第2話 数の合わないゴブリン討伐 [後編]
畑へ向かった一体は、午後になる前に見つかった。
川辺に置かれた水桶を倒し、農具小屋の下へ潜り込んでいた。
ガイルが剣で入口を塞ぎ、ギルドから呼んだC級勇者が捕獲した。
危険が去ったことを確認するまで、エルドたちは畑に人を入れなかった。
問題は、もう一体だった。
「血が途切れています」
水門の石段で、ミレイスがしゃがんだ。
砂の上には細い赤茶色の筋が続いていたが、鉄扉の手前で消えている。
「水へ入ったんでしょうか」
「その可能性はあります。ただ、傷を負った足で流れに逆らうとは思えません」
エルドは石段の下を見た。
川の水位は低い。
水門の扉は半分閉まり、下部に人の腕ほどの隙間がある。
ゴブリンなら通れる。
しかしその先は、村の共同井戸へ続く古い導水路だった。
「井戸を使う家は?」
「今は二軒だけです」
後ろから声がした。
昨日救われた少女だった。
母親の手を握り、土手の上に立っている。
エルドが声をかける前に、ガイルが母子へ向かった。
「家へ戻れ。井戸も今日は使うな」
「あの」
少女はガイルではなく、ノエルを見ていた。
「昨日は、ありがとう」
ノエルは何か答えようとして、言葉を見つけられないようだった。
少女の膝には新しい包帯が巻かれている。
ノエルが昨日巻いたものより、ずっときれいだ。
「君、ここへ来ちゃだめだ」
「お母さんと一緒だよ」
「そうじゃなくて。まだ、危ないから」
「じゃあ、早く終わらせて」
少女は正直だった。
ノエルは頷き、ガイルとともに水門へ向かった。
エルドは導水路の図面を探した。
村役場の保管箱に、一枚だけ残っていた。
四十年前の改修図。
現在の井戸へ続く管のほかに、使われていない点検口が二つある。
「ここを閉めれば、出口を一つにできます」
「閉めるだけなら私がやります」
ミレイスが言い、役場の職員から鍵を受け取った。
小柄な背中が石段を降りる。
戦えないと口にした人の歩き方ではなかった。
怖くないのではなく、怖くても手順を守る歩き方だと、エルドには思えた。
鉄扉の下で、ノエルが片手を伸ばした。
淡い光が水面を薄く覆う。
治癒術の応用で、触れた魔力の流れを遅らせる術だという。
剣で追えば狭い管の中を逃げ回る。
出口を限定して捕える方が、村への被害も少ない。
「昨日は、これを使うつもりでした」
ノエルはエルドに聞こえる距離で言った。
「でも、あの子の声がして、手が勝手に動いて」
「今日も、手は動いています」
「慰めですか」
「見たままです」
点検口の蓋が閉まる音がした。
ミレイスが手を上げる。
ガイルが水門の扉を開いた。
冷たい水が流れ出す。
光の膜が揺れ、泥の中から小さな影が跳ねた。
ノエルが一歩踏み出す。
「そこです」
光の輪が影を捕らえた。
ガイルの剣が、その前へ突き立つ。
逃げ道を失ったゴブリンは歯を剥いたが、近づくことはできなかった。
ギルドの勇者が拘束具を掛ける。
ようやく二体目が確保された。
誰も歓声を上げなかった。
村の水路が汚れていないか、これから調べなければならない。
点検口も元に戻す必要がある。
仕事は、剣を収めたところでは終わらなかった。
*
夕方、ギルドの小会議室には四枚の書類が並んだ。
元の討伐報告書。
訂正届。
追跡記録。
少女の救助申告書。
「虚偽の数字を記した事実は残ります」
ミレイスはガイルを見た。
「監査局への報告と、ギルド内の戒告を勧告します。追加の討伐報酬は支給できません」
「承知した」
ガイルの返事は短かった。
「ノエルさんの件は?」
エルドが別の用紙を出す。
「勇者法施行規則に、依頼遂行中の緊急救助を実習評価へ算入する手続きがあります。討伐未達の減点は消えません。ただ、少女の救助と今日の拘束は、別の実績として審査できます」
ノエルが用紙を受け取った。
文字を追う目が、途中で止まる。
「こんな項目、学校で習いませんでした」
「試験には出ます」
「出ましたっけ」
「去年の筆記、三十二問目」
ノエルは少しだけ笑った。
ガイルが横から覗き込む。
「お前、よく覚えてるな」
「僕も受けましたから」
部屋が静かになった。
エルドは用紙の角をそろえた。
国家勇者試験の最終実技で落ちたことは、監査局では隠していない。
けれど勇者の前で口にしたのは初めてだった。
「実技は駄目でした。でも、筆記は得意だったんです」
ガイルはしばらくエルドを見ていた。
やがて、苦い顔で笑った。
「俺は、監査官ってのは数字を減らしに来る連中だと思ってた」
「減らす数字もあります」
「そうだな。二十を十八に戻した」
エルドは返事をしなかった。
昨日の時点で正しい数字を書いていれば、水門の確認はもっと早くできた。
それは消えない。
ノエルは救助申告書の空欄に、少女の名前を書いた。
文字は少し歪んでいたが、最後まで書き直さなかった。
「これで、俺は勇者を続けられますか」
「審査の結果は、僕には決められません」
エルドは正直に答えた。
「ただ、昨日あなたがしたことを、討伐失敗の一行だけで終わらせずに済みます」
ノエルはその一行を見つめ、それから頷いた。
帰り際、ミレイスが現場鑑識の小瓶を卓上に置いた。
中には水門の石から採った、青白い粉が入っている。
「ゴブリンの魔力痕に、異質な層が混じっていました。村の地脈より濃い」
「魔物が増える前触れですか」
「まだ分かりません。たまたまの偏りかもしれない」
ミレイスは小瓶を窓明かりにかざした。
粉の一部が、光を受けて黒く見えた。
「念のため、持ち帰ります」
エルドは外へ出た。
ギルドの依頼札は半分ほど外され、朝よりずっと静かだった。
村へ帰る荷車の上で、少女が母親に何か話している。
ノエルが拘束の輪を作ったときの手振りを、何度も真似していた。
エルドは朝拾った赤い紐を、母親へ見せた。
少女が身を乗り出す。
「それ、私の」
「谷の川辺にありました」
「走ってるとき、ほどけたのかな」
紐はまだ汚れていた。
母親は礼を言い、荷の隅から小さな布を出して拭いた。
少女はその場で髪に結び直し、ノエルへ得意そうに見せる。
ノエルは「今度は、そこへ入らないで」と言った。
少女は分かっているのかいないのか、真剣な顔で頷いた。
ガイルはその姿に気づき、ノエルの肩を軽く叩いた。
「生きて帰りゃ勝ちだ。帰ってから、ちゃんと書け」
「はい」
エルドは訂正済みの報告書を鞄にしまった。
二十と書かれた数字には一本線が引かれ、その横に十八とある。
余白には、当初の依頼から逃れた二体を別の追跡作業で捕らえたことと、救助の経緯が小さな字で追加されていた。
数字は減った。
けれど、その紙に書かれた人間の仕事は、朝より少し増えていた。




