第18話 初代勇者の署名 [後編]
三人は北通りの片づけを手伝った。
割れた桶を集め、焦げた布幕を外す。
セレナは井戸へ子どもが近づかないよう見張った。
「飲み水、今日はどうするの」
近くの家の女性に聞かれ、彼女は答えに詰まった。
井戸水は鑑定が終わるまで使えない。
エルドは役場の給水車を頼みに走った。
馬車が来るまで、セレナは店の樽を借りて別の通りから水を運んだ。
魔物と戦うより、その方が長くかかった。
「腰、大丈夫?」
女性が水桶を受け取りながら尋ねる。
セレナは「鍛えてるから」と言ったが、三往復目には肩を回していた。
「剣だけだと、家の水は増えないんだね」
女性は何気なく言った。
責めているのではない。
水を受け取り、礼を言ってから店へ戻っていく。
その背中を、セレナはしばらく見ていた。
井戸の水は夕方の鑑定で安全と分かった。
エルドが片づけを終えたとき、セレナは手袋の余った指先を握り直し、古文書館へ戻ろうと言った。
館員が日誌を再び出してくれた。
セレナは初代勇者の署名の横に、小さな書き足しを見つけた。
『器の名を記すこと。次の者に、選ぶ権利を残すために。』
筆跡は署名と同じだった。
だが、名前は別の手で削られている。
「初代は書いたのに、誰かが消した」
セレナは指を頁の上で止めた。
触れれば崩れそうな薄い紙だった。
「魔王を倒すことだけが勇者だと思ってた。今も、危ない魔物から人を守るのは私の仕事だと思う。でも、あの子の名前を見落としたら、剣だけじゃ足りない」
エルドは彼女の言葉を聞いた。
朝、書類を嫌がっていた人が、削られた一行を見ている。
ミレイスは署名を拡大鏡で確かめていた。
削られた文字の下に、細い溝が残る。
古いインクが紙に食い込み、完全には消せなかったのだ。
「第零条の参照印があります」
エルドが見せてもらうと、欄外に丸い印があった。
今の勇者法は第一条から始まる。
第零条という番号はない。
セレナは椅子を引いた。
「また、読まなきゃいけない紙が増えたね」
「嫌ですか」
「嫌い。でも、預けて帰るのも嫌」
セレナはその溝を見たあと、手袋を外した。
自分の指先に、今日の水桶の跡が残っている。
剣の柄でできる硬い皮とは違う場所が赤くなっていた。
「初代の名前だけ残って、器の名前がない」
セレナが言う。
老人は棚の前で足を止めた。
「残された記録を探した人はいます。でも、削った人も、どうして削ったかも分かりません」
セレナは「分からない」の後を急がなかった。
館を出ると、空は夕焼けになっていた。
初代勇者の像の足元から子どもたちはいなくなり、掃除人が落ち葉を集めている。
セレナは像の剣を見上げた。
「明日、訓練場で新人に会う。魔王を倒したいって言う子がいる」
「何と答えますか」
「今日はまだ、考えてる」
エルドは頷いた。
立ち止まって考える時間を取ることも、仕事の一部だろう。
その夜、セレナは初めて自分から監査局へ来た。
剣は受付の箱に置かなかった。
「ここは預けなくていいんですか」
エルドが言うと、彼女は腰の鞘を見た。
「置き場所を間違えた。古文書館へ行くつもりで歩いてた」
セレナはそう言って鞘を外し、壁際へ立てた。
持っていたのは、古い勇者教本の写しだった。
魔物を倒す手順が箇条書きになっている。
彼女は本を開き、最初の項目を指で押さえた。
「明日、新人にこれを教える。今までは、倒せた数で褒めてきた」
「それは訓練の評価として間違いではありません」
「でも、あの子が最初に見るのは数になる。人が倒れても、試験の点を気にするかもしれない」
エルドは、勇者試験の日の土の匂いを一瞬思い出した。
まだ彼女には話していない。
彼も同じことを考え、同じ場所で迷った。
「教本を変える権限は、僕にはありません」
「私には、訓練の順番を変える権限がある」
セレナは写しの上へ、新しい紙を一枚重ねた。
そこには「守る相手を確認する」とだけ書いてある。
急いで書いた字で、最後の文字が少し斜めになっていた。
「これを一番にする。あとの項目は捨てない。危険な魔物は止めないといけないから」
「はい」
「あなたが頷くと、判をもらった気分になる」
「僕の判は、訓練には効きません」
セレナは笑いかけて、やめた。
「昼間、館の前で水を運んだでしょ。あの女の人、私のことを勇者だと知らなかった。知ったあとも、水桶の中身は軽くならなかった」
彼女は赤くなった指を曲げた。
「強い剣を持ってても、何を見落としたかは誰かに言ってもらわないと分からないね」
「僕も同じです」
エルドは青い粉の採取記録を見せた。
谷と山と村。
最初は別々の事件だと思っていた。
誰かが記録を残してくれなければ、線も引けなかった。
セレナは写しを鞄へ戻す前に、もう一枚の紙をエルドへ渡した。
そこには子どもたちが訓練で使う避難合図が書かれている。
声の届かないときの手の振り方まで、絵にしてあった。
「間違ってたら直して」
「見てみます」
セレナは剣を持ち、扉まで歩いた。
途中で振り返る。
「明日は、教える方も失敗するかもしれない」
「記録して、直せます」
「そう言うと思った」
彼女は少し肩の力を抜いて帰った。
エルドは渡された紙を机に置き、避難合図の矢印を一つだけ書き足した。
翌朝、訓練場へ向かう途中、エルドは校舎の掲示板で足を止めた。
S級勇者の名札に、同じ年に試験を受けた二人の名がある。
片方には、実技の前夜に鉛筆を貸した。
エルドは名札から目を逸らし、自分の鞄の留め具を直した。
外れてはいなかった。
訓練場でエルドは偶然その新人を見かけた。
セレナに木剣を向け、「強い魔物を倒す練習がしたい」と言っている。
少年は十四、五歳だろう。
彼女が最初に聞いたのは、剣の構えではなかった。
「後ろの入口に誰がいる?」
少年は振り向いた。
訓練場の端で、別の新人が転んだ仲間を起こしている。
「仲間です」
「魔物を追ってるとき、その子が倒れたら?」
「助けます」
「どうやって?」
少年は少し考えた。
木剣を置き、二歩戻って仲間へ手を伸ばす動きをする。
セレナはそれを止めなかった。
ただ、魔物役の人間が後ろから来る位置を示した。
「助けるなら、魔物の進路を変えてから。剣を持つ手だけで考えない」
少年はもう一度やり直した。
今度は仲間に声を掛け、ほかの新人へも合図した。
訓練場の外で見ていたエルドは、昨日の巻物を思い出した。
初代勇者が残したのは、ただの禁じ手ではないのかもしれない。
誰を見て、誰に声を掛けるかという、戦いの前の手順でもある。
訓練を終えたセレナがエルドに気づいた。
「見てた?」
「少し」
「何か言いたそう」
「あの少年、質問が変わりましたね」
「うん。私も、昨日から答えを変えた」
少年は次の組に交じると、また仲間への合図を忘れた。
セレナが名前を呼び、木剣を持ったまま走って戻らせた。




