最終話 勇者の定義、それから……
その後も試験運用は、何度も止まった。
魔具が一台壊れ、南の観測点で遮断弁の交換も必要になった。
竜の巣は卵が孵ったあと、回路から外した。
どれも報告し、修理してから再開した。
現在の器はまだ生きている。
保護区域に暮らし、ときどき自分で記録を読みに来るようになった。
名は公表しない。
本人が望まないからだ。
だが、体調の数値も、回路を止める判断も、本人の席を空けて決めることはなくなった。
王議会では、秘密を守る法と、本人の同意を残す法が別々に審議された。
反対も多かった。
勇者とは魔王を討つ者だと訴える声もあった。
セレナは証人席で、北通りの子どもの話をした。
ガイルは避難路の図を見せ、ノエルは医療班の記録を出した。
ディルクは国境から書面だけを送った。
筆跡が本物だと証明したのは、ミレイスだった。
エルドは一度だけ、勇者試験の評価票を提出した。
制度に守られた時間も、奪われた選択も、同じ紙に残っている。
自分が候補だと明かす範囲は、自分で決めた。
議場には、エナからの手紙も届いた。
彼女の希望で、名前も保護区域の場所も伏せられている。
読み上げたのはミレイスだった。
『私の身体の数値を測る人はたくさんいました。夜に痛むと話したとき、朝の数値が正常だから心配はいらないと言われました。数字は必要です。でも、私は夜もここにいます。』
議員席で紙をめくる音が止まった。
エルドはエナの家の台所を思い出した。
薄い茶を局長の前に置き、子どもの靴を気にしていたのを思い出した。
手紙は、力を受けたことを後悔しているとも、誇りに思っているとも書かなかった。
医師を自分で選べるようにしてほしいこと、次の人には事前に説明してほしいこと、断る権利と断った後の暮らしも守ってほしいことが続いた。
「現在の器が書いたと、どう証明しますか」
反対派の議員が聞いた。
ミレイスは封筒の封印を見せた。
「本人に許可を得た監査官二名が、受領の過程を記録しています。筆跡の原本は、本人の希望で非公開です」
「それでは我々が確認できない」
「守秘の手続きに従えば、指定された議員は閲覧できます。ここで名前を読み上げる必要はありません」
アデルが補った。
議員は黙り、閲覧できる者の一覧を求めた。
聴取が終わってから、エルドはエナへ議場の記録を送った。
返事は「私の言った通りに読まれた」と短かった。
法ができる前に、そこだけは確かめておきたかった。
三か月後、勇者法の緊急改正案の第一段階が、王議会を通った。
新しい第一条を整えたのはミレイスだ。
何度も言葉を直し、役人と議論し、最後に短い一文へ収めた。
『勇者は、力と知恵をもって、人々の命と暮らしを守る者とする。』
エルドは公布された法冊を開いた。
第一条の前には、新たな前文がある。
過剰魔力に関わる者の意思と生活を守ること。
秘密を理由に本人の同意を奪わないこと。
過去の継承記録も調査し、失われた承諾をなかったことにしないこと。
第零条の言葉を隠したままにはしなかった。
ただ、誰かを探すための名簿にはしない。
細かな運用は、次の審議へ残された。
候補者名簿には、エルド以外の二人が残っている。
エルドは名前を見ていない。
委員会は二人についても本人への通知方法と保護措置を再審査する、と決めた。
保護が先に整った人から本人に説明する。
エルドが「期限は」と照会すると、アデルから返信が届いた。
審査予定日は書かれているが、説明を終える日は空欄だった。
エルドはその日付を手帳に写した。
自分への通知だけが例外だったことにはしたくない。
法冊と一緒に、施行のための書類も届いた。
監視塔の保守点検、支援功績の認定、候補者本人への通知。
どれも用紙だけ作れば終わる仕事ではない。
最初の一週間、監査局には問い合わせが絶えなかった。
ある村の役人は、地脈の色が変わったとき、勇者を呼ぶのか技師を呼ぶのか聞いた。
