第26話 勇者になれなかった男 [後編]
監査局を出たエルドは、勇者学校の坂道を歩いた。
雨は降っていない。
訓練場では、新人たちが最後の模擬戦をしていた。
あの日と同じ角度で、木剣が午後の光を反射する。
エルドは試験を思い出した。
模擬魔物を逃がした時、仲間役の学生が倒れかけていた。
敵を追えば合格に近づいたのだろうか。
実際には何を選んでも不合格だったと知ってしまった今、あの日の選択まで奪われたような気がした。
訓練場の入口で、一人の勇者が彼を呼び止めた。
試験で同じ組だった盾の学生、今はC級勇者のテオだ。
互いに数年顔を合わせていなかったが、テオはすぐに分かったらしい。
「カレイン。監査局へ入ったって聞いた」
「はい。あなたは今もここへ?」
「教える側の手伝い。あの時は、すまなかった」
エルドは何のことか分からず、テオを見た。
「最終実技。俺が転ばなければ、お前の点を落とさずに済んだ」
そんなことを、彼はずっと覚えていたのか。
エルドは笑おうとして、うまくいかなかった。
「点は、あれだけで決まったわけじゃありません」
嘘にはならない。
決まったのは、あの場より前だった。
「でも、俺が助かったのは、カレインが盾を投げたからだよ」
テオは訓練場を振り返った。
新人が木剣を拾っている。
昔の自分たちと同じように、合格したい顔だ。
「今、俺が教えるとき、あの話をする。魔物の数だけ見てると、隣の奴が見えなくなるって」
エルドは返事に迷った。
相手が語り継いでいるのは、自分が後悔した一瞬だった。
赤い不合格印で覆われていない記憶が、別の場所に残っている。
「言ってくれて、ありがとうございます」
テオは首を傾げたが、それ以上聞かなかった。
訓練の笛が鳴り、彼は戻っていく。
エルドはその背中を見送った。
その後でセレナが来た。
彼女は少し離れた場所から二人を見ていたようだが、何を話したかは聞かなかった。
「ここにいた」
セレナが坂を上ってきた。
彼女は試験の話をしなかった。
代わりに、訓練場の横の売店で温かい飲み物を二つ買った。
「甘いの、平気?」
「普通です」
「普通ってどっち」
「飲めます」
セレナは片方を渡した。
香草が強く、かなり甘い。
エルドは一口飲み、思わず顔をしかめた。
「甘すぎます」
「さっき飲めるって言った」
「飲めます。でも、甘すぎます」
セレナは笑った。
そのあとで、手元の湯気を見た。
「あなたが何を選んでも、私は勝手に連れていかせない」
エルドは返事を探した。
助ける、と言われるのも少し怖かった。
自分が守られるだけの人間になったようで。
「決めるときは、自分で決めたいです」
「うん。だから、邪魔する人を止める」
彼女の言い方はいつも通りで、少し安心した。
坂を下りる前、エルドは訓練場の掲示板を見た。
合格者の名が、新しい順に貼られている。
自分の年の紙はもうない。
誰かが取り外し、次の人たちのために場所を空けた。
それでよかったはずなのに、今は自分の名前だけが最初からなかったように感じる。
「剥がした紙は、どこへ行くんでしょう」
セレナが視線を追った。
「学校の倉庫じゃない?」
「不合格者の名も、残りますか」
「分からない。私、受かった後のことしか見てなかった」
彼女は言い訳しなかった。
その正直さがありがたい。
エルドも、落ちた人の通知書を自分のもの以外は知らない。
「倉庫にあれば、見てみたいです」
「一緒に?」
「今は、一人で」
セレナは頷き、残りの甘い飲み物を飲み干した。
押しつけられない距離に立っていてくれる。
エルドは学校の受付で、過去の試験記録を本人が閲覧できるか尋ねた。
係員は驚いたが、規則集を調べてくれた。
本人の評価票は、保管期限内なら写しを申請できる。
ただし委員会の議事録は対象外だ。
