第20話 存在しない第零条 [後編]
夕方、許可が下りた。
法文館の保存室で、ミレイスは表紙の下に薄い板を差し、古い封印インクへ弱い光を当てた。
剥がさずに文字の凹みを読み取る方法だ。エルドは横で、浮かんだ形を一字ずつ写した。
『勇者法第零条。魔王を滅ぼしてはならない。』
セレナが息を止めた。
その下に細かな文字が続いていた。
『過剰魔力の受け皿たる器を毀損し、その力を無秩序に解放する行為を禁ずる。移行に際しては、器となる者の承諾を記録し、適正な保護を与えること。』
セレナは背中の剣に触れた。
勇者学校で初めて教わったのは、魔王の急所だった。
肩の後ろ、肋の下。
剣が届く場所を、木の人形で何度も確かめた。
卒業した後も、年下の勇者へ同じことを教えた。
「もし、あのとき誰かが私にこれを読ませてたら」
言い終わらず、彼女は剣から手を離した。
魔王の姿をした相手に刃を向けることと、力を受けて暮らす人に刃を向けることが、同じ手順の中にあったのかもしれない。
エルドは「知らなかったんですから」と言いかけた。
セレナは聞かずに、条文の最後へ目を戻した。
エルドは最後の行で手を止めた。
初代勇者は名前を記せと書いていた。
法も同意と保護を求めている。
消されたのは秘密だけではない。
選ばれる人の権利だった。
法文館の館長が写しを確認しに来た。
最初は、読み取った文字を信じなかった。
「魔王を滅ぼしてはならない、とは。勇者法の最初に置く言葉にしては、あまりに」
彼は続きが出ないまま、二枚の紙を見比べた。
ミレイスは鑑識針をもう一度当て、文字の凹みと封印インクの位置を示した。
館長自身が拡大鏡を覗き、写しの一字ずつに印をつける。
「誤読ではない」
小さく言ったあと、館長は深く椅子へ座った。
「私がここへ勤めて二十年、何度もこの本を出しました。誰も表紙の下を見なかった」
エルドは返事をしなかった。
自分も魔王討伐の教本を何度も読んだが、違う言葉があるとは思わなかった。
隠した人だけの責任にすれば、次もまた読まないままだろう。
「写しは、館の記録として残しますか」
館長は顔を上げた。
「残します。公開の範囲は法務官と相談する。それでも、私が見たと書いておく」
セレナは第零条の最後の行を指した。
「『承諾を記録する』とある。承諾しなかった人の記録も、残ってるのかな」
「探します」
エルドが答えると、彼女は首を振った。
「私も。戦いに関する紙なら、読める」
館長が出した「移行関係」の索引には、承諾書と診療録の箱番号が並ぶ。
中身には本人と遺族の情報があるため、今日は番号だけを見せてもらった。
セレナは一つの欄を指した。
承諾書の箱番号の横に、「未提出」とある。
次の行には移行完了の日付が入っていた。
「これ、どういうこと」
「書類が失われたのか、最初からなかったのか、索引だけでは分かりません」
ミレイスは日付を書き写した。
セレナはまだその欄を見ている。
「本人が嫌だと言ったのに進めた可能性もある」
「あります。でも、ここだけで断定はできません」
エルドは言った。
断定しないことが、見なかったことにする口実にもなりうる。
彼は索引番号と保存状態を調査票へ記した。
「今すぐ答えが出なくても、調査を始めたいです」
セレナは閲覧申請の名前欄へ、自分で字を書いた。
彼女は手袋をはめ直した。
今度は指先の余りを気にしなかった。
「魔王を滅ぼしてはいけないのに、今の第一条では討てと」
セレナが言った。
「書いた人は、矛盾に気づかなかったの?」
「気づいて、先に第零条を消したんでしょう」
エルドは現行法のページを見た。
一行目の「討ち」が重い。
「これ、すぐに知らせた方がいい」
セレナが言った。