エルドは両方の連絡先を伝え、住民の避難判断は村ができると説明した。
別のギルドからは、救助だけに出た勇者の報酬欄について照会が来た。
ミレイスは旧い様式を送り返さず、新しい欄のある用紙を出した。
イサークからも便りが届いた。
荷車の修理場へ、若い勇者が車輪を持ってきたという。
イサークは仕事の代金を受け取り、資格の話はしなかった。
封筒には、採石場の補償金を受け取った家族からの返事の写しが、一枚入っていた。
『読んだ。まだ会うつもりはない。』
返事が短いからといって、なかったことにはできない。
イサークは便りの末尾に「分かった」とだけ添えていた。
同じ日の夕方、エルド自身の申立てにも返事が来た。
勇者庁の封筒は、学校から届いたものより厚い。
ミレイスは席を外そうとしたが、エルドが引き止めた。
『「現場適性に難あり」とする通知理由を撤回し、評価票の「救助対象の確認を優先。判断妥当」を本人へ正式に通知する。』
そこまでは読めた。
次の行には、当時の選考結果は変更しないとある。
特別審査の判断は、あの年の資格名簿からエルドを外すものだった。
理由の訂正はできても、過去の合格者欄に名を足す規定はない。
審査委員会は、適性測定を本人へ知らせなかった経緯について、別途調査を続けるという。
「理由を直せるのに、結果は直せないんですか」
ミレイスが通知を読み直した。
エルドは頷いた。
「再審の道は、まだあります」
「使いますか」
「考えます。もう気にしていないとは言えません」
ミレイスは返事の期限を指した。
今度は三十日ある。
エルドは手帳にその日を書いた。
仕事の予定と同じページになったが、線で消さなかった。
夕方の片づけを終えたセレナが通知を見て、「なら、一緒に文句を言いに行く」と言った。
エルドは少し笑い、首を振る。
「必要になったら頼みます。でも、監査官を続けるかは、この返事と別に決めます」
セレナは納得しきらない顔で、封筒を机へ戻した。
エルドもそれでよかった。
撤回された一行の下には、撤回されなかった不合格が残っている。
初めの塔の修繕費にも印がついた。
腐った梁を取り替えるのは、今回の試験に必要だった仮設点とは別の仕事だ。
設備係から届いた見積もりには、新しい屋根材の名前と、作業する職人の人数が並ぶ。
エルドは法冊を脇に置き、まずその見積もりへ署名した。
「監査官は、勇者に入るのかな」
セレナが法冊を覗く。
エルドは首を振った。
「資格の欄では、入りません」
「また、そういう答えなんだ」
「僕は監査官を続けます」
セレナは法冊を閉じた。
「あなたは勇者になれなかったんじゃない。勇者って言葉を、作り直したんだよ」
エルドはすぐに返事をしなかった。
言葉を作り直したのは一人ではない。
むしろ、七つの灯りを見た夜から、誰か一人の名前で片づけるのが苦手になった。
「僕だけでは、できませんでした」
「知ってる」
セレナは笑った。
その答えなら、最初から分かっていた顔だった。
*
翌朝、監査局の机に新しい封筒が置かれた。
ミレイスが差出国を確かめ、エルドの前へ滑らせる。
「国外からの調査依頼です」
封筒は重い。
中には死亡届の写しと、ギルドの現役名簿が入っていた。
エルドは名を一つずつ照合する。
死亡した勇者、三十二名。
全員、現在も勇者として活動中。
「同姓同名ですか」
ノエルが、届けに来た書類を持ったまま聞いた。
「まだ分かりません」
エルドは名簿を机へ置いた。
窓の外では、朝の依頼札を見に行く勇者たちが通る。
試験に落ちたころ、あの列が眩しかった。
今は、並ばずに済む道にも仕事があると知っている。
ミレイスは調査票を一枚出した。
セレナは壁の地図を広げた。
廊下からはガイルの声が聞こえた。
ノエルは患者の記録を机に置いて、今日は自分が届けに行く番だと言った。
エルドは最初の欄に日付を書いた。
死亡届と現役名簿。
――まず、数が合わない。
-了-




