第28話 勇者を信じるということ [中編]
保護区域へ持って行った図は、矢印だらけで分かりにくかった。
エナは台所の卓へ広げ、最初に自分の家の場所を探した。
「これが今、私へ向かっている線?」
「はい。分岐させれば、流入量を減らせる可能性があります」
「減らしすぎたら?」
エルドは答えに詰まった。
流入が負担なら少ないほどよいと、無意識に考えていた。
エナは湯飲みを二つ並べた。
「いま私の身体は、この量に慣れてる。いきなり全部抜かれたら、どうなるか分からないでしょう」
ミレイスは図の分岐点に印をつけた。
「一度に変える量を決めます。あなたの体調と数値を見て、段階ごとに進める。夜の診察も入れます」
「私が止めてと言ったら?」
「止めます」
エルドが答える。
エナはすぐには頷かなかった。
「言ったときに、誰が聞くの。あなたが塔にいて、あの人が局にいるなら」
ミレイスは通信石の配置を書き直した。
保護区域の医療所へ一本、監視室へ一本。
エナのそばには彼女が選んだ医師ナタリアがいる。
体調の訴えを数値より後回しにしないよう、医師から直接停止を求められる回線を作る。
「私の声が届くなら、試していい」
エナはそう言い、続けて条件を足した。
試験の前日には医師と食事をし、当日は近所の子どもが来ないようにする。
何かが起きた場合、畑の世話を誰へ頼むかも書きたい。
エルドは最後の条件を聞いて、胸が詰まった。
世界の仕組みを変える図に、鉢の水やりの欄はない。
けれどエナが明日を考えるとき、そこから始まる。
「書きましょう」
ミレイスは別紙を出した。
エナが自分で書き、二人は読み返して署名した。
承諾書の一番下には、取り消しの欄がある。
エナはそこを見てから、最初の欄にも署名した。
エルドはアデルから渡された冊子の、白い最後の頁を見せた。
「僕が移行を断ったら、エナさんに何が起きるか。委員会は数字なら書けると言いました」
エナは頁を読んだ。
台所の窓から、鉢を運ぶ子どもの声が聞こえる。
「夜の痛みは、たぶん続く。ひどくなるかもしれない。だからって、私の名前を使ってあなたを急がせないで」
「ここへ書いてもいいですか」
「私の言葉でなら」
エナは「移行を断られた場合も、医療と分散の試験を続けること」と自分で書いた。
エルドはそこへ数字を足さなかった。
アデルへ返す前に、エナが読み返してから頁を閉じた。
*
午後、試作の準備を始めた。
まず、ギルドの地下倉庫にある古い魔具の状態を確かめる。
魔具を運び出す前に、地下倉庫の鍵を開けるところで揉めた。
ギルドの設備係は古い台帳を抱え、扉の前に立った。
「四十七台あります。でも、使えるとは書いてありません」
「状態を見て選びます」
ノエルが言うと、設備係は鍵を見せた。
「こういう時だけ出して、壊れたら『古かったから』で終わる。次の補助が下りないんです」
ギルドの予算では、新しい攻撃魔具は買えても、地脈を整える古い設備の修理は後回しになっていた。
壊れたときに困るのは、次にこの倉庫を使う人だ。
「修理費も試験の経費に入れます」
ミレイスが書いた。
設備係はすぐには鍵を開けない。
「上が認めますか」
「今ここで見積もりを取ります。後から落とされないよう、局長の印も」
彼女は見積欄の空いた用紙を差し出した。
設備係はようやく鍵を回した。
地下には銅の輪が並んでいた。
埃をかぶったもの、木箱に入ったままのもの、部品を外されて中身の見えるもの。
ノエルが一台ずつ銘板を読み、ミレイスが台帳の番号へ印をつける。
「四十七のうち、すぐ使えるのは二十八。修理で戻せるのが十六。残り三つは、部品取りにした方がいいです」
ノエルは傷んだ輪を床へ置いた。
ガイルが覗き込む。
「前にここへ来たのは、何年前だ?」
「記録上は十一年前です」
設備係の答えに、ガイルは舌打ちした。
倉庫の床には、開けたばかりの木箱から埃が落ちている。
ミレイスは作業台に紙を広げた。
「試験当日までに四十四台を整備し、そのうち三台を予備にする。直せない三台は部品取りに。どの台が故障したかは番号で追います」
設備係は彼女を見た。
「整備する人手が足りません」
「勇者だけで作業しません。職人組合へ依頼します」
エルドは職人への発注書を書いた。
ギルドの台帳と違い、名前欄は勇者ではなく技師になっている。
