都の石畳を歩く人たちが、軒下で足を止める。
エルドは六枚の報告書を雨の降る順に並べ直した。
すべて、ガイルの依頼にノエルが補助として同行した日だった。
「本人から聞きます」
ミレイスは頷いたが、椅子を立つ前に一枚だけ別の書類を示した。
「昇格審査が明後日です。記録を直すなら、今日中に動かないと」
ギルドの治療室で、ノエルは濡れた外套を乾かしていた。
部屋には薬草の匂いがある。
壁の棚には包帯が積まれ、寝台の脇に杖を立てた勇者が一人座っていた。
左脚に添木を当てている。
「俺の討伐記録ですか」
ノエルは書類を見て、逃げなかった。
「ガイルさんが倒したのもあります」
「いくつ」
「四つ。たぶん」
「たぶん?」
ノエルは傷ついた勇者へ一度目をやった。
「あの人は、たぶん二つと言います」
ガイルが入口に立っていた。
水を払った髪が、いつもより顔に張りついている。
「実際、こいつが拘束して、俺が最後を刺しただけだ。仕事の半分はこいつ」
「報告書には、討伐者がノエルさん一人と」
「最後の一刺ししか数えねえ制度の方が、おかしいだろ」
「あのゴブリンの件とは違う。逃がしたやつを倒したことにはしてねえ。ノエルが止めて、俺が刺した。こいつの仕事を、こいつの数字にしただけだ」
「報告を読んだ別の隊には、最後に誰が刺したか分かりません」
エルドが言うと、ガイルは答えなかった。
違うと思いたい顔だった。
ガイルは濡れた外套を壁に掛けた。
議論する前から、その答えを何度も自分に言い聞かせてきた声だった。
「ノエルは倒すのが下手だ。でも、こいつがいなきゃ三件は負傷者が出た。そこを見ずに『討伐数が足りない』で新人のまま置く。C級になれば、こいつは医療班を率いて現場へ出られる。村の治療も早くなる」
ノエルは俯いた。
寝台の勇者が、杖の先で床を軽く叩いた。
「この脚も、こいつが止血しなきゃ失くしてた」
エルドは報告書を畳まずに持っていた。
六件のうち四件を訂正すれば、ノエルの討伐数は昇格基準に届かない。
訂正しなければ、次の現場では彼が剣を使える前提で配属される。
「現場へ出たとき、ノエルさん自身が困ります」
エルドが言うと、ガイルは鼻を鳴らした。
「腕前を知ってる連中と組ませりゃいい」
「別のギルドに派遣されたら?」
ガイルは答えなかった。
ノエルも顔を上げた。
「討伐者の記録は直します。その上で、治癒や拘束を功績として申請しましょう」
ミレイスが帳面を開いた。
「支援功績の認定は、通常の昇格審査とは別です。実績に対する立会人の署名が必要で、現場ごとの報告も」
「六件とも、書けます」
ノエルが言った。
ガイルが振り向く。
「お前、分かってんのか。二日後の審査には間に合わねえぞ」
「はい」
「新人のままでいいのか」
「よくはないです。でも、剣で倒したことにされるのは、もっと嫌です」
普段は声の小さい青年が、そこだけははっきり言った。
ガイルは何も言い返せなかった。
*
支援功績の記録を集めるため、エルドとノエルは六件の依頼先を歩いた。
最初の二件は簡単だった。
同行者の記憶も鮮明で、術式の痕も残っている。
三件目は、雨で地面が流れていた。
四件目には立会人が別の地方へ移っていた。
「もっと早く書けばよかった」
夕暮れの橋で、ノエルが言った。
「こうなる前なら、全部覚えていたのに」
「覚えていることを、今日書いてください」
「でも、証明できないこともあります」
「それは、証明できないと書きます」
ノエルは橋の欄干に肘を置いた。
下を流れる水は雨で濁っている。
「それじゃ、弱い記録になる」
「弱い記録でも、あなたが何をしたかは残せます」
ノエルはしばらく水を見ていた。
それから、鞄から小さな手帳を出した。
実習の日に自分で書いたメモだという。
傷の部位、治癒に使った時間、拘束術が持った秒数。
ページの角が湿気で丸まっている。
「これなら、現場の記録と合わせられるかもしれません」
エルドは手帳を受け取り、驚いた。
討伐数は一度も書かれていない。
代わりに、術が届かなかった距離まで残してある。
「ちゃんと、見ていたんですね」
「見て、覚えて、記録する。そうしないと次に直せませんから」
エルドは手帳を返した。
「その考え方、監査官に似ています」
「うれしくないです!」
ノエルは初めて少し大きく笑った。
四件目の立会人を探すため、翌朝は小さな宿場へ向かった。
馬車はまだ朝露の残る道を進み、午後前に着いた。
立会人だった勇者は一週間前に別の国境へ移ったという。
宿の主人は「何の用だい」と聞いたが、ノエルの手帳を見ても顔を思い出せなかった。
「あの日は魔物が出たんだろう。勇者が何人も来て、誰が何をしたかまでは」
宿の台所には新しい鍋が掛かっていた。
古い鍋は襲撃の夜に穴が開き、捨てたという。
主人が指した裏庭には、焦げた木柵が残っている。
「ここで拘束術を使いました」
ノエルが柵の手前に立つ。
ガイルは十歩向こうにいた。
魔物はその間を抜けようとしたので、ノエルが光の輪を張った。
「時間は?」
「三十秒くらい。手帳には二十七秒と」
「長かったか短かったか、私には分からんな」
宿の主人は腕を組んだ。
