第3話 倒されなかった火竜 [前編]
火竜が討伐されたという報告が届いた翌朝、山の上に赤い雲が出た。
「火山の噴煙じゃありません」
監査局の窓を開けた職員が言った。
雲は西へ細く流れ、陽を受けると内側から光って見えた。
火竜が縄張りを示すときに吐く、熱の混じった息だ。
エルドは報告書を閉じた。
討伐者はS級勇者セレナ・ヴァルキス。
昨日の日付で「成体火竜一頭、討伐完了」と署名している。
素材の搬入欄は空白だった。
「倒した竜が、今朝も息をしているようですね」
ミレイスは鞄に鑑識具を入れた。
「本人に聞きましょう。セレナさんが素直に話すなら、午前中に終わります」
「素直に話す方ですか」
「監査官に対しては、特に」
その言い方で、終わらないだろうと分かった。
エルドは表紙に書かれたS級の文字を見た。
自分が勇者試験の結果通知を受け取った年、セレナはもう討伐実績を積んでいた。
同じ教本で学び、片方は剣を持って山へ行き、片方はその報告書を読む。
仕事に不満はない。
そう言える日と、言えない日があった。
今朝は後者だった。
素材もないのに「討伐完了」と書けるのは、S級だからだろうか。
そこまで考え、エルドは報告書を鞄の奥へ押し込んだ。
セレナは勇者ギルドの訓練場にいた。
銀色の髪を後ろで束ね、木剣を握った新人二人の間を歩いている。
誰かが距離を詰めすぎると、足首を軽く蹴って下がらせた。
訓練用の剣を持つ手は空だったが、その腰には炎色の鞘がある。
「セレナ・ヴァルキスさん」
エルドが声をかけると、彼女は振り返った。
青い目が、監査局の紋章を捉える。
「昨日の火竜の件?」
「はい。討伐証明の確認に来ました」
「書類は出したよ」
「素材がないので、現地確認が必要です」
セレナは木剣を新人に返し、エルドの顔を見た。
「肩書きは?」
「国家勇者監査局、第一監査課のエルド・カレインです」
「若いね」
「あなたと一つしか違いません」
「私は二十二。あなたは?」
「二十三です」
「一つ上か。ごめん」
謝り方があまりにも軽く、エルドは返事をしそびれた。
セレナは続けて、ミレイスに向いた。
「で、眼鏡の監査官は何を疑ってるの」
「報告書が事実と異なる可能性です」
「はっきり言うね」
「曖昧なまま山へ登るより安全ですから」
少しのあいだ、二人は互いを見ていた。
エルドは昨日の小瓶を思い出した。
青白い粉に混じった黒い層。
今朝の赤い雲とは別の現象だろうか。
「山へ行かせてください。あなたにも同行をお願いします」
セレナは訓練場の外へ目をやった。
二人の新人が、話を聞かないふりで剣を振っている。
「いいよ。見れば分かる」
山へ出る前、エルドは仮の監査票を作った。
「虚偽報告」の横に、鉛筆で「報酬目的」と書く。
討伐の証拠がないのに報酬を請求している。
筋は通ると思った。
ミレイスがその二語を見た。
「目的はまだ分かりません」
「報酬の請求書があります」
「受け取るために嘘を書いたかは、別です」
エルドは消しゴムを持ったまま、すぐには字を消さなかった。
訓練場を出てきたセレナが、二人の後ろで立ち止まる。
「私がS級だから、これで通ると思ったんでしょ」
仮票が見えたのかと思ったが、彼女の視線はエルドの顔にあった。
「通っていません。だから来たんです」
「そういうことを聞いたんじゃない」
セレナは馬の手綱を取った。
エルドは「報酬目的」を消した。
紙が少し毛羽立つ。
消せたのは字だけだと、山道へ出てからも気になった。
*
西の山道は途中から土が温かかった。
靴底を通して熱が伝わる。
山腹の集落では、屋根の上に薄い灰が積もっていた。
井戸の桶にも同じ灰が浮いている。
「竜が暴れたせいですか」
エルドが尋ねると、道案内の老人は首を振った。
「ずっと前からさ。ここひと月でひどくなった」
竜が村を襲うなら、家畜が先に騒ぐという。
だが羊は谷の草を食べ、水場にも近づいている。
困っているのは灰と熱だけだった。
討伐依頼を出したのは、この集落ではない。
山の南で新しい鉱山を開いた商会だった。
道案内の老人がその名を出すと、セレナは少しだけ足を速めた。
「商会は何を掘っていますか」
「白い石だ。魔具の芯になるって」
ミレイスがエルドを見た。
火竜が住む山で採れる魔力石。
採掘が始まった時期と、灰が増えた時期は重なる。
昼過ぎ、三人は尾根の穴に着いた。
