第29話 勇者を信じるということ [後編]
翌夕、職人組合から連絡が来た。
別の地区で同じ型の魔具を直していた技師が、夜だけなら来られるという。
エルドは危険と勤務条件を説明し、返事を翌朝まで待った。
代わりの人間にも、考える夜が要った。
引き受けるという返事が来て、四番目の塔の欄が埋まった。
最初の技師には仕事を終えた分の賃金を払い、辞退を理由に通常の勤務から外されないことも確認した。
その日の午後、ガイルは南門までの避難路を歩かせた。
伝令が町内の鐘を鳴らし、協力を頼んだ住民と店の人が、普段着のまま通りへ出る。
事情は地脈設備の試験に備えた訓練とだけ伝えた。
人の名は出さない。
それでも、鐘を聞いて窓を閉める人たちが、何から逃げるのかを知らずに走らされていることは分かる。
「ゆっくりでいい。走ると橋で詰まる」
ガイルが声を張った。
橋の手前では、荷車を引いた商人が通行証を見せて列を抜けようとした。
「生ものなんだよ。置いていけっていうのか」
「門の外で待てとは言わん。荷車は川沿いの道へ回してくれ」
「あっちは石が悪い。車輪が折れたら、あんたが払うのか」
ガイルは言い返しかけ、道を見に行かせた。
商人の言う通り、石が三枚浮いていた。
職人を呼んで直せば一時間かかる。
訓練の列はそのあいだにも橋へ溜まった。
エルドは商人を立ち止まらせた時間を書いた。
実際の災害なら、通行証より車輪の方が先に壊れる。
地図には広い道として描かれていたが、商人は毎日そこを通っている。
「石を直す費用は、試験に入れます」
「試験が終わったら忘れるなよ」
商人は荷車を脇へ寄せた。
道を譲った顔ではなかった。
セレナが列の終わりから戻ってきた。
「後ろの家、まだ人がいる」
「伝令は行ったぞ」
「耳の遠いおじいさん。鐘は聞こえてない。窓から人の流れを見て、何かあったとは思ったみたいだけど」
ガイルは伝令を責めなかった。
鐘が届かない家には戸を叩く人を付ける。
町内の地図へ印を足すと、印はその一軒だけでは済まなかった。
寝たきりの人、昼は一人で店番をする人、階段を下りられない人。
役場からもらった住民数では、歩ける速さが分からない。
「次は全員に聞いてから図を書こう」
エルドが言うと、セレナは首を振った。
「今日聞いて。次まで十日もないんでしょ」
正しかった。
エルドは役場へ走った。
名簿を持つ職員は驚いた顔をしたが、家を回る人を二人出してくれた。
訓練は予定より二時間遅れて終わった。
商人の荷車は北の市場へ引き返し、売り切るはずだった魚を少し残した。
ガイルが謝ると、商人は「明日は鐘を鳴らす前に知らせろ」と言った。
夜、避難路の補足図には修理する石の場所と、戸を叩く家の印が増えた。
ガイルは橋を渡る人数を当初の半分に直す。
残りは南の大通りへ回す。
どちらも一度に塞がれたら、もう計画とは呼べない。
エルドはその欄を空けず、「訓練未了」と書いた。
委員会へ見せる図を綺麗にするために、消せる文字ではなかった。
ガイルは最終の避難路を確認しながら言った。
「これで、みんな自分の場所を知ったな」
「不安な人もいます」
「不安なまま立つこともある。何に立つか知らないより、ずっといい」
エルドは署名の揃った紙を重ねた。
局長室へ向かう前、国境のディルクから返書が届いた。
最初の図を送って意見を頼んでいた。
短い文の下に、泥のついた指の跡がある。
『今度は、本人より先に世界の救い方を決めるな。塔の技師にも、断る口を残せ。』
エルドは辞退の欄がある紙と、エナが書いた停止条件を並べた。
作って終わりにはできない。
試験が始まってからも、二人の声を聞ける場所に置く。
その夜、局長室に全員が集まった。
アデルも委員会から来ていた。
前に返された図には、仮設点と遮断弁の実測値が書き込まれている。
彼女は試作機が割れた記録から読み、辞退した技師の欄で一度止まった。
「この人の代わりは、見つかったんですね」
「本人の承諾を得て、別の技師が入りました」
「辞退した人へ、後から不利益が出ないようにしてください」
アデルはそこには赤い印をつけなかった。
だが図の中央へ戻ると、指を離した。
「入口を開く試験は、まだ一度も成功していません。低負荷の数字を本番の保証にしないで」
エルドは頷いた。
委員会を納得させるためだけに試験したのではない。
アデルに見えている穴は、エルドにも見えている。
