第5話 勇者の高すぎる経費 [前編]
勇者ギルドの会計係は、請求書の束を机に置いて言った。
「高いでしょう。でも、領収印は全部あります」
討伐依頼一件で、費用は銀貨四百二十枚。
通常の五倍だった。
内訳は野営具、薬剤、運搬費。
数字の大半を占める薬剤の購入先は、依頼先の村から二日も離れた治療院になっている。
「運んだ薬は、誰が使ったんですか」
エルドが聞くと、会計係は首を振った。
「報告書には、勇者本人の負傷とあります」
「本人が四百枚分の薬を?」
「だから、調べてもらいたいんです」
該当の勇者、B級のリュカ・ベルナーは三十五歳。
討伐記録の数字に不自然さはない。
通る街道で魔物を追い払い、五日で帰還した。
帰ってから肩の傷を診てもらったことも確認できた。
傷は浅い。
「着服なら、もう少し上手に隠すと思います」
エルドが言うと、ミレイスは領収書の端を透かして見た。
「上手な人はそうします。下手な人は領収印を揃えると安心する」
「リュカさんは、どちらでしょう」
「会ってから決めます」
リュカはギルド裏の洗い場で鎧を磨いていた。
右肩を動かすたび、顔が少し歪む。
「経費の件か」
説明を聞く前に、彼は言った。
「返せと言うなら、時間が要る」
「使途を確認したいんです」
「薬を買った」
「誰のために」
リュカは布を絞った。
水が石床を流れる。
「俺のためだ。書いてある」
「肩の傷に必要だった薬は、銀貨三枚分です」
「高い薬も買った」
「治療院の配達記録は、村へ向かっています」
布を絞る手が止まった。
リュカはミレイスを見た。
「配達先まで見るのか」
「支払先と使用先が違う場合は確認が必要です」
リュカは少し黙り、鎧を脇へ置いた。
「村へ行くなら、俺も行く」
*
ノルタ村の入口には、修理途中の柵があった。
魔物の群れが通ったのは六日前。
襲われた家は三軒で、屋根と窓がまだ直っていない。
依頼書では被害なしになっていた。
リュカは到着した時点で魔物を追い払い、その後の報告を短くまとめたらしい。
村の医師が三人を家へ案内した。
その前に、リュカは壊れた柵の前で足を止めた。
横木を替えるため、木材が道端へ積まれている。
新しい材と古い材では色が違い、魔物がどこを破ったのか分かった。
「最初の一頭は、ここから入った」
彼は一番低い横木を指した。
地面には、小さな靴の跡がある。
「子どもがいたんですか」
「あの男の子だ。母親が追いかけた。俺が着いたときは、門の向こうまで入ってた」
リュカは別の場所へ歩いた。
畑の土には、白い粉が乾いて付着している。
エルドがしゃがむと、ミレイスは布を渡した。
素手で触るなという意味だ。
「その粉を吸ったら、誰でも症状が出ますか」
「分からん。俺も何度か吸ったが、肩の傷以外は平気だ」
勇者の身体は魔力に慣れている。
リュカが大丈夫でも、子どもや妊婦が無事とは限らない。
エルドは粉を少量だけ布へ移した。
村役場の鐘が鳴った。
昼食の時間だろう。
家々から煙が上がる。
襲撃から六日経っても、村では火を起こし、何かを煮ている。
その間にリュカの経費は不審な数字として王都へ届いた。
別の帳面が届くのを待つ間、ここでは薬が必要だったのだ。
「俺も最初は、討伐報酬から払うつもりだった」
リュカは鐘を聞きながら言った。
「けど薬が足りなかった。治療院の人が前金を寄越せと言うから、ギルドへ相談した。担当がいないから明日返事すると言われた。その夜に、子どもの呼吸が悪くなった」
「明日の返事まで待てなかった」
「待てると思うか」
「思いません」
リュカは怪訝そうな顔をした。
エルドは手の中の布を結ぶ。
「経費を使った人を隠すと、次の治療につなぐ記録も残りません。治療院の医師は、どこまで情報を持っていますか」
「村の医師とは話してる。薬の使い方も引き継いだ」
そこは確認できた。
エルドは少し息をついた。
会計の不正と治療の危険は、別々に扱わなければならない。
一人目は木こりの男性。
脚を負傷し、寝台から起き上がれない。
二人目は妊娠中の女性で、逃げる途中に転んでいた。
三人目はその息子で、夜になると呼吸が浅くなるという。
窓際の椅子に座り、小さな木彫りの船を握っていた。
息子の名はフィンと言った。
七歳で、見知らぬ大人が三人も入ってきたことを少し怖がっている。
母親は「役場の人よ」と紹介したが、ミレイスの監査局章を見たフィンは椅子を奥へ引いた。
「僕、悪いことしてない」
「していません」
エルドはしゃがんで答えた。
「お薬が、ちゃんと届いたか見に来ました」
