第27話 勇者を信じるということ [前編]
勇者庁から届いた封筒には、エルドの名前があった。
表書きは「継承準備に関する事前通知」。
中身は三枚で、本人の承諾欄だけが空いている。
候補者の保護区域への移動。
医療班の待機。
現行の器の負荷測定。
日付は十日後だった。
昨日、局長室で「今日は決めない」と言った返事が、まだ届いていないような紙だった。
「承諾していません」
エルドは封筒を持って、オルディスの机へ行った。
局長は差出印を見ると、顔をしかめた。
「委員会が、準備だけ先に始めた」
「僕に知らせる前から?」
「昨夜、君の適性を報告した。予定を引いたのはその後だ」
「十日後に間に合うように、僕の返事を急がせている!」
オルディスは否定しなかった。
北門の地脈はまだ高い。
エナの夜の痛みも、急に消えてはいない。
計画を急ぐ理由はある。
それでも、本人の承諾欄を空白のまま動かしていい理由にはならなかった。
セレナは通知を見て、紙を折りかけた。
「断ろう。私が委員会へ行く」
「あなたが怒っても、十日後の魔力は減りません」
ミレイスが言った。
セレナは彼女を睨む。
「じゃあ、エルドを差し出すの」
「差し出しません。別の方法を作って、同じ席へ持って行きます」
セレナは紙を離した。
折り目は残ったが、文字は読める。
エルドは二人の間で、自分の名前が書かれた欄を見ていた。
「僕が断るのは、今ここでできます」
彼は言った。
「でも、断ったあとエナさんへ全部戻るなら、断るための道も作りたい。僕一人に決めさせないでください」
ミレイスは頷いた。
局長室の机を借り、現行の移行手順と、北門から集まる魔力の図を並べる。
セレナはまだ怒っていたが、椅子を引いた。
ガイルとノエルにも連絡を入れる。
エルドは通知の承諾欄に何も書かなかった。
代わりに、十日という数字を図の端へ写した。
あの紙が自分の人生の期限にならないようにするために。
新しい方法の最初の図は、紙の裏に描かれた。
ミレイスが持ってきた災害報告書の余白だった。
エルドは魔力の流れを一本の矢印で描き、中心に人の形を置いた。
十代の候補ではなく、顔のない輪郭。
今までの制度がそうしてきた図だ。
「ここへ全部集めるから、限界が来る」
エルドは人の形を消した。
代わりに、輪をいくつも描く。
「一人に移す前に、分けられないでしょうか」
ミレイスはすぐに賛成しなかった。
「分ける先が要ります。魔具だけなら、過負荷で割れる。勇者へ流せば、本人を傷つける」
「竜は?」
セレナが言った。
火竜が地脈の熱を体内で回していたことを、彼女は観測記録に残している。
「竜の巣へ負荷を押しつけるのは、できません」
ミレイスの言葉に、セレナは首を振った。
「押しつけない。巣の周りには熱を逃がす岩がある。竜が自分で使ってる道だけ借りる。卵がある間は、流す量を竜の呼吸より下にする」
エルドは図に山を描いた。
ギルドの結界設備、古い地脈調整魔具、勇者の支援魔法、火竜の巣を通る自然循環。
一つずつなら弱い。
複数をつなげば、一度に流れる量を減らせるかもしれない。
「試す前に、壊れたときの行き先を決めます」
ミレイスは別の紙を引き寄せた。
逃がす回路を作らなければ、分散は名前だけになる。
*
午前中、ギルドの会議室へガイルとノエルを呼んだ。
ガイルは図をひと目見て、顔をしかめた。
「お前ら、勇者を何人も魔王にするつもりか」
「一時的に流れを受けてもらいます。上限は一人ずつ決めます」
「上限を越えたら?」
「即座に外します」
「外した魔力はどこへ」
エルドは答えられなかった。
ガイルは机を指で叩いた。
「俺が前線を預かるとき、一番怖い言葉は『大丈夫だと思う』だ。逃がす先が決まるまで、誰も繋ぐな」
その通りだった。
エルドは図を畳まずに、線を引き直した。
ノエルが古い地脈魔具の仕様書を読んでいる。
「治癒術は、傷を一気に治すだけじゃありません。熱を身体の外へ逃がしながら、少しずつ戻す方法もある」
「人を経由しないと駄目か」
ガイルが聞く。
ノエルは考えた。
「魔具の中の回路に、支援術を掛ければ。術者は回路を見て、量を調整するだけです」
ミレイスが顔を上げた。
「古い魔具は、地脈の低い流れを分ける用途でした。高い流れを通せば壊れます」
「一台なら」
ノエルが答えた。
「ギルドの拠点には、使わなくなった補助魔具が四十七台あります。全部を同じ量に繋ぐんじゃなくて、少しずつ段を作る」
エルドは図の輪を描き直した。
大きな器ではなく、小さな調整池をいくつも作る。
火竜の巣は最後の熱だけを逃がす出口にする。
人は調整を担い、必要なら回路から手を離せる。
「薄めたあとの力は、消えるわけじゃありません」
ノエルは仕様書を裏返し、古い魔具の断面図を見せた。
地脈の魔力を少しずつ熱へ変え、石の羽根から外気へ逃がす構造だ。
一台なら周囲の空気が熱くなる。
七か所に分け、さらに一か所ごとに段を作れば、井戸や家へ熱が届く前に散らせる。
「風が止まった日は?」
ガイルが聞く。
ミレイスは気象表を開いた。
「その日は流量を下げます。暑さや乾燥も中止条件へ入れましょう」
「竜の巣は?」
「初回に熱が跳ねたときの補助です。母竜が道を塞いだら使えないものとして計算します」
セレナは一度、山の方角を見た。
「そうして。あの巣を出口に決めるなら、竜をまた道具にしてる」
