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勇者ギルド監査官―討伐報告二十体、証拠は十八体―  作者: えんびあゆ
勇者の役目、勇者法改正編

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第26話 勇者になれなかった男 [後編]

監査局を出たエルドは、勇者学校の坂道を歩いた。

雨は降っていない。

訓練場では、新人たちが最後の模擬戦をしていた。

あの日と同じ角度で、木剣が午後の光を反射する。


エルドは試験を思い出した。

模擬魔物を逃がした時、仲間役の学生が倒れかけていた。

敵を追えば合格に近づいたのだろうか。

実際には何を選んでも不合格だったと知ってしまった今、あの日の選択まで奪われたような気がした。


訓練場の入口で、一人の勇者が彼を呼び止めた。

試験で同じ組だった盾の学生、今はC級勇者のテオだ。

互いに数年顔を合わせていなかったが、テオはすぐに分かったらしい。


「カレイン。監査局へ入ったって聞いた」

「はい。あなたは今もここへ?」

「教える側の手伝い。あの時は、すまなかった」


エルドは何のことか分からず、テオを見た。


「最終実技。俺が転ばなければ、お前の点を落とさずに済んだ」


そんなことを、彼はずっと覚えていたのか。

エルドは笑おうとして、うまくいかなかった。


「点は、あれだけで決まったわけじゃありません」


嘘にはならない。

決まったのは、あの場より前だった。


「でも、俺が助かったのは、カレインが盾を投げたからだよ」


テオは訓練場を振り返った。

新人が木剣を拾っている。

昔の自分たちと同じように、合格したい顔だ。


「今、俺が教えるとき、あの話をする。魔物の数だけ見てると、隣の奴が見えなくなるって」


エルドは返事に迷った。

相手が語り継いでいるのは、自分が後悔した一瞬だった。

赤い不合格印で覆われていない記憶が、別の場所に残っている。


「言ってくれて、ありがとうございます」


テオは首を傾げたが、それ以上聞かなかった。

訓練の笛が鳴り、彼は戻っていく。

エルドはその背中を見送った。


その後でセレナが来た。

彼女は少し離れた場所から二人を見ていたようだが、何を話したかは聞かなかった。


「ここにいた」


セレナが坂を上ってきた。

彼女は試験の話をしなかった。

代わりに、訓練場の横の売店で温かい飲み物を二つ買った。


「甘いの、平気?」

「普通です」

「普通ってどっち」

「飲めます」


セレナは片方を渡した。

香草が強く、かなり甘い。

エルドは一口飲み、思わず顔をしかめた。


「甘すぎます」

「さっき飲めるって言った」

「飲めます。でも、甘すぎます」


セレナは笑った。

そのあとで、手元の湯気を見た。


「あなたが何を選んでも、私は勝手に連れていかせない」


エルドは返事を探した。

助ける、と言われるのも少し怖かった。

自分が守られるだけの人間になったようで。


「決めるときは、自分で決めたいです」

「うん。だから、邪魔する人を止める」


彼女の言い方はいつも通りで、少し安心した。


坂を下りる前、エルドは訓練場の掲示板を見た。

合格者の名が、新しい順に貼られている。

自分の年の紙はもうない。

誰かが取り外し、次の人たちのために場所を空けた。

それでよかったはずなのに、今は自分の名前だけが最初からなかったように感じる。


「剥がした紙は、どこへ行くんでしょう」


セレナが視線を追った。


「学校の倉庫じゃない?」

「不合格者の名も、残りますか」

「分からない。私、受かった後のことしか見てなかった」


彼女は言い訳しなかった。

その正直さがありがたい。

エルドも、落ちた人の通知書を自分のもの以外は知らない。


「倉庫にあれば、見てみたいです」

「一緒に?」

「今は、一人で」


セレナは頷き、残りの甘い飲み物を飲み干した。

押しつけられない距離に立っていてくれる。