竜の巣は岩の割れ目の奥にある。
入口には削れた鱗がいくつか落ちていた。
エルドが屈むと、セレナが腕を引いた。
「そこから先、私より前に出ないで」
岩の奥で何かが動いた。
暗がりから、大きな金色の目が一つ見える。
その下で、さらに小さな影が身じろぎした。
火竜は生きていた。
翼の端は裂け、左の前脚には古い傷がある。
身体を巣の中央へ寄せ、卵を三つ抱えていた。
殻の一つには、小さなひびが入っている。
「これが、あなたの倒した火竜ですか」
ミレイスの声は静かだった。
「違う」
セレナは嘘を続けなかった。
「討伐したと書いた。でも、斬ってない」
「なぜ」
「子どもがいるから」
「それだけでは、依頼を虚偽で完了にできません」
ミレイスが言うと、セレナは唇を噛んだ。
「巣を壊せば、卵が割れる」
「巣を残す選択はあります。討伐したと報告する必要はありません」
「正直に『生きてます』って書いたら、次の勇者が来る。商会が高い素材代を乗せて、また依頼を出す。私が逃げたと思われるだけなら構わない。でも、こいつは次で殺される」
竜がゆっくり頭を上げた。
セレナの声を覚えているように見えたが、エルドには確かめようがない。
「村に危険はありませんか」
エルドは巣の外を見た。斜面には乾いた草がある。
火竜の息が一度強まれば、谷まで火が走る。
「ないとは言わない」
セレナが答えた。
「だから昨日、岩の裂け目を塞いだ。熱が巣の中へ戻るように。村へ向かう道には結界を張った」
「それも報告していない」
「討伐の欄しかなかったから」
ミレイスは反論しなかった。
報告書には確かに、討伐対象、使用術式、素材、報酬の欄しかない。
撤退や捕獲の欄はあるが、繁殖中の魔獣を保護した場合に何を記すのか、一目では分からない。
エルドは足元の鱗を一枚拾った。
表面に黒い筋がある。
火竜の本来の色ではなかった。
「傷ではありませんね」
ミレイスが鑑識針を当てた。
針先の小さな石が鈍く光る。
「外から入った魔力です。南側の地層と同じ傾向」
竜が巣を離れずに熱を吐いていたのは、鉱山の採掘で地脈が揺れ、卵を守るために熱を循環させていたからかもしれない。
セレナはその説明を聞いて、岩壁に手をついた。
「やっぱり、商会が先に山を起こしたんだ」
「まだ仮説です」
ミレイスは鱗を小袋へ入れた。
「採掘現場の記録と比べれば、もっと確かなことが言えます」
巣を離れるとき、卵の殻が内側からわずかに動いた。
セレナが足を止める。
火竜は彼女の方を向き、短く息を吐いた。
熱は届かなかった。
山道を下りてもしばらく、セレナは振り向いていた。
エルドは巣の位置を地図へ書き込む。
金色の目を見たあとでは、印一つで囲うのがためらわれた。
「最初に依頼を見たとき、何を聞きましたか」
エルドが尋ねる。
セレナは少し考えた。
「竜が熱を吐いて、鉱山が危ないって。支配人からね」
「村の人とは」
「話してない。急いで山へ来たから」
自分で言ってから、彼女は口を閉じた。
巣に卵があると分かったのは、竜の前へ立ってからだった。
そこで斬るのをやめ、商会へは討伐したと伝えた。
村へ降りて、本当に困っていることを聞く手順は残っていた。
「商会がもう一人の勇者を呼ぶのを止めたかった」
「それは分かります」
「でも、報告書に竜が生きてると書いたら、依頼は未完了になる。次の日には別の剣が来る」
「だから、完了にした」
「そう」
セレナは石を蹴った。
小石は山道の端で止まった。
「良い方法だと思ったんじゃない。ほかの方法を、その場で考えられなかった」
エルドは返事を急がなかった。
彼女が嘘をついた理由は、卵を見れば理解できる。
だが報告を信じた集落では、危険が終わったと思って山道を使う人もいる。
「次に同じことがあったら、僕らへ連絡してください」
「あなたたちが来るまで待てないときは?」
「結界を張って、避難を頼んでください。その時間で、現地保全の許可を取ります」
「規則にあるの?」
「古い規則を探します。なければ緊急措置として記録します」
セレナは疑問の表情を浮かべる。
「ずいぶん監査官らしくない」
「記録を残すのは、監査官の仕事です」
言い切ってからエルドは少し不安になった。
ミレイスが後ろで聞いている。
彼女は何も言わず、鱗の入った袋に採取時刻を書いていた。その沈黙に助けられた。