「僕が受けた試験の記録です。写しをください」
エルドは申請書に名を書いた。
局長の封筒には既に写しがある。
それでも、学校から正式に受け取りたかった。
監視のために与えられた紙ではなく、受験者として自分に渡されるものが欲しかった。
係員が小さな札を出した。
受け取りは一週間後。
エルドは札を鞄へ入れた。
もちろん、今夜の答えには間に合わない。
だが、一週間後の自分が読む紙を、自分で取り寄せることができた。
その満足感が一時的とは言え、エルドの心を落ち着かせた。
帰り道、セレナは何も聞かなかった。
橋の手前で別れるときだけ「飲み物は甘すぎた?」と尋ねた。
「甘すぎました」
「次は薄いのにする」
「次があるんですか」
「気が向いたら、ね」
エルドは少し笑った。
次の飲み物の味なら、まだ自分で選べる。
部屋に戻ると、机の上に監査局の身分証を置いた。
入局した日の自分は、そこへ名前を刻まれたことが嬉しかった。
採用を決めた人々が別の理由も持っていたと知った今、その嬉しさまで借り物に見える。
採用面接で、なぜ監査官を望むのかと聞かれた。
エルドは数字を扱うのが得意だから、と答えた。
試験に落ちたことを先に言えば、逃げてきたと思われる気がした。
面接官はもう一つ尋ねた。
勇者の報告に疑問があったら、相手がS級でも調べるか。
エルドは「はい」と答え、帰り道に自分の声を何度も思い返した。
あのとき答えを選んだのは自分だ。
だが、何を知らずに面接室へ入ったか、いまは分かっている。
局長もそれを知っていた。
エルドは身分証を裏返した。
採用日の刻印は、削られていない。
白紙に「退職願」と書いた。
書いた途端、何も知らない局の同僚たちの顔が浮かんだ。
文書管理係は候補者の番号を消さずに残した。
ノエルは自分の記録を直した。
セレナは、彼の質問に腹を立てながらも山へ連れて行った。
局長に使われていた時間だけで、そこで働いた日々を片づけられるだろうか。
用紙の下に日付を書こうとして、手が止まった。
今日で辞めれば、局長が用意した場所からは出られる。
それを自由と呼びたい気持ちもあった。
けれど、書きかけの調査票には、自分が村人から預かった返事がまだ残っている。
局長へ返すつもりで辞めたら、その人たちへも返事をしないことになる。
答えが出ないので、紙は破らず裏返した。
辞めることも、続けることも、今夜の局長への返事にはしない。
身分証だけ鞄に戻そうとして、紐が指に絡んだ。
結び目をほどくのに時間がかかった。
*
夕方、ミレイスがエルドの部屋へ来た。
手には試験資料の写しがある。
「原本は局長室に残します。写しはあなたのものです」
「見たくありません」
「なら、今は開かなくていい」
彼女は机へ置かず、エルドの返事を待った。
エルドは封筒を受け取った。
「あなたが監査官になった理由を、誰かが全部決めたわけではありません」
「それを今、僕に教えるんですか」
ミレイスは言葉を止めた。
エルドは封筒の端を持ったまま、目を上げない。
「僕が何を選んだか、自分でも分からなくなってるんです。ここで『あなたはちゃんと選んだ』って言われると、怒る場所までなくなる」
「……そうですね」
ミレイスは一歩下がった。
自分が慰めの言葉を急いだと分かったのだろう。
エルドは言いすぎたと思ったが、取り消したらまた彼女の言葉に合わせることになる。
封筒を握る手を緩めるまで、二人とも黙っていた。
ミレイスは窓の外を見た。
昨日、彼が橋の危険を告げた方向だ。
「初仕事でゴブリンを二体追ったのは、あなたです。法の条文を見つけたのも。私が父の件を調べ直せたのも、あなたが石を見に行こうと言ったから」
エルドは封筒の重さを確かめた。
紙が数枚入っているだけだった。
