第6話 勇者の高すぎる経費 [後編]
午後、ミレイスは湿地で採った粉を薄い硝子板に広げた。
村役場の会議室が臨時の鑑識場になった。
窓は開けず、濡れ布を敷いて粉が飛ばないようにする。
「反応は、魔物由来ではありません」
針先が三度、同じ鈍い色に変わった。
エルドは前の二件の試料を思い浮かべた。
「地脈から出たものですか」
「おそらく。竜の鱗や谷の石に混じっていた層と近い。ただし、この粉は人体に触れる量が多い」
ミレイスは硝子板を覆った。
「指定魔力災害の要件を満たします」
エルドは帳簿を開いた。
討伐依頼の経費から薬代を災害救助費へ振り替える。
村人の名は医師の記録に留め、会計上は人数と金額だけを出す。
リュカの虚偽記載は残るが、薬代を彼一人へ返済させずに済む。
最後の一枚をめくったとき、野営具の欄が気になった。
薬剤が銀貨三百八十三枚。
うち三枚は肩の治療に使ったと医師が証言している。
運搬が十五枚。
残り二十二枚が、野営具としてまとめられていた。
「野営具は何を買いましたか」
エルドが聞くと、リュカは鎧の肩紐を引いた。
新しい留め具がついている。
「それだ。五日も着て歩けば、傷むだろ」
「修理店の控えはありますか」
リュカは鞄から薄い紙を出した。
領収印は会計係へ出したものと同じだが、裏に持込日がある。
討伐依頼を受ける二日前だった。
「前の訓練で割れた。店に預けて、帰りに受け取った」
「今回の野営で傷んだわけではないですね」
「どうせ装備に使う金だ。あの薬を経費で通すなら、これも一緒でいいと思った」
エルドは修理票を置いた。
自分も「薬代は振替、返済はなし」と一行で片づけるところだった。
ミレイスは何も言わず、次の言葉を待っている。
「この二十二枚は、返してもらいます」
「三百八十枚分、人の薬を買った。それは帳簿から消すのか」
「消しません。別の費目で残します」
「残すのと、俺に何か返るのは違う」
リュカは怒鳴らなかった。
だから余計に、エルドはすぐ反論できなかった。
村の薬が遅れなかったのは彼の判断だ。
一方で装備の二十二枚が私費だったことも変わらない。
「返済の期限は相談できます。村への救助に使った分は、活動記録へ追記します。ただ、修理代と相殺はしません」
リュカは修理票を取らずに言った。
「帳簿には俺の得も損も残る。子どもは俺が払ったことを知らなくていい。でも、お前は、俺が小さく得をしようとしたことだけ忘れないんだろうな」
「忘れないために記録します」
口に出してから、エルドはその答えがリュカには何の慰めにもならないと分かった。
ミレイスは「返済期限、本人と協議」と欄外に書いた。
リュカは鎧の留め具に指をかけ、しばらく外さなかった。
会計係は振替伝票へ印を押さなかった。
正式な災害指定は郡役場の権限だという。
「村長と医師の仮指定で、国の救助費から仮払いできます」
エルドが施行規則を示すと、職員は「郡で却下されたら」と聞いた。
ミレイスが採取した二か所の試料と医師の診断を机に置く。
「鑑識には私が責任を持ちます。追加鑑定も出します」
職員は彼女の署名を見て頷いた。
村長と医師が仮指定の書類を作る間、隣室ではフィンが薬を飲み、しばらくして咳が止まった。
しかし、名前を伏せる手続きにも、本人の返事は必要だった。
エルドは医師と一緒に隣室へ行き、母親へ用紙を見せた。
「会計の伝票には氏名を載せません。村の医師が持つ診療録には残ります。郡の審査官が確認するときは、封を切って読むことがあります」
「そこまでしか隠せないのね」
「はい。完全に誰にも知らせずに公費を出す方法はありません」
母親はフィンの方を見た。
子どもは船の帆を直すことに夢中で、話を聞いていないようだった。
父親は今日も壊れた柵を直している。
家族の誰がどこまで知るかも、母親は考えなければならない。
「郡で断られたら、薬はどうなるの」
「治療は続けます。支払先の判断は、書類を扱う私たちの仕事です」
「リュカさんが払うことには?」
「その前に、指定の理由を改めて説明します」
エルドは断定しなかった。
仮払いの行方まで、自分一人で保証はできない。
ただ、子どもの薬を勇者の虚偽経費へ戻すことはしないと決めていた。
母親は用紙の「情報の取扱い」の欄をゆっくり読んだ。
字の細かい部分で一度止まり、医師に意味を確かめる。