「ただ、あのとき、台所に子どもが二人いた。柵が破られなかったのは覚えてる」
エルドはその言葉を書き留めた。
術の持続時間は証明できない。
でも、拘束が子どもを守ったことは証言として残せる。
魔力の痕跡は雨で流れていた。
主人は台所の戸棚から、欠けた木皿を一枚持ってきた。
襲撃の夜、子どもがそこへ身を隠していたという。
「勇者が来て、光の輪が見えた。私は鍋を持ったまま動けなかった。何秒かなんて、数えてない」
「子どもはどちら側にいましたか」
ノエルが聞く。
主人は戸棚の位置を指した。
ノエルは庭の柵まで歩き、当時の立ち位置を確かめる。
手帳には自分の術の距離が書いてある。
庭と台所の間は思っていたより狭かった。
「俺が覚えてた場所、少し違います」
ノエルは手帳の余白へ訂正を書いた。
エルドは覗き込まない。
「不利になりますよ」
「でも、ここにいたなら、この子らへ届いた」
主人は皿を戸棚へ戻した。
「そこだけは、私も覚えてる」
三人の記憶は完全には重ならなかった。
ノエルの秒数、主人の子どもの位置、ガイルの討伐報告。
それぞれ別の線になる。
エルドは、一本へ無理にまとめないまま、現場図へ書いた。
宿を出ると、ノエルは手帳の訂正箇所を何度か見た。
数字を直せば自分の働きも小さくなると思っていたのだろう。
エルドはそうではないと説明しかけ、やめた。
本人がいま確かめた距離は、励ましより役に立つ。
ノエルは庭の地面を見ている。
「証明できないことが多いですね」
「人の記憶は、討伐証明の耳みたいに袋へ入れておけませんから」
エルドが言うと、主人は笑った。
「耳より鍋の方が覚えてるよ。今も困ってるからな」
鍋の代金は、魔物被害の補償を申請していなかった。
宿の主人は面倒で放置していたという。
エルドは申請用紙の場所を教えた。
主人は「また紙か」と呆れたが、新しい鍋の底を見て、夕方にギルドへ寄ると言った。
宿を出たところで、鐘が鳴った。
襲撃ではない。
川辺の工事で橋板が外れ、荷馬車が傾いたという。
宿場の人たちが一斉に走る。
エルドたちもついていった。
橋の途中で車輪が落ち、馬が前へ引こうとしている。
御者は手綱を持ったまま動けない。
荷台には石材が載っていた。
重量がかかれば、橋板がもう一枚抜ける。
「馬を止める!」
ノエルが手を伸ばし、足元に細い光の輪を張った。
馬の脚を縛る術ではない。
踏み込みの勢いだけを弱める柔らかい拘束だった。
ガイルは荷台へ回り、石材を一つずつ下ろす。
「エルド、橋の端に人を集めるな」
ガイルの声で、エルドは見物人を下がらせた。
宿の主人が小さな子を抱き上げ、離れた場所へ運ぶ。
御者は馬の首に手を置いた。
ノエルの術が持つ間に、ガイルが二つ目の車輪を支える。
橋板が軋んだ。
「あと十秒!」
ノエルの額に汗が滲む。
拘束を強くすれば馬が暴れる。
弱めれば前へ出る。
彼は呼吸を合わせて術を調整した。
ガイルが最後の石材を下ろし、御者が馬を後ろへ引く。
荷車は橋の手前へ戻った。
誰も魔物を倒していない。
報酬のつく勇者依頼でもない。
エルドが報告書を作るなら、まずどの欄へ書けばいいのか分からなかった。
「今の、勇者の仕事ですよね」
ノエルが聞いた。
「そうです」
「討伐数は増えない」
「増えません」
ノエルは橋板を見た。
ガイルが親方と一緒に応急の柵を立てている。
あの人が勇者として数えられているのは、今日も同じだ。
自分の仕事を数える仕組みが追いついていないからといって、ここで何もしない理由にはならない。
エルドは自分の試験結果を思い出しかけた。
あのとき、自分の不合格につながったと思っていた判断が一つあった。
いや、ノエルと一緒にはできない。
彼は不合格で、ノエルには今ここで救われた人がいる。
エルドは橋の下を見た。
濁った水へ、割れた板の欠片が流れていった。
エルドは宿の主人に、先ほどの襲撃の証言をもう一度頼んだ。
主人は「鍋の話も書いてくれ」と付け足した。
橋の件については、工事責任者が記録をつけるという。
エルドは二つの用紙の提出先を確認し、ノエルへ渡した。
「今度は、最初から本人の名で」
ノエルは受け取り、胸ポケットへ入れた。
五件目の現場は王都の外壁近くだった。
見張り塔の下で、前に魔物へ襲われた運搬人が荷を積んでいた。
彼はノエルを見るなり、車輪の影から小さな札を取り出した。
「あんたに渡そうと思ってた。あの日、荷車の下敷きになった荷は、全部助かった」
「俺がやったのは、車輪を止めた術だけです」
「だから助かったんだよ」
札はギルドへ提出する感謝状だった。
運搬人は字を書くのが遅く、清書に三週間かかったという。
そこには討伐のことが一行もなかった。
六件目では、あの水門の近くを通った。
魔物の拘束にノエルの術が使われ、ガイルが討伐した。
村の少女がエルドたちを見つけ、井戸水を汲む手を止めた。
「今日は、誰を助けに来たの」
「記録を直しに」
ノエルが答える。
少女は首を傾げた。
「壊れてないよ、井戸」
「井戸じゃなくて、俺の名前の横」
少女はますます分からない顔をした。
ノエルは諦めて笑い、井戸の桶を彼女の方へ寄せた。