オルディスは図を最後まで見たあと、静かに言った。
「稼働中の魔具が一斉に破損したら、城下町の半分が焼ける」
「七か所の入口に遮断弁を置きます。一つでも危険値を越えたら、全体を止める」
ミレイスが答えた。
「止めれば、元の器へ戻る。今の器が耐えられなければ……」
オルディスはエルドを見た。
「その時、僕が受けます」
エルドが言うと、セレナがすぐに立った。
「その条件なら、私は署名しない」
エルドは彼女を見る。
セレナは怒っていた。
「あなたを助ける案を作って、最後の一行であなたを器に戻してる」
セレナは一度、息を吸った。
「じゃあ全部止めてよ。エルドを連れて、遠くへ行けば」
セレナは言ってから、地図の北側を見た。
そこにはエナの家もある。
連れていけない人の名を、自分で一人も挙げなかった。
「ごめん。今のは、違う」
エルドは首を振った。
彼も同じことを一瞬考えていた。
「僕へ移せば、少なくとも明日の流入は抑えられます。委員会の計算では、一番確実です」
「その計算に、あなたが何年持つかは入っていない」
ミレイスは図から目を上げなかった。
指で押さえていた紙が、少し曲がる。
「私も、エナさんを助けるためなら、あなたは断れないと決めかけました。今の案にあなたを最後の器として残せば、同じことです」
エルドは返事ができなかった。
失敗の後始末を一人に背負わせる線を、自分で引いていた。
ガイルが壁の地図を取った。
「止めた後は、避難を始める。七つの観測拠点を切り離して、住民を南へ。今の器へ戻る流れが抑えられないなら、段階的に山の空地へ逃がす。何人かで結界を張る」
「空地は火竜の巣から離してください」
セレナが言う。
ガイルは地図に別の線を引いた。
オルディスは地図の南へ引かれた線を見た。
「移行なら、危険は候補者一人に寄る。これを許せば、塔が壊れたとき城下町を危険に晒す。署名するのは私だ」
「はい」
「委員会の却下は、まだ残っています」
アデルが言った。
オルディスは彼女を見た。
「局長の災害時試験権限を使う。恒久運用にはしない。今夜の測定値なら、明日の委員会まで待つことも判断だ。私は待たない」
「私は反対します。失敗すれば、その反対も記録に残してください」
「残す」
アデルは反対理由を自分で書いた。
避難経路の補足図だけは、ガイルの方へ押し出す。
承認したからではない。
試験が始まるなら、城下町の人が逃げる道を減らせないからだ。
「ここは、訓練未了のままですね」
アデルが橋の横を指した。
ガイルは頷く。荷車の道は直したが、南の大通りと橋が同時に使えなくなった場合まで、人を歩かせてはいない。
彼は地図を伏せずに言った。
「その時は、市場の裏から徒歩で抜ける。先に伝令を二人置く。ただ、実際に通れた時刻はまだ取れていない」
「そこへ住む人には、何と知らせますか」
「設備の試験と、避難の可能性を。嘘の安心は伝えない」
アデルはその答えに印をつけた。
賛成の印ではなかった。
後で何が起きても、図に残った空白をなかったことにしないための印だった。
ガイルは消しかけた避難線を指で押さえた。
セレナは座らずに、エルドの方を見ている。誰も安全だとは言わなかった。
「一つ聞く」
局長がエルドへ向いた。
「君が魔力を受けやすい体質だということは変わらない。起動時に何が起こるか、誰にも保証できない。それでもやるのか」
「はい。ただし、自分で止める権利もください。測定値を隠さず、僕にも全部見せてください」
局長は長く息を吐いた。
「第零条に、本来そう書いてあった」
彼は許可欄へ署名した。
恒久制度ではない。
今回の災害に限る試験運用、七か所同時監視、エルドとエナと各運用者の同意、即時中止条件つき。
失敗すれば責任を取ると局長自身の字で添えた。
エルドは紙を受け取った。
国を変える宣言には見えない。
ただの許可書だ。
けれど、誰か一人を黙って器へ押し込む手順からは、確かに一歩離れていた。
「始めましょう」
ミレイスが言った。
ガイルは先に避難計画を持って走り、ノエルは魔具の調整へ戻った。
セレナは出入口でエルドを待っている。
「最後に食事、取った?」
「昼です」
「昼の何」
「……パンを半分」
「それ、食事じゃない」
彼女は自分の鞄から固いチーズを取り出した。
エルドは受け取り、少し笑った。
魔王の継承を変える前に、まず腹を満たす。
手順としては、正しかった。




