第23話 新しい魔王の兆候 [前編]
監視塔の鐘が鳴るより先に、地面が揺れた。
王都の北門で、荷を積んだ馬が一斉に止まった。
石畳の隙間から白い粉が吹き、風に舞う。
門番が避難を呼びかけたとき、外の畑から小型魔物の群れが現れた。
「北門は閉めるな!」
ガイルの声が響く。
「外に人が残ってる。退路を確保してからだ!」
エルドは門の脇で地図を広げた。
夜だというのに、地面の印がうっすら光って見える。
先月から記録した異常地点を結ぶと、線は北門の外で急に曲がっていた。
「畑へ出る道は危険です。東の石橋から回ってください」
エルドが伝えると、門番は最初、監査官の指示を疑った。
そこへガイルが来て、地図をひったくる。
「俺が言う。お前は次の場所を見ろ」
エルドは頷き、監視塔へ走った。
階段の下で、セレナが門番に怒鳴る声がした。
「避難は?」
「畑の人は石橋へ回しています。まだ二人、戻っていません!」
「そっちへは火を出さない」
セレナは剣を抜いた。
エルドが塔の外へ出ると、青い炎が畑の縁に線を引いていた。
群れを焼く火ではなく、進路を分ける火だ。
人がいる方へ魔物を向かわせない。
「この数、どこから」
塔の上の職員が震える手で望遠鏡を差し出した。
北の斜面にいくつもの黒い穴が開き、魔物が這い出している。
地面に巣があったわけではない。
さっきまで草だった場所から、急に形ができている。
「地脈の噴き出しです」
ミレイスは測定器の針を叩いた。
針は上限に貼りつき、動かない。
「器の力が漏れた?」
「漏れています。ただ、流れが二つに分かれています」
彼女は予備の器具を地図に置き、針先の向きを確かめた。
一本は北の保護区域。
もう一本は、王都の中へ向いている。
「中に魔物が?」
「いいえ。吸われている」
そのとき、エルドは耳の奥に細い音を聞いた。鐘ではない。雨の日、遠い窓を指で擦るような音。手を伸ばすと、指先が冷たい。
「エルド、顔色が悪い」
ミレイスが言った。
エルドは返事をしようとして、塔の外に見えるもう一本の線を指した。
「東の石橋は通さないでください」
「さっき、安全だと」
「今、変わりました。橋の下が光っています」
地脈は水の下を通る。
橋へ逃げた人たちの足元で、次の噴き出しが起きる。
ミレイスがすぐに伝令を出した。
ガイルの指示で、隊列は橋の手前から南へ折れた。
数分後、石橋の中央が白く裂けた。
エルドは自分が見たものを確かめた。
望遠鏡にはまだ裂け目が映らない時点で、なぜ分かったのか。
地図の古い印を結んだ予測だと思いたかった。
しかし、指先に残る冷たさは説明できない。
塔を降りると、門の前で荷車が一台立ち往生していた。
石橋から引き返した家族が、飼っている山羊を積もうとしている。
幼い子が二人、父親の外套にしがみついていた。
「南へ行ってください。橋は使えません」
エルドが伝えると、父親は荷車の上の布袋を指した。
「祖母の薬が家にある。取りに戻る」
「戻れば群れに近づきます」
「この子らだけ先に頼めないか」
エルドは周囲を見た。
門番は誘導に追われ、誰も余っていない。
彼が二人を連れて南へ行けば、塔の地図を更新する人間がいなくなる。
残れば、子どもは父親の帰りを待つしかない。
「ガイルさんへ連絡します」
通信石から返事が来るまで、長く感じた。
ガイルは北門の外で避難隊を率いている。
事情を説明すると、すぐに答えた。
「子どもは南の隊へ。薬は俺の班で取りに行く。父親も一緒に戻すな。家の場所だけ聞け」
父親は最初、他人に薬を任せるのを嫌がった。
銘柄と量を二度言い、袋の置き場所まで説明した。
ガイルは通信石越しに復唱する。
そこまでして、ようやく父親は手綱を南へ向けた。
エルドは門番に子どもを渡した。
泣きそうな顔で母親の外套を掴んでいたが、母親が「薬は後から来る」と言うと歩き始めた。
エルドは塔へ戻る前に、家の番地を手帳へ書き直した。
人の命が地図の一点になったとき、そこに何があるか忘れないために。
塔の上では、ミレイスが測定器を交換していた。
針の上限を越えたら数値が読めない。
別の倍率の器具を繋ぎ、塔の職員に使い方を教える。
「第五観測点からも報告が来ました。北と同じ黒い粉です」
「一か所ずつなら封鎖できます。でも、同時に増えるなら」
「避難を広げます。数値を見てから決めましょう」
エルドは地図に父親の家も書いた。
ミレイスは魔力の線と番地を見比べる。
「ガイルさんの班なら、ここを通れば短い」
鉛筆で別の道を引いた。
石橋から離れる道だ。
エルドはすぐ伝令を出した。
十分後、ガイルから「薬を回収」と返事が来た。
子どもの父親の名も添えてある。
現場を預かる人が、自分で戻って伝えるためだろう。
エルドは手帳の番地の横に、短く線を引いた。
北門で使った避難図は、そのあとも三度書き直された。
最初の図には橋が通れるとある。
二枚目では橋を消し、南の道に太い線を引いた。
三枚目には、道の途中で倒れた荷車と、担架が通れる幅を書き足した。
ガイルは三枚を並べて見た。
「正しい図はどれだ」
「今は三枚目です。ただ、十分後もそうかは分かりません」
「なら、古いのを捨てるな。いつ変わったか分からなくなる」
エルドは一枚目にも時刻を書いた。
さっきまで安全だった場所が、いま危険になる。
間違えた指示をなかったことにすれば、次に通る人へ同じ間違いを渡してしまう。
門番が入ってきた。
先ほど南へ送った家族の祖母が、途中で歩けなくなったという。
担架は足りない。
ガイルが外套を脱ぎ、二人の門番に棒を探させた。
セレナなら抱えて走れるが、彼女は畑の火を見ている。
「僕も行きます」
「お前は図を更新しろ。俺たちが戻る場所が必要だ」
ガイルは厳しい声を出したが、地図を一度見直してから出ていった。
エルドは足元の冷たさを感じた。
あの家族の場所なら、目を閉じても分かる。
自分に何が起きているのか知りたいという思いと、今はそれを後回しにしたい気持ちがぶつかった。
南の道へ向かう二人に、彼は最新の図を渡した。
門番の一人は折り目のところへ小さく時刻を記した。
教えなくても、ガイルの言葉を聞いていたのだ。
まもなく祖母も医療所へ運ばれたと聞いた。
薬は先に届いていた。
エルドは報告書に、橋を安全と判断した時刻と、その判断を取り消した時刻をどちらも書いた。
片方だけ残せば、助かった理由が分からなくなる。




