第24話 新しい魔王の兆候 [後編]
医療所には人が絶えなかった。
ノエルは傷の深い順に患者を並べ、治癒術を短く分けて使っている。
魔力を使いすぎると、本人が倒れる。ギルドの看護係が湯を運び、彼の指示で包帯を切った。
「黒い粉を吸った人は、入口で分けて」
ノエルが言う。
エルドが入ると、すぐに彼の手を取った。
「あなたも吸いました?」
「塔にいただけです」
「熱があります」
「ありません」
「熱がある人は、そう言います」
ノエルは額に手を当てた。
エルドには熱より、皮膚の下で小さな針が動く感じがした。
ノエルも何かを感じたらしく、顔を上げた。
「いま、魔力がこちらへ」
言葉の途中で、外からセレナの声がした。
「北の水路が破れる!」
エルドは診察台を離れた。
医療所の外では、ガイルが隊を三組に分けていた。
一組目は避難、二組目は水路の補強、三組目は魔物の足止め。
セレナは前線に戻る前に、エルドの腕を掴んだ。
「あなたは中にいて」
「水路の図面があります」
「図面は誰かに渡せる」
セレナの手は熱かった。
エルドは初めて、その手を振りほどかなかった。
「なら、ガイルさんに渡してください。古い点検口が一つ残っています。そこを閉めれば、水が医療所へ向かいません」
セレナは図面を受け取った。
走り出す前に一度だけ振り向く。
「ちゃんと座って!」
「努力します」
「そういう返事、一番信用できない!」
言い返す間もなく、彼女は水路へ向かった。
医療所の窓から、北の水路の上流が見えた。
石の壁に白い筋が走り、上の土が少しずつ落ちている。
エルドは図面の控えを開いた。
点検口を閉じるだけでは、圧が逃げずに別の壁を割るかもしれない。
「南側の水門も半分開けてください」
通信石で伝えると、ガイルが返した。
「南は避難路だ」
「道の下に古い排水管があります。水を流すなら、先に人を外してください」
ガイルは短く了解した。
彼の声の後ろで、勇者たちが通行人を誘導する声が聞こえる。
エルドは自分があの道を安全だと書いた地図を思い出した。
今日だけで何度も書き直している。
セレナは水路の上に立ち、青い炎を壁の外側へ沿わせた。
石を焼くためではない。
ひびの奥へ入った魔力を、熱として外へ引き出す。
彼女の足元で石が鳴った。
「あとどれくらい」
ミレイスの声が通信に混じる。
「二分、たぶん」
「たぶんは困ります」
「じゃあ一分半。短く言った方が安全でしょ」
ガイルは笑わなかった。
避難する最後の荷車が南の道を曲がるまで、彼は水門の前へ行かなかった。
エルドは時計の針と道の人影を交互に見た。
「南、空いた」
合図と同時に、ガイルの班が水門を半分開けた。
濁った水が音を立てて流れ、北の壁にかかる圧が下がる。
セレナの炎も細くなった。
彼女は急に消さず、残った魔力の筋が見えなくなるまで壁をなぞった。
「止められました」
ミレイスが測定値を読む。
エルドは窓枠に手をついた。
指先の冷たさはまだあるが、水路から医療所へ向かう水は来ない。
セレナが戻ってきたとき、袖には石粉が付き、肩の布が少し切れていた。
医療所へ入る前に「座ってた?」と聞く。
エルドは椅子を指した。
「途中までは」
「そういう返事も信用できない」
彼女は不満そうだったが、先に医療所の入口へ道を開けた。
担架を持った人たちが、まだ何人も来ていた。
水路が落ち着くと、セレナはまた畑の方へ走った。
*
夜半、魔物の流れは止まった。
畑の一部は使えなくなり、家畜小屋が二棟壊れた。
橋は渡れない。
重傷者もいる。
だが、門の外に残された人は全員、医療所へ運ばれた。
医療所の床は、靴の泥ですぐ汚れた。
水を運ぶ係が拭いても、その後から別の人が担架を持って入る。
ノエルは患者の名を呼ぶ順番を変えた。
重傷者を先に、粉を吸った人を別室に、軽い傷の人は自分で洗って待ってもらう。
セレナが肩に細い傷をつけて戻ったときも、ノエルは彼女を最後の列へ回した。
「私、S級だよ」
「その傷なら、座って待てます」
「はい」
セレナは素直に座った。
エルドは聞こえないふりをしたが、ミレイスは口元を隠さなかった。
井戸の水は、念のため封じられた。
北通りで一度経験したせいで、役場の給水車が早く動いた。
エルドは以前、水桶を受け取った女性が樽を運ぶのを見かけた。
彼女もこちらに気づき、「また水か」と言った。
「今度は先に来ました」