エルドは図の太い矢印を細くした。
流量を下げる条件が増え、計算表の余白がなくなった。
「それでも、最初の流れを開く人が要ります」
ミレイスが言った。
三人の視線がエルドへ向く。
彼は隠さなかった。
「僕がやります。ただ、僕を永久に繋ぐ設計にはしません」
セレナが腕を組んだ。
「私にも役をちょうだい。見張るだけなら、また勝手に前へ出るよ」
「あなたは前線の結界を」
「他には?」
「万一、回路から魔力が漏れたら、炎で熱を逃がしてほしい」
「それなら得意」
セレナは笑った。
ガイルは「俺は避難」と自分で言った。
魔力の図だけでは、村や街にいる人が消えてしまう。
彼は前線の勇者を集め、避難路と伝令の確認を引き受けた。
午後、五人は初案を特別審査委員会へ出した。
エルドの承諾欄が空白の継承通知も、一緒に置く。
審査室の窓は閉まっていた。
外では城下町の荷車が行き交い、ここで危険と呼ばれる人数が、その音の中にいる。
アデル・ロスナーが図の七つの輪を数えた。
法文館で会ったときと同じ、火傷の残る左手だった。
「すべての魔具が同時に稼働する見込みは?」
「現物を調べる前なので、率にはできません」
ノエルが答える。
アデルは紙をめくった。
「一台目が破損し、遮断弁も動かなかった場合は?」
「初案には、まだ」
「では人を繋げません」
口調は穏やかだった。
セレナが椅子の縁を握る。
「今の方法なら、エルドを繋げるんですか」
「本人の承諾があれば。従来の移行は危険ですが、過去の実施記録があります。失敗した時にどの範囲を避難させるかも決まっている」
「その後、器になった人がどんな夜を過ごすかは?」
「保護と医療の記録があります。足りなかったことも、承知しています」
アデルは目を逸らさなかった。
エナの診療摘要は、彼女も読んでいる。
「カレイン監査官。あなたが断る権利を守るために、この図では城下町の人間へ新しい危険を移します。北門で避難が遅れたら、その人たちには選ぶ時間がありますか」
エルドは答えなかった。
七つの輪を描いたとき、自分が受ける力を分ければいいと考えた。
分けた先に塔の技師がいて、窓の外には家がある。
承諾を求める相手は、自分一人では足りない。
審査委員の一人が、古い継承記録を指した。
「過去の方法にも死者はいます。だから安全だとは言わない。ただ、失敗の形が分かる。新案は、失敗の形さえまだ分からない」
アデルは袖口から手首を出した。
火傷は手の甲より上まで続いていた。
「二十八年前、候補者の名が漏れた村にいました。避難が始まったのは、火が出てからです。私はこの傷を理由に、本人への説明を永久に拒むつもりはありません。でも『きっと止められる』という言葉で、もう一度村を預けることもできない」
委員会は、継承の保留と新方式の本運用を認めなかった。
魔力源につながない低負荷試験は、ギルドの研究規定で続けられる。
局長には災害時に限った試験権限もあるが、現時点では危険が切迫しておらず、中止と避難の手順も確かめられていない。
出直すなら、破損箇所、停止の時間、住民の避難、運用者の辞退方法を示すこと。
返された図には赤い印が一つ押されていた。
廊下でセレナが言った。
「エルドが嫌だと言ってるのに、まだ準備するんだ」
「承諾欄を埋めろとは言われませんでした」
エルドは赤い印を見た。
断れば終わると思っていたわけではない。
それでも、城下町の人の名をアデルに問われて、何も言えなかったのが悔しい。
「もう一度持って行きます。先に、試して壊して、どこまで壊れるか見ます」
「壊すために直すのか」
ガイルが聞いた。
ノエルは図を取り返した。
「人が乗る前なら」
彼の手帳には、試す順番がもう書かれていた。
アデルは審査室から遅れて出てきた。
セレナの前ではなく、エルドの前で立ち止まる。
「誤解しないでください。委員会は、あなたの署名を代筆できません」
「準備は続けています」
「現在の器の負担が増えている。あなたが同意した場合に備えることまで、止められない」
エルドは返された図を抱え直した。
その言い分も分かる。
十日後に自分が選ぶかもしれない。
そのとき何も用意されていなければ、同意は形だけの選択になる。
「あなたが望むなら、移行後の住まいと医療について、今日から本人の希望を聞きます。保護区域の外へ出る条件も、契約に書く。前の器にはなかった条件です」
セレナが「そんな契約を作る前に」と言いかけた。
エルドが止める。
「見せてください」
彼自身、断ると決めきれないのが嫌だった。
エナの夜を短くできるなら、自分が引き受ける方が確実だと考える。
しかもアデルは、何も聞かずに運ぶのではなく、条件を差し出している。
アデルは薄い冊子を渡した。
居住、診察、連絡相手、退出の条件。
最後の頁だけ、まだ白い。
「断った後、エナさんに何が起こるかも書いてください」
エルドが言うと、アデルは冊子を戻さなかった。
「数値は書けます。本人の暮らしがどう変わるかは、本人に聞かないと書けない」
初めて彼女の返事が少し遅れた。
エルドは白い頁をそのまま残し、鞄へ入れた。
設備を触るより先に、エナの家へ行く理由ができた。
「エナさんにも、この図を見せます」
ミレイスが言った。
エルドは頷いた。
魔力を減らす相手が知らないまま、別の人たちだけで試験を決めてはならない。