館長は写しを持ったまま、顔を上げる。
「誰へ」
「勇者学校とギルドへ。私だって今日まで知らなかったんだから」
ミレイスは保存板を拭き、道具を箱へ戻した。
「条文の存在は知らせるべきです。ただ、『器』が何を指すかまで一度に広まれば、人探しが始まります」
「隠したらまた同じじゃない」
「隠さない方法を考えています」
ミレイスは紙を三つに分けた。
水利局へは避難命令の補記をすぐ届ける。
勇者学校への説明は、セレナが同席して準備する。
候補者に関わる情報は、本人へ先に知らせる方法が決まるまで配らない。
「学校へ話す日は、私にも教えて」
セレナは二つ目の欄に名を書いた。
三つ目は空けた。
館長は写しの保管先を確認しに行った。
「今夜、局長と話します」
エルドが言うと、扉の前で足音が止まった。
返事を待たずに、保存室の扉が開いた。
オルディスが立っている。
その後ろには、勇者庁特別審査委員会の法務官アデル・ロスナーがいた。
四十代半ばほどの女性で、紙を持つ左手の甲に古い火傷の跡がある。
呼んだ者はいないはずだが、法文館は保存申請を通知したのだろう。
「そこまで見たか」
局長の声に怒りはなかった。
「第零条は、消すべきではありませんでした」
エルドが言うと、オルディスは法冊を見た。
「消さなければ、人は器を探した。探し当てた相手を、生かしておかなかったかもしれん」
「なら、同意の条文だけでも残せたはずです」
「表に出せば、何の同意か尋ねられる」
ミレイスが保存板を外した。
文字はまた見えにくくなるが、写しは残った。
「今、魔力が増えています」
彼女は局長に言った。
「村も王都も、以前の周期より早い。事情を知る人だけで対処できるなら、方法を示してください」
オルディスは三人を見た。
セレナは剣を持っていたが、鞘から抜かない。
エルドは写しを机に置いたまま待った。
「明朝、監査局へ来い」
局長はそう言ったが、アデルは扉を動かなかった。
「水利局へ、避難命令の補記を届けるのは急いでください。候補者の特定につながる写しは、配布先を決めるまで預かります」
「預かる、とは」
エルドが聞く。
アデルは法冊ではなく、机の上の三つに分けた紙を見た。
「館の原本は館に残します。あなた方の写しも取り上げません。誰へ見せたかだけ、今夜から記録してほしい」
「候補になっている本人へは、知らせますか」
「今、あなたは候補者の名を知りません。知ったとして、その人が国境を越えたら?」
「逃げると決まったわけではありません」
「逃げないとも決まっていません。本人の自由が、王都の避難より先になる理由を私はまだ聞いていない」
エルドは言い返しかけ、北通りで桶を持って立っていた女性を思い出した。
保護されるべき人は、候補者だけではない。
だが、その数を理由に候補者を黙らせるのも違う。
二つを同時に守る道を、彼はまだ示せなかった。
アデルはオルディスへ薄い診療摘要を渡した。
人名と場所は伏せられている。
『現行の器。夜間に手指の疼痛を申告。朝の定期測定は基準内。』
「昨夜の追加分です。数値だけなら急変とは言えません。でも、猶予があると断言する資料にもならない」
彼女はエルドを見ずに言った。
隠すことに慣れた人の手には、病人の痛みも載っている。
オルディスは紙を受け取り、アデルと一緒に廊下へ出た。
保存室の時計は、ちょうど夕刻を指していた。
エルドは百年前の報告書にあった鐘楼の七分を思い出した。
誰かが何度も同じ時刻にしたかったのなら、その時刻に行われたことがある。
セレナは写しの最初の行を見つめている。
「勇者は、魔王を滅ぼしてはならない」
声に出すと、誰かに叱られそうな言葉だった。
それでも、彼女は最後まで読み切った。