エルドは学校の受付で、過去の試験記録を本人が閲覧できるか尋ねた。

係員は驚いたが、規則集を調べてくれた。

本人の評価票は、保管期限内なら写しを申請できる。

ただし委員会の議事録は対象外だ。


「僕が受けた試験の記録です。写しをください」


エルドは申請書に名を書いた。

局長の封筒には既に写しがある。

それでも、学校から正式に受け取りたかった。

監視のために与えられた紙ではなく、受験者として自分に渡されるものが欲しかった。


係員が小さな札を出した。

受け取りは一週間後。

エルドは札を鞄へ入れた。


もちろん、今夜の答えには間に合わない。

だが、一週間後の自分が読む紙を、自分で取り寄せることができた。

その満足感が一時的とは言え、エルドの心を落ち着かせた。


帰り道、セレナは何も聞かなかった。

橋の手前で別れるときだけ「飲み物は甘すぎた?」と尋ねた。


「甘すぎました」

「次は薄いのにする」

「次があるんですか」

「気が向いたら、ね」


エルドは少し笑った。

次の飲み物の味なら、まだ自分で選べる。


部屋に戻ると、机の上に監査局の身分証を置いた。

入局した日の自分は、そこへ名前を刻まれたことが嬉しかった。

採用を決めた人々が別の理由も持っていたと知った今、その嬉しさまで借り物に見える。


採用面接で、なぜ監査官を望むのかと聞かれた。

エルドは数字を扱うのが得意だから、と答えた。

試験に落ちたことを先に言えば、逃げてきたと思われる気がした。


面接官はもう一つ尋ねた。

勇者の報告に疑問があったら、相手がS級でも調べるか。

エルドは「はい」と答え、帰り道に自分の声を何度も思い返した。


あのとき答えを選んだのは自分だ。

だが、何を知らずに面接室へ入ったか、いまは分かっている。

局長もそれを知っていた。

エルドは身分証を裏返した。

採用日の刻印は、削られていない。


白紙に「退職願」と書いた。

書いた途端、何も知らない局の同僚たちの顔が浮かんだ。

文書管理係は候補者の番号を消さずに残した。

ノエルは自分の記録を直した。

セレナは、彼の質問に腹を立てながらも山へ連れて行った。

局長に使われていた時間だけで、そこで働いた日々を片づけられるだろうか。


用紙の下に日付を書こうとして、手が止まった。

今日で辞めれば、局長が用意した場所からは出られる。

それを自由と呼びたい気持ちもあった。

けれど、書きかけの調査票には、自分が村人から預かった返事がまだ残っている。

局長へ返すつもりで辞めたら、その人たちへも返事をしないことになる。


答えが出ないので、紙は破らず裏返した。

辞めることも、続けることも、今夜の局長への返事にはしない。

身分証だけ鞄に戻そうとして、紐が指に絡んだ。

結び目をほどくのに時間がかかった。



*



夕方、ミレイスがエルドの部屋へ来た。

手には試験資料の写しがある。


「原本は局長室に残します。写しはあなたのものです」

「見たくありません」

「なら、今は開かなくていい」


彼女は机へ置かず、エルドの返事を待った。

エルドは封筒を受け取った。


「あなたが監査官になった理由を、誰かが全部決めたわけではありません」

「それを今、僕に教えるんですか」


ミレイスは言葉を止めた。

エルドは封筒の端を持ったまま、目を上げない。


「僕が何を選んだか、自分でも分からなくなってるんです。ここで『あなたはちゃんと選んだ』って言われると、怒る場所までなくなる」

「……そうですね」


ミレイスは一歩下がった。

自分が慰めの言葉を急いだと分かったのだろう。

エルドは言いすぎたと思ったが、取り消したらまた彼女の言葉に合わせることになる。

封筒を握る手を緩めるまで、二人とも黙っていた。


ミレイスは窓の外を見た。

昨日、彼が橋の危険を告げた方向だ。


「初仕事でゴブリンを二体追ったのは、あなたです。法の条文を見つけたのも。私が父の件を調べ直せたのも、あなたが石を見に行こうと言ったから」


エルドは封筒の重さを確かめた。

