第21話 監査局長の告白 [前編]
翌朝、局長室の机には一つの湯飲みが置かれていた。
エルドたちが来る前からあったらしい。
持ち手の欠けた、どこにでもある白い湯飲み。
オルディスはその隣へ鍵の束を置いた。
「二十八年前、私は勇者だった」
局長の声は普段と変わらない。
セレナが腕を組む。
「知ってます。剣も強かったって」
「強かったから選ばれた。第九次の討伐隊に」
彼は当時の地図を広げた。
王都の北、今は封鎖された渓谷。
地脈の線がそこへ集まっている。
「教本では、我々が魔王を討ったことになっている。実際には、力を移した」
前の器から次の器へ。
魔力を受け止めきれなくなった身体を弱らせ、暴走を止めた隙に、別の人間へ流す。
儀式に失敗すれば、溜まった力が地脈を逆流する。
「倒せば終わるなら、誰も秘密を抱えずに済んだ」
オルディスは卓上に三つの瓶を置いた。
砂、魔力石、黒い粉。
砂に魔力を流すと、石が少しずつ吸い、限界を越えた粒だけが黒くなるという。
「黒い粉が、魔物を増やす。地脈に余りが出るたび、弱い獣や人が変わる」
エルドはノルタ村の子どもの咳を思い出した。
「器が吸っている間は、粉が減る」
「そうだ。だが器にも限界がある。限界が近づけば、外へ漏れる」
谷、火山、湿地。
最近の異常は、現在の器が吸いきれなくなっている合図だった。
「今の器は、どこにいますか」
セレナが聞いた。
「保護区域にいる。生きている。自分の名が教本にないことも、知っている」
「会えますか」
「本人が望めば」
局長は湯飲みへ目を落とした。
「本人は、客が来るたび自分の力の話をされるのを嫌がる。茶の味の方が大事だと言う」
その湯飲みは、現在の器が置いていったものなのかもしれない。
エルドは聞かなかった。
誰かの生活がそこにあると分かれば、十分だった。
「では、新しい器を選ぶのですか」
ミレイスが問う。
オルディスはすぐには答えない。
「候補の調査はしている」
「承諾の記録は?」
「本人に話す段階ではない」
セレナが一歩近づいた。
「いつ話すの。首に輪を掛ける直前?」
「候補だと知らせれば、他国も知る」
「知らせないで選ぶ方がいいと思ってる?」
オルディスは彼女を見た。
「二十八年前、次の器の名が漏れた。三つの国がその人物を奪いに来た。居場所を知っていた村は焼かれた」
部屋が静かになった。
セレナは言い返さなかった。
「候補の家族には、しばらく普通の朝を過ごしてもらいたい。そのために、名を伏せる」
エルドには、局長の言葉が嘘には聞こえなかった。
それでも、本人に決めさせない時間が長いほど、その人から選択肢は減っていく。
「名前を守る方法と、本人へ話す方法を分けられませんか」
局長はエルドを見た。
「君は法の中に道を探す。私は、その道を塞ぐ石を見てきた」
「石があるなら、動かす方法も調べたいです」
エルドが言うと、オルディスは苦く笑った。
*
局長は第零条が消えた経緯も話した。
二十六年前、継承の秘密を知った人々が「魔王を匿った」と勇者庁を襲った。
別の国は、器の力を奪えば自国の魔物を減らせると考えた。
勇者制度は王都でも疑われ、救助に向かった勇者まで石を投げられた。
その説明の途中で、オルディスは一度席を立った。
扉の向こうの職員に短い伝言をする。
エルドには聞こえなかったが、戻ってきた局長は湯飲みの欠けた縁を指で確かめていた。
「現在の器に、面会の希望を伝えた。断られたら、ここで話を続ける」
セレナは「今から?」と聞いた。
局長は頷く。
「会わずに語れば、また図だけの話になる。本人が望むなら、聞いておけ」
一時間後、返事が来た。
面会は許可。
ただし三十分、護衛を連れてこないこと。
オルディスは苦笑して、「条件は向こうが決める」と言った。
保護区域へ向かう馬車は、王都の北側を抜けた。
門の先で道が二つに分かれ、片方には何の表示もない。
見張りはいたが、武装した兵の姿は少ない。
魔力を抑えるための塔と、小さな畑が並んでいた。
案内された家の玄関には、子ども用の靴が二足あった。
エルドが目を向けると、案内人は「近所の子が遊びに来る」と言った。
秘密の中心に、泥のついた小さな靴がある。
家の中で迎えたのは、五十代半ばほどの女性だった。
袖をまくり、台所で湯を沸かしている。
髪の一部が白いが、顔立ちは普通の人と変わらない。
左の手首に、薄い青い線が走っていた。
「エナです」
女性が自分で名乗った。
「外へは話さないで。名前まで秘密にすると、ここで私を呼ぶ人がいなくなるから、あなたたちには教える」
三人は順に名乗った。
セレナがS級勇者だと言うと、エナは目を丸くした。
「そんなに若いの。もっと怖い顔の人が来ると思ってた」
「よく言われます」
「怖い顔って?」
「若い方です」
エナが笑った。
オルディスは黙って、欠けた湯飲みを台所へ置く。
「直さず使ってたの?」
「捨てるなと言ったのは君だ」
「持って帰れとは言ってない」
二人のやり取りは長い知り合いのものだった。
エルドは少し驚いた。
局長が個人の家で湯飲みをからかわれている姿を、監査局では想像できない。
エナは四人に茶を注いだ。
茶葉の量はきちんと量っていたが、オルディスの分だけ少し薄い。
「飲みすぎるから」
本人が抗議する前に言った。
セレナは笑いをこらえ、エルドは湯飲みの縁を見つめた。
「力を受けてから、二十八年です」
エナは先に話し始めた。
若い頃は農園で土を触るのが好きだった。
継承を受けた後、土の魔力を動かしてしまうことが分かり、何年も畑に入れなかった。
最近ようやく、温室の小さな鉢だけ自分で世話できるようになった。
「助けられた人はいたんだと思う。知らない村の知らない子が、何人も大人になった。そういう話を聞くのは嫌じゃない。でも、毎日この身体の音を聞くのは私だから」
エナは手首の青い線を見た。
「最近は夜、眠る前に指が熱い。朝には引いてるから、記録係は問題ないって言う。夜に起きてるのは、あの人じゃないのにね」
エルドは昨夜アデルが持っていた診療摘要を思い出した。
「夜間疼痛」と「朝の測定は基準内」。
どちらも間違っていない。
だが用紙の上では、後の行の方が結論に見えた。
目の前でエナが指を揉むと、順番を逆に読んではいけないと分かった。
「何時ごろから痛みますか」
「日によるよ。雨の日は夕飯の前。晴れた日は寝る前。昨日は、茶碗を洗っている途中」
一つの時刻にして報告できない症状だった。
エルドは測定器を近づける前に、彼女が持っていた布巾を受け取った。
ミレイスが手帳を出しかけ、止めた。
「記録へ残してもいいですか」
「いい。私が言ったと書いて」
彼女は頷き、時刻と症状を聞いた。
エナは一つずつ答えた。
局長へは何度か伝えていたらしい。
しかし測定器に変化が出るまで、医療班には届いていなかった。
「夜に来てくれる医師はいるんですか」
ノエルならそう聞くだろうと、エルドは思った。




