第17話 初代勇者の署名 [前編]
古文書館の受付には、剣を預ける箱があった。
「何で私まで呼んだの」
セレナは鞘を箱に置きながら言った。
剣が手元を離れたせいか、普段より落ち着かない。
「初代勇者の資料を読むので、勇者にもいてほしかったんです」
エルドが答えると、彼女は不満そうな顔をした。
「知らない人の文字を読むのが仕事なら、ミレイスの方が向いてる」
「あなたは、今の制度で働いています」
「それは、そうだけど」
受付の老人が三人を閲覧室へ案内した。
窓は細く、机には布が敷かれている。
古い書物は一度に一冊しか出せない。
老人は「頁の角を折らないで」とセレナだけに念を押した。
閲覧を待つ間、セレナは窓の外の広場を見ていた。
初代勇者の像が、建物の間から半分だけ見える。
像の足元には魔王の角を模した石があり、子どもたちがそこへよじ登ろうとしていた。
母親が叱る声が、窓を閉めていてもかすかに届く。
「小さい頃、あの角に触れば強くなれると思ってた」
セレナが言った。
「勇者学校の入学前に、三回触った。試験当日にも。触ったら、手に石の粉がついた」
「効果はありましたか」
「たぶん、ただの石。でも合格したから、しばらくは信じてた」
彼女は少し笑ったあと、手を閉じた。
「母がよく言ったんだ。魔王を倒せるなら、どんな大変な訓練でもやりなさいって。故郷の村は昔、魔物で畑を焼かれたことがある。あの人には、魔王の角を踏む像が安心だったんだと思う」
話をするセレナはどことなく嬉しそうに見える。
「母は畑へ出るたび、玄関の木剣をまたいでた。邪魔だって言いながら、雨の日は濡れない場所へ移してくれて。私が初めて勇者の制服で帰ったときも、褒めるより先に袖のほつれを見つけた」
セレナは自分の袖を摘んだ。
「それから、次に畑へ来たやつは追い返せるねって。私、うんって言った。絶対に来ないとは言えないのに。その夜、母は戸締まりを一度しかしなかったんだ」
セレナは窓枠の下で手を開いた。
角に触れたときの石の粉は、とうに落ちている。
エルドは初代勇者の像を見た。
誰かにとって救いだった絵を、古文書の一行で取り上げることはできない。
一方で、絵のために別の人の名前が削られたのなら、そのままにもできなかった。
「今日、何が書いてあっても、母親へ話せるかは分からない」
セレナは正直に言った。
エルドは頷いた。
老人が戻り、薄い手袋を三組渡した。
セレナは剣の手入れをするときより慎重に指を入れた。
指先が少し余り、彼女は不満そうに引っぱる。
「これ、サイズが大きい」
「一番小さいのです」
老人はにこりともせず答えた。
セレナは手袋を眺め、エルドに目で助けを求めた。
彼も同じサイズだった。ミレイスだけは慣れた様子で手首を折り返している。
「剣の方が扱いやすい」
「今日は剣より大事なものを持ちます」
ミレイスが言うと、セレナは言い返さなかった。
「私、そんなに荒っぽく見える?」
「剣を持ってきたでしょう」
「みんな預けてたじゃない」
エルドは笑いをこらえ、最初の巻物を開いた。
勇者制度ができる前の戦役記録だ。
文字は今と違うが、国名と人名は読める。
初代勇者アレク・フォルンの署名はページの最後にあった。
「ここです」
ミレイスが一文を指す。
『黒き器より力を取り出し、次の器へ継承した。討滅の記録として扱うべからず。』
エルドは二度読んだ。
討伐ではなく、継承。
初代勇者は魔王を殺したと書いていない。
「訳し方を間違えてない?」
セレナが聞くと、閲覧室の老人が横から古語辞典を持ってきた。
「ここは何度も調べられています。継承で合っています」
「でも、私たちはずっと、倒したって教わった」
老人は困った顔で笑うだけだった。
答えを持っているのか、ただ触れたくないのか、エルドには分からない。
セレナは署名を見つめた。
初代勇者の像は学校にもある。
剣を高く上げ、足元に魔王を踏みつけた像だ。
巻物の文字からは、そんな姿が浮かばなかった。
閲覧室の老人は、巻物の横にもう一枚、古い銅板の拓本を出した。
勇者アレクが村の橋へ寄付した時の記録だという。
署名は巻物と同じ形で、最後の文字だけ少し長い。
「偽物だと言われたことがあってね」
老人は言った。
「この巻物が出るたび、討伐で有名な英雄が、そんな地味なことを書くはずがないと」
「署名が同じなら、本物ですか」
セレナが尋ねる。
ミレイスは銅板の拓本を確かめた。
「筆跡が同じでも、写し手が真似ることはできます。紙の年代、インク、同行者の記録と合わせます」
老人は頷き、保管記録を広げた。
