第15話 監査局の立入禁止書庫 [前編]
申請書は、一時間で戻ってきた。
赤い不許可印が中央に押されている。
理由欄は「国家保全上の必要」とだけ記されていた。
エルドは同じ紙を二度見た。
再提出のために何を補えばいいのか、これでは分からない。
「行かないでください」
ミレイスはエルドが立つ前に言った。
「局長室の前で口論しても、原本は出ません」
「では、どうすれば」
「理由が曖昧すぎます。だから、正式な不服申立てにします」
彼女は申請書より三倍長い不服申立書を出した。
エルドは欄の細かさに息をつく。
「これを書いている間に、外の地脈は変わります」
「外のことも調べます。そのために別々の人間がいるんです」
ミレイスはエルドへ現場の巡回表を渡した。
エルドは納得しないまま外へ出た。
廊下の掲示板には、昨日までなかった紙が貼られていた。
「封印資料の持ち出しに関する再確認」。
名指しではないが、第一監査課の職員が立ち止まって読んでいる。
「私たちへの牽制ですか」
エルドが戻って聞くと、ミレイスは貼り紙を見ずに答えた。
「全員への注意です。実際に誰かが持ち出していれば、そちらも調べないと」
午前中、文書管理係へ行くと、係員が台帳を両手で抱えていた。
地下書庫へ入れる職員の一覧を確認したいだけだと説明しても、目つきが固い。
「局長の許可があるときだけです」
「立入を求めていません。保管番号と、封印の決裁者を調べています」
「それも、局長の」
係員が言い終える前に、ミレイスが番号照会の規定を示した。
係員は規則集で確かめた。
「規則を知ってるのに、わざわざ聞くんですね」
エルドが言う。
ミレイスは少しだけ眉を寄せた。
「知らないまま押せば、後から係の人が叱られます。私たちが何を求めたか、紙に残すためです」
係員は台帳を机へ置き、保管番号だけを写した。
イサークの事故、ディルクの行方調査、歴代討伐報告。
その間に、もう一冊があった。
『候補者適性検査記録』
人名欄は伏せられている。
エルドは用紙を持ったまま止まった。
勇者になるための適性試験とは別の、候補者。
ディルクが言った十人目と関わるのだろうか。
「この一冊だけ、更新日が毎年あります」
ミレイスが指した。
ほかの封印資料は事件当時で日付が止まっている。
候補者の記録だけ、去年も更新された。
「ずっと誰かを測っている」
エルドは声を落とした。
係員は台帳を閉じ、二人へ返した番号照会の写しをもう一度見た。
何を調べているのか分かったのかもしれない。
だが、何も聞かなかった。
「私、決裁の中身は見ていません」
係員はそう言って、書類の控えを自分の棚へ入れた。
「でも、番号は確かにあります。消さないでおきます」
エルドは礼を言った。
勇者でも監査官でもない係員が、自分の仕事の範囲でできることをした。
その小ささが、今は頼もしかった。
*
王都の北の排水路では、小型魔物が二日続けて見つかった。
退治した勇者の報告では、術式にいつもより魔力を使ったという。
ノエルが医療班に同行し、呼吸が苦しくなった作業員を診ていた。
排水路の入り口には、赤い縄が張られていた。
職員が通行人を別の橋へ案内している。
少し離れた場所では、桶を持った女性が不満そうに立っていた。
「この先の井戸、今朝も使ってたんだけど。危ないなら昨日言ってよ」
職員は謝った。
危険を知ったのは夜中だという。
女性は納得しないまま、桶を下げて引き返した。
エルドは井戸の場所を手帳へ書いた。
「水の代わりは届きますか」
「役場へは頼んでます。まだ何時になるか」
昨日までの監査なら、数字を集めて異常の原因を調べるところで終わっていたかもしれない。
「給水の順番も、確認します」
ノエルは水路の縁で患者の呼吸を聴いていた。
作業員は四十代で、咳の合間にも「仕事を止めるな」と言う。
下流のごみを取らなければ、水が溢れるらしい。
「あなたが戻る前に、別の人がやります」
ノエルはきっぱり言った。
作業員が言い返そうとすると、咳が出る。
「吸った量が分からないから、今日は水路に入れません」
「若いのに偉そうだな」
「若いから、ちゃんと記録を取りたいんです」
ノエルは手帳を見せた。
前に別の患者が咳をした時刻、使った術、休んだ時間。
作業員はしばらく読み、「自分の分も書け」と言った。
エルドは水路の底を見た。
黒い粉は表面だけではなく、石の継ぎ目に溜まっている。
雨が降れば一気に流れる。
