第31話 勇者法制度改正 [後編]
試験のあとも、監査局の机から書類が消える日はなかった。
最初の朝、ミレイスは一晩の数値を机に広げた。
今の器へ向かう魔力は半分以下に下がっている。
しかし七つの拠点では、夜明け前にそれぞれ小さな揺れがあった。
完全に止まったことにしたい人には邪魔な線である。
「成功と書いていいか」
オルディス局長が聞いた。
ミレイスは数値の下へ「暫定運転」と書いた。
「成功は、止める必要があるときに止められてからです」
オルディスは文句を言わなかった。
エルドは机の端で、各塔の責任者欄を埋めた。
一人が休んでも代われるよう、二人ずつ名前を並べる。
セレナは手伝いに来たが、細い欄へ名前を書くのを嫌がり、ガイルに笑われた。
「枠を大きくすればいい」
「法定様式です」
「あなたも、そういうこと言うようになったね」
ミレイスは眼鏡を上げた。
「枠を大きくする改正は、あとで出します」
セレナは結局、文字を小さく書いた。
オルディスは試験の記録を特別審査委員会へ送った。
十日後に予定されていた継承準備は、正式に保留になった。
通知には「新方式の継続確認まで」と条件が付いている。
永久に解決したという印ではない。
「保留の理由は、僕が断ったからですか」
エルドが聞くと、局長は委員会の返書を見せた。
「君の承諾欄が空白であることと、代案の数値が出たこと。両方だ」
エルドは自分の名前を確認した。
今度は紙の上でも、返事をしていない人間として扱われている。
小さな違いだったが、前の通知より息がしやすかった。
二日目、第五塔の監視員が体調を崩した。
長時間、魔力のそばにいたのが原因かもしれない。
ノエルはその人を医療所へ運び、術を止めて休ませた。
代わりの技師が来るまで、第五塔は遮断した。
ほかの塔へ流れを押しつけないよう、全体の流入量も下げる。
「効率が落ちます」
勇者庁の役人が言った。
「監視員が倒れてまで効率を上げたら、元の制度と同じです」
エルドは答えた。
役人は次の予算の話を始めた。
完全には納得していない顔だったが、第五塔を再開しろとは言わなかった。
翌朝、エルドは医療所へ行った。
監視員は寝台の上で、塔から持ち帰った上着を畳んでいた。
もう立てるが、明るい窓を見ると目の奥が痛むという。
ノエルの記録には、頭痛が始まった時刻と、交代予定まであと何分だったかが並んでいる。
診察を受けたのは、症状が出てから三時間後だった。
「熱は下がりました。今日の夜勤は外します」
エルドが言うと、監視員は上着を置いた。
「外された分の給金はどうなりますか?」
「試験の仕事中なので、確認します」
「確認が終わるまで、家賃は待ってくれないんです」
エルドは次の言葉を探した。
昨夜、全員の同意欄が揃ったことに安心していた。
危険を知って署名しても、休んだ日の収入まで承諾したわけではない。
「別の仕事なら、できますか」
「今は眠りたいです」
監視員が答えた。
エルドは上着の袖を見た。
細い白線が一本入っている。
塔の窓枠に引っかけたのだという。
彼はそこへ目を逃がしていた。
廊下でノエルが診療録を閉じた。
「魔力の影響とは、まだ断定できません。夜通し針を見ていた疲れかもしれない。ただ、前にも同じ夜勤で頭痛が出たと言っています」
「最初の診察では?」
「言わなかったそうです。配置を外されると思って」
エルドは前夜の署名用紙を思い出した。
辞退の欄は作った。
しかし、働き始めてから体調が変わったとき、誰に話すかは細く書いてあるだけだった。
局に戻ると、役人は医療所からの費用請求を見て首を振った。
「原因が分からないなら、試験の補償費には入れられません。原因を試験と書けば、委員会は運用を止めます」
「止める判断も、必要なら出してください」