巻物は初代勇者の死後まもなく、地方の神殿に納められた。
百年ほど前に王立古文書館へ移り、その時に紙の状態が記録されている。
書き換えるなら、その前だ。
「どうして、今まで教本と違うと騒ぎにならなかったんですか」
エルドが聞くと、老人は少し笑った。
「読んだ人はいましたよ。争いもありました。けれど古語の記録は遠くの話にされやすい。新しい教本の方が手に入りやすいし、明日の試験にも出る」
エルドは自分の勇者試験を思い出した。
初代勇者の名を答える問題なら、迷わなかっただろう。
継承の意味を問われていたら、白紙で出していた。
「私も、学校で教わらなかった」
セレナが言う。
老人は彼女を見た。
「学校の先生がこの紙を知らなかったとは思いません。ただ、先生にも教える日が必要なんでしょう」
セレナは反論しなかった。
自分が新人へ何を教えるか、すでに考えている顔だった。
ミレイスは銅板の年代を記録し、巻物の署名との一致点を書いた。
最後に、真偽の欄へ「現時点で否定する根拠なし」と記す。
エルドは「本物」と書かないのかと思ったが、彼女はまだ調べられることを残しておきたいのだろう。
「もし偽物だったら、安心する?」
セレナがエルドへ聞いた。
「少しは」
「私も」
正直な答えだった。
二人とも、これまで信じてきた話が崩れないなら、その方が楽だ。
けれど巻物を棚へ戻せば、初代勇者が何を守ろうとしたかを知らないままになる。
「古い勇者は、何をしたの」
彼女の声が小さくなった。
ミレイスが次のページを指した。
「討伐の前に、避難民を運んでいます。農地の水を確保した記録も」
「それは戦いの準備でしょ」
「そうです。ただ、継承の後も三か月残って、水路を直しています」
セレナは巻物から顔を上げなかった。
「像には、水路のこと、書いてなかった」
エルドは何も言わなかった。
自分も読んだことがない。
大人たちが勇者の仕事を一つの絵にするとき、映りのいい場面だけが選ばれてきたのだ。
いつだって歴史の一ページは切り取られた絵だけが体よく伝わる。
セレナは手を握り直した。
S級になった日、彼女は初代勇者の像の前まで行った。
剣を掲げた姿を下から見て、いつか同じように人を守れると思った。
帰り道で道に迷い、通りすがりの老人に水路の橋を教わったことは、ずっと忘れていた。
「私、あの像が好きだったんだよ」
「今は?」
「嫌いにはならない。でも、剣の下に水路も彫ってほしかった」
ミレイスが巻物の端を巻き直す。
セレナは手を貸した。
紙が破れそうなところだけ、剣を握るときより慎重に指を添えた。
*
次の資料は初代勇者の同行者が残した日誌だった。
継承の日、前の魔王は衰弱しながらも生きていた。
力を受ける「器」は布で顔を隠し、自分の足で儀式場へ歩いた。
「同意していたんでしょうか」
エルドの問いに、ミレイスは答えなかった。
日誌には、名も、同意の言葉もない。
セレナが本を閉じた。
「名前を消して守ったつもりかもしれない。でも、同意したかどうかまで消したら、あとから誰にも聞けない」
エルドは彼女の横顔を見た。
書類を嫌う人の言葉とは思えなかった。
「母竜の記録を、毎日書いたからですね」
「あの卵が孵ったら、何が起きたか知りたいだけ」
セレナは目を逸らした。
エルドはそれ以上言わなかった。
閲覧室の外で、急に足音が走った。
館員が扉を開ける。
「北通りに魔物が出ました。小型ですが、数が多い」
セレナは箱から剣を受け取り、階段を二段ずつ下りた。
エルドとミレイスも後を追う。
通りでは黒い羽を持つ魔物が井戸の周囲を飛び、人々が店の中へ逃げていた。
「全員、建物から出ないで!」
セレナが声を張る。
炎が剣に走った。
羽を焼くと火の粉が店の布幕へ飛ぶ。
彼女は刃の熱を抑え、一羽ずつ地面へ落とした。
エルドは古文書館の扉を閉めようとして、子どもが外に残っているのを見つけた。
母親と離れ、井戸の石縁の下で泣いている。
セレナは魔物の群れへ向かっていた。
「左、井戸の下です!」
彼女は振り向いた。
次の一撃を魔物ではなく、子どもを守るための壁に変える。
青い炎が井戸の周りを半円に囲み、羽の群れを遠ざけた。
エルドは子どもを抱えて館へ戻る。
騒ぎは十分ほどで終わった。
負傷者は少ない。
通りに飛び散った灰をミレイスが採取し、井戸の水も封じた。
「迷いました?」
エルドが聞くと、セレナは剣を布で拭いた。
「羽を全部落とすことしか考えてなかった。あなたの声がなかったら、あの子に気づくのが遅れた」
「僕も、あなたの壁がなければ届きませんでした」
セレナは頷いた。軽い冗談は返さなかった。