監査局の地下書庫にある数値が、ここへ来る時期を予測できたなら、この人の仕事は少し違ったはずだった。
役場から給水の返事が来た。
夕方までに二台。
足りない分は隣の区から運ぶ。
エルドは縄の前に立つ職員へ時刻を伝えた。
さっきの女性はもう見えない。
桶を持って別の井戸へ行ったのだろうか。
「人が帰った後の返事も、掲示してください」
職員は頷き、濡れないよう木板へ大きな字で書いた。
夕方二台。知らない人にも届くように。
昼過ぎ、朝の女性が戻ってきた。
桶は空のままだった。
隣の区の井戸まで行ったが、そこにも同じ札が立ち、結局何も汲めなかったという。
「夕方じゃ、遅いよ。うちには寝たきりの母がいる」
エルドは木板に書いた時刻を見た。
給水車が来るまで待てと言うのは簡単だった。
けれど家に水がない人の時間は、その札の前で止まらない。
「役場へもう一度連絡します。今、動かせる水を探します」
「勇者でもないのに?」
「はい。監査官です」
女性は少し怪訝そうな顔をした。
肩書きで水が出るわけではない。
エルドは役場へ行き、給水の台帳を見せてもらった。
夕方の車は、荷を積む順番が決まっている。
水利局の検査が終わった地区には、もう一台だけ待機していた。
「あれを先に回せませんか」
「手続き上、優先地区は北門です」
「北門へは夕方の二台が向かいます。この通りは今朝封鎖され、飲用の井戸が一つも使えません」
役人は地図を開いた。
彼が持っていた地図には、その通りが危険区域に塗られていない。
夜中の測定がまだ届いていなかったのだ。
エルドは新しい測定票を渡し、受領時刻を書いてもらった。
車が動いたのは一時間後だった。
女性は桶を持って列の最後に並び、前の人が高齢なら先へ行かせた。
エルドは列の人数を数え、水の量が足りるか確かめた。
最初の見積もりより二十人多い。
家族の分を汲みに来た人が含まれていたためだ。
「また数が合わないの」
女性が言う。
エルドは苦笑した。
「今度は、先に増やします」
役場へ追加の樽を頼み、渡した人数と残量を木板へ書いた。
女性が家へ帰るころには、給水車の到着予定も一時間早くなっていた。
それでも朝から待った時間は戻らない。
エルドは封鎖の通知が遅れたことを、監査局の報告に一行足した。
「湿地と同じ粉ですか」
エルドが聞くと、ノエルは濡れ布で覆った瓶を見せた。
「似ています。でも、量が少ない。これが増えたら、通りの井戸にも入るかもしれません」
彼は治癒より先に、作業員を水路から遠ざけていた。
いつもの手帳には、今回も使用した術と患者の変化が書かれている。
昇格審査はまだ終わっていないが、現場に必要な人間として働いていた。
「ギルドに報告します。封鎖が必要な区画は」
「今は一本だけ」
ノエルは図面に印をつけた。
エルドは監査局へ持ち帰り、ミレイスの机へ置いた。
机には書庫の不服申立書がほぼ出来上がっている。
「局長の返事は」
「まだです。それより、これを見てください」
ミレイスは別の古い書類を出した。
十年前のイサークの事件。
父親の立入停止命令への異議申立てが、裏面に綴じ込まれている。
「この部分は封印されていませんでした」
異議は却下。
理由は「安全上の必要」。
そこまでは事故当時でも理解できる。
しかし、その次の行が不可解だった。
『原本移管先を、魔王記録管理室に変更する。』
「イサークさんの事故が、なぜ魔王記録に入るんですか」
「父も、そう尋ねたはずです」
ミレイスは机の上に十年前の巡回地図を広げた。
採石場の真下に、今の異常が続く地脈と同じ帯が走る。
父親は善意の費用処理を見逃して大事故が起きた、と彼女は聞かされていた。
事実の一部ではある。
だが、事故の原因を一人の勇者へ押しつける裁定へ、父は同意していなかった。
「私が子どものころ、父は辞めた理由を話しませんでした。私には、規則を曲げた人が責任を取った、とだけ」
ミレイスは指で異議申立ての末尾を押さえた。
「私はずっと、その人にならないようにしてきた。でも、父が守ろうとした規則は、書類を閉じるためのものじゃなかった」
エルドは何を言えばいいか迷った。
彼女がこれまで厳格だった理由を、分かった気になるのは早い。
「この申立てを、現在の件にも添付できますか」
「できます。父の判断を正しいと証明するためではありません。局長が『安全』と言うなら、誰の安全かを説明してもらうためにやりましょう」