「飲んだよ。苦いやつ」
フィンは机の上の瓶を指す。
瓶には治療院の名と、夜の量が書いてある。
母親は蓋を開け、残りを見せた。
あと三日分。
診察の予定は明後日だ。
「朝はよくなったように見えるんです。でも夜になると」
母親は言葉を切った。
フィンは自分の胸を押さえ、少し肩をすくめる。
「夜は、船が重くなる」
「船?」
「ここに船があるみたいに、息が入らない」
医師はその言い方を手帳へ書いた。
子どもが話した症状を、大人の言葉に直す前に残したいという。
木彫りの船の帆柱は折れ、糸で留めてある。
フィンは父親と川へ流すつもりだったが、まだ家を出られない。
エルドは「治ったら見せて」と言いかけて、やめた。
治ると断言できる立場ではない。
代わりに、船の横に描かれた小さな丸い窓について聞いた。
「僕が乗るところ」
「ほかには誰が乗りますか」
「お母さん。あと、リュカさんは重いから無理」
リュカが入口で咳払いした。
ミレイスは瓶のラベルを確認しながら、笑いを隠す気配がなかった。
母親はフィンの髪を撫でた。
「この子の病名、どこまで広がりますか」
その問いは、費用の説明より先に出た。
エルドは医師へ目を向けた。
医師は診療録を自分の鍵がかかった箱へしまっている。
「通常の補償なら掲示があります。別の方法が使えるか調べます」
母親は「お願いします」と言った。
リュカは外へ出て柵を直す男たちを見た。
彼が嘘の経費を書いた理由を、エルドはそこで理解した。
正しい名目が見つからないなら、子どもが顔を上げて外へ出られるようになるまで、自分が悪者になればいいと思ったのだろう。
ミレイスは問診票を閉じた。
フィンに向かって、まっすぐ聞く。
「その船、川へ流すときは糸を付けますか」
「うん。なくなったら困るから」
「いい方法です。流したあとも、どこにあるか分かります」
フィンは初めて少し笑った。
エルドは、ミレイスが書類の話をしないで船のことを聞いたのが意外だった。
彼女は気づいたのか、立ち上がりながら「記録はあとで見ます」と言った。
「魔物の毒ですか」
ミレイスが尋ねた。
「毒じゃありません。吸ったんです」
医師は壊れた柵の外を指した。
「魔物が踏み荒らした湿地の泥に、強い魔力が混じっていて。乾いた粉を吸った人だけ、息が苦しくなりました」
ミレイスは窓枠の内側を指でなぞった。
指先に薄い灰色の粉がつく。
鑑識針の石が鈍く光った。
「泥は、いつから変わりましたか」
「今年に入ってからです。前は黒かったのに、今は白い粉を噴く」
エルドは子どもの船に目をやった。
帆柱だけが折れ、糸で巻いてある。
母親が「何度直しても取れるんです」と笑った。
笑ったあと、ゆっくり座り直した。
医師が言った。
「治療費は村の積立では払えませんでした。リュカさんが『俺の経費にしとけ』と」
「余計なこと言うな」
リュカは外を向いた。
エルドには、医師を責める声に聞こえなかった。
「勇者の経費で村人を治療する前例を作ると、困ります」
ミレイスが言った。
「次の勇者が同じことをして、請求額を膨らませても、帳簿だけでは区別できません」
「じゃあ、あの子に咳を続けさせろって?」
「そうは言っていません」
「なら何を」
リュカが一歩近づいた。
エルドは二人の間に入ろうとして、やめた。
ミレイスは落ち着いていたし、リュカも拳を握っていない。
「費用は、払うべき名目で払います」
ミレイスは領収書の裏を見せた。
薬剤名、数量、受取印。
足りないのは、誰に使ったかという欄だけだ。
「でも、三人の名前を公表したくないんでしょう」
その問いに、リュカはようやく視線を戻した。
「村に補償を出す手続きがあるのは知ってた。けど、申請者の名前と病状が町の掲示板に載る。工房の雇い主が見たら、木こりの仕事はなくなる。妊婦と子どもにも『魔物の病気』なんて噂がつく」
母親が船を握る息子の肩へ手を置いた。
どちらも何も言わない。
エルドは書類を思い出した。
確かに通常の被害補償は、掲示による異議申立て期間がある。
しかし、災害救助費には医療情報の非公開を認める例外があった。
発生原因が「指定魔力災害」に該当すれば使える。
「湿地の粉を調べましょう」
ミレイスが振り向いた。
「鑑定に半日は要ります」
「費用はもう使っています。半日なら、待てます」
リュカは苛立ったように息を吐いた。
「その間、薬は止めないよな」
「止めません。村の医師が必要と言っています」
エルドが答えると、リュカは少しだけ肩の力を抜いた。