「それを簡単に言えるのは、別の器がいるからでしょう」
言い返せなかった。
回路を止めればエナへ戻る流れが増える。
監視員を戻せば、また倒れるかもしれない。
エルドは二つの書類を机へ置いた。
片方を隠してもう片方を通すことはできない。
ミレイスが診療録の写しを見た。
「原因は未確定のまま報告します。予定されていた当直の賃金は、こちらの都合で第五塔を止めた期間の待機費として請求できる。治療費の補償は、医師の再診を受けてから判断を求めましょう」
「通りますか」
「待機費は。治療費は、まだ分かりません」
役人は待機費の欄には印を押した。
治療費の欄は空白のままだった。
エルドは空白を消さず、委員会への日報にも写した。
午後、医療所へ戻って監視員に伝えた。
給金は減らない。
診察代の扱いは決まっていない。
監視員は上着を畳む手を止めず、「分かった」と言った。
「塔へ戻る日は、俺が決めていいんですよね」
「はい。医師にも確認しますが、戻れと言う前にあなたへ聞きます」
「なら、今日はこれを持って帰ります」
監視員は上着を抱えた。
エルドが運ぶと言うと断った。
廊下の出口までは一人で歩き、外の光が強いところで一度だけ足を止めた。
ノエルが灯りの少ない裏口を教える。
彼は礼を言って、そちらへ曲がった。
代わりの技師が来たのは、その日の夕方だった。
エルドが差し出した勤務表には、前の監視員と同じ長さの当直が書かれている。
技師は署名する前に、隣の欄を指で叩いた。
「交代の人は、どこですか」
エルドは何も書いていない欄を見た。
人を替えただけで、倒れた人の働き方をそのまま渡そうとしていた。
「今夜は、第五塔を動かせません」
通信で知らせると、保護区域のナタリア医師から返事が来た。
エナの手首の熱が、昨夜より少し長く残っているという。
医師は再開を求めなかった。
今夜の診察回数を増やすとだけ伝えた。
エルドは勤務表を二つの短い枠に分けた。
翌朝、もう一人の技師の返事を聞くまでは空欄のままにする。
第五塔の灯りは、その夜は点かなかった。
七つのうち一つが暗いのを、エルドは監査局の窓から見た。
机に戻り、ナタリアから届いた診察の時刻を、第五塔の停止記録の下へ書いた。
一週間目、エナが自分の体調記録を持って監査局へ来た。
夜の指の熱は、半分ほどの時間で引くようになったという。
「数字にも出てる?」
ミレイスが測定表を見せる。
エナは慣れない目つきで線を追い、昨日の小さな山を指した。
「この夜は、少し痛かった」
「一致します。次の測定では時間を一時間ごとに変えます」
エナは頷き、席を立とうとしたところでエルドを見た。
「あなたは、まだ自分の名前を取り戻してる途中ね」
エルドは何も言わなかった。
エナもそれ以上聞かず、帰り際に局長室の湯飲みを洗っていった。
その日の午後、勇者学校からも封筒が届いた。
エルドが本人の権利で請求した評価票だ。
局長から渡された写しと内容は同じで、教官の「判断妥当」も残っていた。
違うのは送付先の欄に、エルド自身の名前が書かれていることだった。
彼は一週間前に書いた申立書を出した。
まだ署名していない。
判定を取り消してほしいのか、理由を正してほしいのか、あの日は決められなかった。
「出すんですか」
ミレイスが聞く。
「はい。合格を求める欄は空けます。まず、僕へ違う理由を知らせたことを訂正してもらいたい」
エルドは自分の名を書いた。
受理されるかは分からない。
期限も過ぎている。
それでも、期限内に理由を知らされなかった人へ同じ一年を数えるのはおかしいと、書くことはできる。
ミレイスは提出窓口まで同行したが、申立書には触れなかった。
本人が封筒を差し出すところを、少し離れて見ていた。