翌朝、職人が三人来た。
最初の一人は新しい魔具の設計をしており、古い型を知らなかった。
設備係が分解図を出して説明する。
二人目は留め具の加工が得意だった。
三人目は測定器の細い針を直せるという。
ノエルは彼らに術式の負荷を説明し、誰も「勇者に任せればいい」とは言わなかった。
その日の午後には組合からさらに六人が来て、修理できる十六台を分けて預かった。
夕方には、選んだ三台が監査局の中庭に並んだ。
赤錆のついた留め具をノエルが直し、ミレイスが接続前後の魔力を測る。
セレナは火竜の巣で今の呼吸と熱量を記録し、戻ってきたところだった。
派手な装置ではない。
片方に水を入れた桶があり、壊れた場合に熱を逃がす砂箱がある。
ガイルは庭の出口を二つ確認し、見学者を線の外へ下がらせた。
エルドが最初の矢印を描いた紙を持つと、セレナがその横に立った。
「私の名前は、どこに書けばいい?」
「後で考えますので、今は結界をお願いします」
「書く欄がない」
ミレイスはため息をしつつ、試験記録の余白に「結界責任者」と書き足した。
セレナは満足した顔で印を押した。
最初の試験では、一台目の魔具が割れた。
音は小さかった。
けれど、表面に細い亀裂が入り、ミレイスはすぐ試験を止めた。
「流入が急すぎます」
ノエルは壊れた部品を持ち上げた。
「流れ出す量は少なかった。入口で受ける瞬間が一番強いんです」
技師の一人が割れ目を指でなぞった。
「輪そのものじゃない。留め具を新しいものに替えれば、この台は戻せる。ただ、同じ繋ぎ方ならまた割れる」
技師は手袋を脱ぎ、親指の赤い線を見せた。
破片が飛んだのではない。
留め具を押さえた瞬間、熱が手袋を抜けた。
ノエルが水で冷やすと、技師は「平気」と言ったが、工具を持ち直す指が震えていた。
「針は、危険値より下でした」
ミレイスは測定表を見た。
十七秒の平均値は予定内に収まっている。
入口で一瞬だけ高い圧がかかり、その短さを針が拾っていなかった。
彼女は表の余白に、技師が手を離した時刻を書き、次の試験では測定間隔を詰めることにした。
「入口の一瞬だけなら、僕が受けられるかもしれません」
エルドは言ってから、ノエルの顔を見た。
技師が工具を置く音がした。
「その一瞬を、どうやって測ります」
「僕の受容値は分かっています」
「受容値は、限界まで耐えた時間じゃない。割れた魔具なら替えられる。あなたが倒れたら、今日の試験は何のためですか」
ノエルの声は普段より低かった。
医療所でエルドの名を手帳に書いた人の声だ。
エルドは図の人の輪郭を消したつもりで、まだそこを最後の部品として数えている。
「今の提案は、取り下げます」
「次に思いついたら、先に俺へ言ってください。止めますから」
ノエルは破片を拾う前に、エルドの指を見た。
さっき起動台に触れていた指先はまだ冷たい。
セレナは口を挟まなかったが、エルドが図を畳むまで、隣に立っていた。
ノエルは破片を箱へ入れ、台帳の番号に「試験中断」と書いた。
稼働見込みの四十四台から、一台を黙って消さないためだ。
直せるとしても、いつ直したか残す。
「次の試験は、誰が止めますか」
エルドが聞く。
ガイルは庭の端にいる見学者を見た。
職人の一人が線を越えそうになっている。
「俺が合図を出す。ミレイスが針を見る。ノエルが弁を閉める」
「私も閉められるよ」
セレナが言った。
ガイルは首を振る。
「お前の結界が途切れたら、見学者が危ない。役を重ねるな」
セレナは言い返しそうになり、結界の外を見た。
仕事を見に来た設備係と、工具を持った職人たちがいる。
彼女は「分かった」とだけ言った。
壊れた留め具を作り直す間、エルドは試験の記録を読み返した。
開始から十七秒。
二十秒にも満たない。
その短さを見て、失敗した気がしていた。
けれど、壊れる場所も、止めるまでにかかる時間も分かった。
次の接続図に書き込める事実がある。
夕方、技師が新しい留め具を持ってきた。
交換した魔具は同じ番号のまま台帳へ戻した。
ノエルは「修理済み」の印を押し、試験で使う前に低い流れだけ通した。
針は落ち着いている。
誰も成功とは言わなかったが、もう一度試す準備はできた。
エルドは図の最初の矢印を見た。
そこに人間を置けば、これまでの継承と同じことになる。
「入口を一つにしない」