急かす人はいなかった。
署名したあと、彼女はもう一枚の写しを求めた。
「家にも置いておきたい。あとで誰かに、何を聞いていいか分からなくなるから」
ミレイスが封筒を用意した。
表には病名を書かない。
母親はそれを胸に抱えず、買い物の袋へ普通にしまった。
会議室へ戻ると、リュカは落ち着かない様子で立っていた。
「同意してくれたか」
「はい。ただ、あなたへ伝票の写しを渡す範囲は、改めて相談します」
「俺が金を使ったのに?」
「あなたが守ろうとした人の情報です」
リュカは口を開き、閉じた。
しばらくして「分かった」と言い、自分の訂正届へ署名した。
「最初から、こう書けばよかったのか」
リュカは訂正用紙を見て言った。
「ただ、最初から災害だと分かる材料がなかった。あの時点で治療を始めた判断は、間違っていません」
エルドが言うと、ミレイスが横から付け加えた。
「費用を偽った判断は間違いです。修理代も」
「分かってる。二度言うな」
ミレイスは口を閉じた。
返済日を書く欄が空いたままなので、リュカは用紙を持って立っている。
「給金が入るのは来月だ。それまで待ってくれ」
エルドは期限を来月末と記した。
リュカは読み返し、やっと用紙を返した。
二人のどちらにも、礼は言わなかった。
帰る前、母親が息子を連れて会議室へ来た。
男の子は自分の船をエルドたちに見せた。
帆柱はまだ傾いていたが、糸の巻き方が変わっている。
「治ったら、川へ流すんだ」
「川に戻ってこなくなりますよ」
「糸をつけるから、大丈夫」
エルドはその答えに笑った。
リュカは背を向けたまま、「元気になってからだぞ」と言った。
子どもは大きく頷いた。
役場の外へ出ると、柵を直していた男たちがこちらを見た。
監査官が来た理由は、もう村中に広まっている。
「四百二十枚も使ったんだって?」
男の一人がリュカに聞いた。
フィンの父親も少し離れて柵を直しているが、口を出さなかった。
「薬と運搬がほとんどです」
エルドが答えかけると、リュカが前へ出た。
「二十二枚は俺の鎧だ。依頼と関係ない修理を混ぜた。返す」
「薬まで嘘だったのか」
「薬は本当に届いています。受取先の名前は出せませんが、医師の記録と数量は照合しました」
男は納得しない。
誰の薬か分からない三百八十枚は大きな金だ。
村長が出てきたので、エルドは支出の内訳と仮払いの根拠を示した。
患者の名は伏せた。
「これなら村の帳場に貼れる。疑問があれば私が受ける」
男はリュカに向けていた顔をすぐには変えなかった。
「あんたが先に謝れば済んだのに」
リュカは頷いた。
エルドには、彼が何に対して頷いたか分からない。
嘘の経費か、遅れた説明か、その両方か。
男は柵へ戻り、釘を打ち始めた。
礼も罵声も、それきりなかった。
馬車の前でリュカが言った。
「お前、俺を庇わなかったな」
「事実を話しました」
「そうだな」
彼は新しい留め具を指で弾いた。
軽い音がした。
「次に薬を買うときは、店から村の医師へ直接届けさせる。俺の経費にしない」
「それができるよう、今回の仮払いを正式に通します」
「頼む。今度は先に聞く」
握手はしなかった。
リュカは村へ残り、直しかけの柵を手伝った。
村を出た後、ミレイスが馬車の窓から灰色の湿地を見ていた。
「父も、昔、似たような費用を見逃したんです」
不意の言葉だった。
エルドは黙って続きを待った。
「善意で払ったと信じて、証拠を取らなかった。あとから補償の対象が広がり、危険な土地への立ち入りまで『救助のため』と処理された。事故が起きて、父は辞職しました」
ミレイスはそこで口を閉じた。
話せる範囲はそこまでだと、エルドには分かった。
「今日の書類は、全部残ります」
エルドが言うと、ミレイスは窓から目を離した。
「残してください。後で、誰かが確かめられるように」
監査局に戻るころには、日が暮れていた。
エルドは振替伝票の最後の欄に、鑑識試料の保管番号を書いた。
谷、山、湿地。
三つの番号は離れているが、同じ色の反応を示している。
ミレイスが机の向こうで灯りをつけた。
紙の上の数字が見やすくなる。
エルドはもう一度、三つの地点を地図で結んだ。
「地脈の変化、どこまで続いているんでしょう」
ミレイスはすぐには答えなかった。
定規の先を、三つの点の中央へ置いた。
「調べる場所が、一つ増えましたね」