彼女の挙げた出来事を否定する気はない。
だが今は、励ましより先に局長の顔を思い出す。
仕事を選んだ日の喜びと、近くに置かれたという事実を、同じ箱へ入れられない。
セレナの報告を初めて見た日のことが浮かんだ。
報酬目当て、と仮票に書いた自分の字。
あれは根拠がなかった。
試験の結果が偽られていたからといって、セレナを疑った手まで誰かのせいにはできない。
むしろ、あの通知を本当だと信じてきた年月の中で、自分が人へ向けたものがある。
訂正できる紙と、言ってしまった言葉がある。
エルドは封筒を持ち直した。
いま謝れば済む話でもないし、怒りを引っ込める理由にもならない。
ミレイスは急かさず、机の向こうに立っていた。
「それでも、知らないまま働いていた」
「はい」
彼女は否定しなかった。
「明日、何をするかは一緒に決めましょう。選択肢を先に作ります」
エルドは頷いた。
決めることを急がされないのが、今はありがたかった。
夜、封筒を開くと、最終実技の評価票があった。
模擬魔物を逃がした欄の横に、教官の手書きが残る。
『救助対象の確認を優先。判断妥当。』
その下に、委員会の赤い印で「不合格」と押されていた。
エルドはしばらく二つの文字を見比べた。
「判断妥当」の横を指で擦った。
何度擦っても、不合格の印は消えなかった。
引き出しから古い結果通知を出した。
薄くなった折り目を開き、評価票の横へ置く。
どちらにも同じ試験番号がある。
片方には「現場適性に難あり」、もう片方には「判断妥当」。
一つの番号に、自分が過ごした年月と、その裏で決められた年月が並んだ。
結果通知が届いた翌日、エルドは訓練場の外にある掲示板まで行った。
合格者の名の中にテオを見つけ、よかったと思った。
そのあとで、自分が助けた相手の名を見て喜べないことが嫌になり、途中で帰った。
テオには何年も、その日の話をしなかった。
先ほど坂で会ったときも、彼はそれを知らずに謝った。
エルドは古い通知を畳めなかった。
テオへ知らせれば、気にしていた点は違うと伝えられる。
しかし、局長が同席した審査の話まで聞かせるのは、今夜の自分にはできない。
明日会うとしても、何から話すか決めていない。
「だったら、あのとき言ってくれよ」
誰もいない部屋で言った。
怒りの向きも、悔しさの置き場も、まだ決まらない。
評価票の裏には、異議申立ての期限が印刷されていた。
結果通知から一年。すでに過ぎている。
自分が本当の理由を知ったのは今日なのに、申し立てる機会は紙の上ではもう終わっていた。
エルドは期限の下に、知らされた日付を書いた。
誰かへ出す前に、自分で確かめておきたかった。
戸を叩く音がした。
ミレイスではない。
部屋を借りている家の主人が、夜の湯を運んできた。
エルドは湯を受け取り、机の紙を伏せた。
「明日も早いのかい」
「たぶん」
「たぶんなら、今夜は寝られるな」
主人は空いた湯飲みを回収して去った。
エルドは笑いそうになった。
自分には明日何をするかも決まっていない。
ならば、今すぐ何かを選ばなければならないと追い立てられる理由もない。
けれど、紙に残すことはできる。
エルドは新しい用紙を出した。
宛先は勇者庁の特別審査委員会。
求めるのは今からの合格ではなく、判定理由の訂正と、本人への通知がなかった経緯の開示だ。
途中で筆が止まった。
訂正されれば、勇者になれるのか。
年齢も仕事も、試験を受けた時とは違う。
何より今の自分は監査官を辞めたいのか。答えはまだない。
申立書には最後まで署名せず、封筒へ入れた。
明日読んで、まだ出したければ出す。
出さなくても、局長の判断が正しかったことにはならない。
選ぶ時間を自分へ返すために、机の上へ置いた。
ただ、あの日に誰を先に見たかは、嘘ではなかった。