二週間目、火竜の卵が孵った。
セレナから届いた観測報告には、雛の体重と巣の温度に加え、母竜が回路から熱を外した時刻が記されていた。
新しい仕組みを設計する上で、頼りきりにしなかったことが証明された。
セレナは最後に「巣に近づくな」と一行添えた。
エルドは「守ります」と返した。
ひと月目、王都の議場で最初の公開聴取があった。
すべての秘密を一度に話すわけではない。
過剰魔力と、候補者の同意を記録する必要、監視塔の運用について説明した。
エルドは自分の試験の話をする前に、イサークの資格剥奪を挙げた。
情報を隠したことで一人の人生がどう変わったか、先に知ってほしかったからだ。
議員の一人が聞いた。
「すべてを公開すれば、候補者は危険にさらされるのでは?」
「名前を公開することと、本人に知らせることは別です」
エルドは法案の該当箇所を示した。
本人への通知、記録の閲覧権、同意を撤回する権利。
公の名簿には載せない。
決める相手を、国家から本人へ戻すための手続きだ。
「断られたら、世界をどう守るのですか」
別の議員が問う。
エルドは七つの拠点の図を開いた。
今は王都周辺でしか運用していない。
各地に広げるには時間も費用も必要だ。
「だから、今から準備します。誰か一人の返事に世界を預ける制度を、続けないために」
アデルは委員席から予算表を上げた。
「準備には年ごとの整備費が要ります。北の村は、王都ほど技師を呼べません。本人の拒否権を先に書いて、代わりの設備が届かなかった村へは、何と説明しますか」
エルドは答える前に、七つの拠点の配置を見た。
地図の外側にいる人に、三か月前と同じ選択を強いるつもりはない。
だが費用が足りるという数字も持っていなかった。
「先に法だけ通せば済むとは思いません。設備の届かない地区を、施行計画に名で残します。翌年の予算で消えていたら、もう一度ここで問い直してください」
「書いてください。私は確認します」
アデルは表を下げた。
賛成するとは言わなかった。
その答えで全員が納得したわけではない。
反対票も残った。
けれど次の週、技師の育成費が先に承認された。
その結果、勇者庁の予算表に「監視塔保守」と「支援術研修」の欄ができた。
同じ週に、ノエルの支援功績の特別認定も届いた。
審査に時間がかかったのは、彼の六件の討伐数を減らしたからではない。
支援の仕事を、どの部署が評価するか決める欄がなかったためだ。
「特別認定。昇格は保留」
ノエルは通知を読み上げた。
ガイルが顔をしかめる。
「名前を認めて、階級はそのままか」
「いいんです。前より、何をしていいか分かる」
通知には、医療班の現場指揮を担当できる範囲と、受けられる追加の訓練が書かれていた。
これまで彼はガイルの名で依頼に入り、治療の判断をしても、責任者欄には載らなかった。
今度は自分の署名を入れられる。
「でも、次の審査で昇格を目指します」
ノエルが付け足した。
「また討伐点が要るなら?」
エルドが聞く。
ノエルは自分の手帳を開いた。
医療所で患者を運んだ数と、術を止めた時刻が並んでいる。
「必要だと言われたら、理由を聞きます。俺が望む仕事に、その点が本当に要るのか」
ガイルは通知の端を握った。
最初に六件の功績を渡そうとした人だ。
ノエルがその数字を捨てて、別の名前のつく仕事を見つけたのを見ている。
「今度は俺が、付け足したいことがあれば聞く」
「仕事のあとでお願いします」
「分かってる」
ガイルは素直に頷いた。
エルドは通知の写しを監査局へ持ち帰り、制度改正の添付資料にした。
特別認定だけで済ませないためだ。
エルドは承認書を見て、真っ先に地下倉庫の設備係へ写しを送った。
返事は短かった。
『これで、十一年も眠らせずに済みます。』




