第19話 存在しない第零条 [前編]
勇者法の第一条は、何度読んでも第一条だった。
『勇者は魔王を討ち、国土の安全を守る者とする。』
エルドは現行法の小冊子を机に置き、古文書館の写しを並べた。
第零条の参照印は、初代勇者の署名の横にある。
番号の誤記で片づけるには、別の三冊にも同じ印が付いていた。
「法律を改めた年は?」
セレナが窓際から聞いた。
仕事を終えて来たばかりで、肩の外套も脱いでいない。
「大きな改正は三度です。最初が百三十六年前、次が八十九年前、最後が二十六年前」
「その前の法は」
「原本が地下書庫に」
「また、あそこ」
セレナは不満そうに椅子へ座った。
ミレイスが現行法の注釈書を持ってきた。
「原本がなくても、条文を引用した文書があります。第零条を削ったなら、参照先の番号に空白が残るはず」
三人は改正履歴、契約書、古い依頼書を分けて読んだ。
エルドが最初に見つけたのは、条文そのものではなく、番号のずれだった。
百三十六年前の改正では、第一条の前に空白の頁がある。
八十九年前には空白が残り、二十六年前の版で綴じ目ごと消えていた。
「紙が一枚、抜かれています」
彼は綴じ目を見せた。
糸の間隔がそこだけ狭い。
ミレイスは指先で触れ、紙の厚みを測った。
「後から抜いたなら、糸を結び直しています」
「二十六年前の改正の時に」
「可能性があります」
改正理由書には国外救助の拡大とある。
第零条の削除は項目一覧になく、別紙の保管先も書かれていない。
扉の脇で、紙を運んでいた若い職員が三人のやり取りを聞いていた。
エルドが気づくと、慌てて目を逸らす。
「当時の別紙、どこにあるか分かりますか」
エルドが聞くと、職員は紙の束を抱え直した。
「改正の別紙なら、法文館へ移しました。でも一部は、監査局の地下に」
「どちらが先に作られたものですか」
「法文館の方です。ここは施行用の写しを受けるだけなので」
地下へ入れなくても、法文館の原稿なら確認できる。
職員は「場所だけです」と付け足し、紙を抱え直した。
「十分です。ありがとうございます」
エルドが礼を言うと、職員は紙を運んでいった。
セレナが隣で唸る。
「隠すなら、全部燃やせばいいのに」
「法を燃やすと、ほかのことまで証明できなくなります」
改正年には費用負担や依頼主の責任も変わっていた。
セレナは不満を言いながら、同じ年の依頼書を選んだ。
「私だけ仕事が多くない?」
「依頼書を一番読んでいるのは、あなたです」
エルドが言うと、セレナは笑わずに紙を取った。
深夜近く、セレナが一枚を差し出した。
六十年前の北方戦役で使われた依頼書だった。
討伐完了の欄に、手書きで条件が足されている。
『第零条に反する処理を行わないこと。』
「この依頼、魔王に関するものです」
エルドは欄外の日付を確認した。
戦役の終結より一週間前。
現場の勇者へ第零条を守らせるための、最後の指示だった。
「文章は書いてない」
セレナが机に肘をついた。
「でも、何かしてはいけなかった」
ミレイスが自分の束から古い契約書を出す。
戦役後の魔力石保管契約だ。
「こちらには、第零条に従って『器の保全』を優先するとあります」
器。
継承。
現行法から消えた言葉が、周辺の書類には残っていた。
エルドは第零条が何を禁じたか、書き出した。
器を破壊するな。
魔王の力を散らすな。
魔王を倒すな。
どれも似ているが、法文としては違う。
正確な一行が必要だと確信した。
*
翌朝、ミレイスは古い法冊の表紙を調べた。
新しい第一条の紙の下に、薄く別の紙が貼られている。
接着剤だけが変色していた。
「これを剥がすのは、資料の破壊になります」
彼女は言って、法冊を裏返した。
魔力鑑識針を背表紙へ当てる。
針先の石が弱く光った。
「古い封印インクです。文字を消した後、綴じ直している」
「読めますか」
「保存処理をすれば。勝手にはできません」
借りていた法冊の所蔵は王立法文館。
ミレイスは保存処理の図を持って法務官を訪ねた。
法務官は図に目を通し、用途を聞いた。
「資料を傷つけない方法なのは分かります。ただ、第零条の参照印を読み取る理由が『災害調査』だけでは弱い」
「過去の異常値に関する条文がある可能性です」
ミレイスが答える。
法務官はエルドへ視線を向けた。
「あなたも、同じ説明ですか」
「いいえ。僕は、現在の報告と昔の報告の言葉が合わない理由を知りたいんです。避難の時期を決める資料が、改変されているかもしれない」
法務官は奥の棚から六十年前の避難命令を取ってきた。
「この命令にも、第零条が出ます。ずっと、旧法の誤記として扱っていました」
本文には、魔王討伐の日まで市民を北門へ近づけないとある。
欄外の補記には、第零条のため「討伐後三日間は地脈の水を飲用しない」と書かれていた。
現行法には理由がないため、後の写本ではその補記が落とされている。
「今の異常が同じなら、水の管理に必要です」
エルドが言った。
法務官は補記を読み直した。
「それなら、保存処理の申請に加え、避難命令の複写も出します。水利局へも通知します。ただし、原文を公表するかは別の決裁です」
「分かっています」
セレナは水に関する補記をもう一度読んだ。
「古い紙に、今日の飲み水のことが書いてあるんだ」
法務官は補記の写しを一枚取った。
「水利局へ、これを先に届けます」
「あなた、紙の仕事を嫌いになったことある?」
「毎週のようにあります」
「それで続けてるんだ」
「今日も朝は嫌でした。でも、この補記を捨てなくてよかった」
セレナはすぐに返事をしなかった。