エルドが返すと、女性は小さく笑った。
被害の数だけ見れば、笑える夜ではない。
それでも人が前の経験を持って動いている。
早く届いた水を飲んだ子どもが、少し落ち着いて眠り始めた。
オルディスが医療所に来たのは、その後だった。
局長は入口で靴底の泥を落とし、ノエルの指示に従って患者の通路を避けた。
エルドは妙にその姿を覚えた。
どれほど秘密を知っていても、ここでは医療班の邪魔にならないよう歩くしかない。
ガイルは泥だらけの外套を脱ぎ、壁にもたれた。
ノエルが渡した水を飲む。
「お前の医療班、助かった」
「一人じゃ、間に合いませんでした」
「一人でやれとは言ってねえ」
ノエルは苦笑した。
近くでセレナが剣を拭き、ミレイスが測定器を並べている。
エルドは医療所の椅子に座ったまま、報告書の空欄を埋めた。
被害をまだ数え終えていないのに、書類だけ先に完成させるわけにはいかない。
「測定、できました」
ミレイスが小声で呼ぶ。
エルドは立ち上がり、彼女の机へ行った。
予備の測定器は三つ。
いずれも北へ向かっていた針が、ある時刻から王都の内側へ向いている。
「中へ集まった場所は?」
ミレイスは地図に三本の線を引いた。
交点は医療所だった。
「患者が多かったから」
エルドが言うと、ミレイスは線を少し延ばした。
医療所の中でも、診察台ではない。
彼が座っていた椅子のあたりで、三本が重なる。
「あなたが塔にいた時刻にも、そこへ動いています。場所ではなく、人を追っている」
エルドは測定器の誤差を疑った。
医療所は負傷者の魔力が集まる。
治癒術も使われている。
ほかの理由なら、いくつも思いつく。
「患者の人数と、ノエルさんの術量を引いてください」
ミレイスは既に計算していた。
別の紙を見せる。
術量の多かった時刻にも、針が向きを変えなかった時間がある。
逆に、エルドが塔を出て門へ下りた間、針は医療所から門の方へ少し傾いていた。
「線の先が移っています」
ノエルは未使用の測定器を一台持ってきた。
小さなものだ。
彼はエルドへ説明する。
「近づけると反応するかだけ見ます。嫌なら、やりません」
エルドは頷いた。
ノエルが器具を持ち、二歩離れる。
針は北を指している。
一歩近づくと、少し曲がった。
エルドが自分から後ろへ下がると、針が戻る。
「僕が術を使ったからですか」
「今日は使っていませんよね」
「朝、結界の図を見るときに少し」
「それだけで、こんな反応は出ません」
ノエルは器具を止めた。
大勢の患者がいる前で続ければ、誰かの耳に入る。
彼は診察台を空け、エルドを座らせた。
「身体に痛みは」
「指が冷たいくらいです」
「頭は」
「少し重い」
ノエルはそれも手帳に書いた。
患者の名前としてエルドを書き、勝手に別の符号へ置き換えなかった。
エルドはその手元を見た。
これまで何度も、人の仕事や症状が違う名前に移されるのを見てきた。
自分の名が残ることを、今は怖いとも思った。
「この記録は、誰が見ますか」
エルドが聞くと、ノエルは手帳の表紙を閉じた。
「医療班と、あなた。ほかへ渡すなら先に言います」
ミレイスも頷いた。
局長が何を知っているとしても、二人はまずエルドへ説明している。
針の動きは消せないが、そこから何をするかはまだ決まっていない。
ノエルが振り向いた。
さっきエルドの手に触れたとき、何かを感じていた顔だ。
「違うはずです」
エルドは自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
「勇者試験では、魔力適性の評価も低かったはずです」
エルドは測定器から手を離した。
針は元へ戻らず、机の上で小さく震えている。
指を曲げると、爪の内側に冷たさが残った。
医療所の窓の外では患者を乗せた荷車が通り、誰かが道を譲る声を上げた。
いつもならその声の方へ目が行く。
今は、自分の指から顔を上げられなかった。
「結果票には、そう書いてありました」
説明する相手は二人しかいないのに、証拠を出すときの声になった。
ミレイスは票を求めず、まずエルドの手を見た。
ミレイスはその言葉を聞き、測定器の針を見た。
彼女が何か言う前に、医療所の扉が開く。
オルディスが立っていた。
剣を、革袋に入れたまま持っている。
「エルド」
局長は地図を見なかった。
エルドの顔だけを見た。
「話さなければならないことがある」