紙が数枚入っているだけだった。


彼女の挙げた出来事を否定する気はない。

だが今は、励ましより先に局長の顔を思い出す。

仕事を選んだ日の喜びと、近くに置かれたという事実を、同じ箱へ入れられない。


セレナの報告を初めて見た日のことが浮かんだ。

報酬目当て、と仮票に書いた自分の字。

あれは根拠がなかった。

試験の結果が偽られていたからといって、セレナを疑った手まで誰かのせいにはできない。

むしろ、あの通知を本当だと信じてきた年月の中で、自分が人へ向けたものがある。

訂正できる紙と、言ってしまった言葉がある。


エルドは封筒を持ち直した。

いま謝れば済む話でもないし、怒りを引っ込める理由にもならない。

ミレイスは急かさず、机の向こうに立っていた。


「それでも、知らないまま働いていた」

「はい」


彼女は否定しなかった。


「明日、何をするかは一緒に決めましょう。選択肢を先に作ります」


エルドは頷いた。

決めることを急がされないのが、今はありがたかった。


夜、封筒を開くと、最終実技の評価票があった。

模擬魔物を逃がした欄の横に、教官の手書きが残る。


『救助対象の確認を優先。判断妥当。』


その下に、委員会の赤い印で「不合格」と押されていた。


エルドはしばらく二つの文字を見比べた。

「判断妥当」の横を指で擦った。

何度擦っても、不合格の印は消えなかった。


引き出しから古い結果通知を出した。

薄くなった折り目を開き、評価票の横へ置く。

どちらにも同じ試験番号がある。

片方には「現場適性に難あり」、もう片方には「判断妥当」。

一つの番号に、自分が過ごした年月と、その裏で決められた年月が並んだ。


結果通知が届いた翌日、エルドは訓練場の外にある掲示板まで行った。

合格者の名の中にテオを見つけ、よかったと思った。

そのあとで、自分が助けた相手の名を見て喜べないことが嫌になり、途中で帰った。

テオには何年も、その日の話をしなかった。

先ほど坂で会ったときも、彼はそれを知らずに謝った。


エルドは古い通知を畳めなかった。

テオへ知らせれば、気にしていた点は違うと伝えられる。

しかし、局長が同席した審査の話まで聞かせるのは、今夜の自分にはできない。

明日会うとしても、何から話すか決めていない。


「だったら、あのとき言ってくれよ」


誰もいない部屋で言った。

怒りの向きも、悔しさの置き場も、まだ決まらない。


評価票の裏には、異議申立ての期限が印刷されていた。

結果通知から一年。すでに過ぎている。

自分が本当の理由を知ったのは今日なのに、申し立てる機会は紙の上ではもう終わっていた。


エルドは期限の下に、知らされた日付を書いた。

誰かへ出す前に、自分で確かめておきたかった。


戸を叩く音がした。

ミレイスではない。

部屋を借りている家の主人が、夜の湯を運んできた。

エルドは湯を受け取り、机の紙を伏せた。


「明日も早いのかい」

「たぶん」

「たぶんなら、今夜は寝られるな」


主人は空いた湯飲みを回収して去った。

エルドは笑いそうになった。

自分には明日何をするかも決まっていない。

ならば、今すぐ何かを選ばなければならないと追い立てられる理由もない。


けれど、紙に残すことはできる。

エルドは新しい用紙を出した。

宛先は勇者庁の特別審査委員会。

求めるのは今からの合格ではなく、判定理由の訂正と、本人への通知がなかった経緯の開示だ。


途中で筆が止まった。

訂正されれば、勇者になれるのか。

年齢も仕事も、試験を受けた時とは違う。

何より今の自分は監査官を辞めたいのか。答えはまだない。


申立書には最後まで署名せず、封筒へ入れた。

明日読んで、まだ出したければ出す。

出さなくても、局長の判断が正しかったことにはならない。

選ぶ時間を自分へ返すために、机の上へ置いた。


ただ、あの日に誰を先に見たかは、嘘ではなかった。

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