ミレイスが言った。
地脈の観測拠点は七か所ある。
すべてから同時に少量だけ抜けば、一つの魔具に高い圧がかからない。
「観測点を、入口に変えるんですね」
エルドは監視表を見た。
長年、異常を見張るためだけに作られた設備がある。
転用には法の許可が要る。
翌朝、図を局長室へ持ち込む前に、エルドたちは七つの観測拠点を回った。
ミレイスは各塔の職員へ説明する時間を取った。
塔は地脈を測る場所であり、魔力を流すためには建てられていない。
古い壁の補強も要る。
そこへ立つ人間が、ただ命令で夜を迎えるわけにはいかなかった。
最初の塔の技師は反対した。
「うちの塔は去年、雨漏りしたんです。遮断弁を新しくしても、屋根が落ちたら終わりでしょう」
ガイルが見に行き、梁の腐った場所を確認した。
技師の言う通りだった。
第一塔は入口に使わず、別の監視点を仮設する案に変えた。
仮設の場所は、古い水路の脇に決まった。
第一塔から少し離れるだけで、地脈の測定値が変わる。
エルドはそれを誤差で済ませず、三回ずつ測り直した。
「塔の名前は、そのまま使いますか」
設備係が聞く。
通信の表には第一塔と書いてある。
現場が別の場所へ移れば、緊急時に人が間違えて古い塔へ走るかもしれない。
「通信では『第一仮設点』にします。地図も貼り替えてください」
ミレイスが言った。
若い技師は新しい札を受け取り、古い塔の扉に「運用停止」と書く。
腐った梁を直す仕事は、試験が終わっても残る。
「使わないなら、このままになるのかな」
技師が小さく言った。
ガイルは梁を指で押した。
「避難のときは、この道を通る。塔が倒れたら困る。修理の依頼は残せ」
エルドは仮設点の費用と、元の塔の修繕費を別々に記した。
緊急の装置だけ予算が付き、危険な建物がそのままでは、次にここを通る人が困る。
設備係は明日の見積もりに立ち会うと言った。
仮設点へ行く道には段差があった。
魔具を運ぶ荷車が乗り上げられるか、ガイルが自分で押して確かめる。
途中で車輪が一度はまった。職人を呼んで板を渡す。
紙の上では短い線だが、重い魔具を運ぶにはその一枚が要った。
二番目の塔では、夜勤の監視員が子どもを預ける先を心配した。
「いつまで続くか分からないのなら、泊まり込みは無理です」
ミレイスは勤務表を見直し、交代要員を二人付けた。
最初の案では、その人の名前が一行にしか載っていなかった。
何時間も魔力の針を見続ける人の生活が、図から抜けていた。
三番目の塔では、若い技師が進んで手を挙げた。
ただ、使われる魔具の操作を知らない。
ノエルが模型で手順を教えた。
遮断弁を閉めるときは、自分の身を守ることを先にする。
無理に原因を探し続けない。
技師は何度も練習し、途中で「止めるのが一番難しい」と言った。
エルドはすべての塔の前に、同じ説明文を置いた。
運用の目的、想定される危険、中止の条件、健康診断の頻度。
署名欄の横には「辞退する」を作った。
「これがあると、人が足りなくなるかもしれません」
役場の担当者が言った。
「足りないなら、ほかの方法を探します」
エルドは答えた。
自分には断る権利を求めて、ほかの人には与えないわけにはいかない。
七つの観測拠点のうち、一人が辞退した。
四番目の塔の技師だった。
朝は署名するつもりで出勤したが、幼い娘の弁当を包んでいるとき、夜間に塔から帰れない場合を考えたという。
「怖くなったんです。昨日までは、修理の仕事だと思えていた」
技師はエルドではなく、勤務表を見た。
自分の名が夜の欄にもう書かれている。
「辞退に理由は要りません」
エルドが言うと、塔の責任者が困った顔をした。
「ここで引かれたら、次の班が準備できない。せめて替わりの人間を探してからにしてくれ」
「今ここで決められると思ったから、辞退の欄を作りました」
ミレイスは勤務表の名前を消し、準備に使った時間の賃金を別に記した。
責任者はそれにも渋ったが、技師はすでに魔具を運び、屋根へ上がっていた。
働いた時間は消えない。
四番目の塔は一日止まった。
委員会の通知にある期限は、一日近づく。
エルドは空欄を見て、自分が器になればこの人を帰せる、と思った。
考えてから、あの技師の辞退を恨みかけた自分に気づいた。
断れる欄を作っておいて、使われると困るのだ。




