第13話 百年前と同じ報告書 [前編]
報告書の中で、英雄は三度、同じ間違いをした。
「鐘楼の時刻が七分進んでいた」
エルドはその一文を声に出した。
百四年前の第六次魔王討伐、六十七年前の第七次、二十八年前の第九次。
三つの報告書に、同じ文字がある。
「鐘楼が本当に進んでいた可能性は?」
ミレイスが机の向こうから聞いた。
「三回とも、七分だけ?」
「修理の下手な時計職人がいたのかもしれません」
「百年働いていますよ」
ミレイスは口元を少し上げた。
書庫に籠もって三日目。
二人とも、冗談を言う相手がほかにいなかった。
問題は、時計の誤差だけではない。
避難民が南門へ移動した時刻、残余魔力が安定した時刻、勇者の帰還報告に使われた言い回しまで一致する。
三件は違う国境で起き、指揮した勇者も別人なのに。
「雛形を使ったんでしょうか」
「なら、固有の時刻は残しません」
エルドは写しの端を指で押さえた。
文章が同じでも、筆跡は違う。
誰かが一冊の古い報告を写し、数字だけを変えたわけではない。
事実を書いていないとすれば、なぜ三回とも同じ嘘を選んだのか。
「原本が必要です」
ミレイスは頁の裏を透かした。
紙には水印がある。
三件とも、勇者庁の通常用紙だ。
エルドは三枚の写しを持ち、王都の時計工房へ行った。
報告書にある鐘楼は、王都の中心に今も立っている。
七分進んだことが三回あったかどうか、職人なら記録を残しているかもしれない。
工房の主人は、腕まくりのまま写しを読んだ。
「百四年前の鐘楼?」
「その日の時刻が必要です」
「待ってな。修理帳を見てくる」
主人は奥の棚から分厚い帳面を運んだ。
祖父から受け継いだものだという。
百四年前の頁には、鐘楼の文字がない。
そして六十七年前もない。
二十八年前に初めて、鐘楼の時刻調整が記録されていた。
「昔は別の時計屋が見ていたのでは?」
ミレイスが聞くと、主人は首を振った。
「時計そのものが、四十一年前に建ったんです。前は鐘しかなかった。時刻を七分進める仕掛けはない」
エルドは写しを見た。
百四年前の報告書には、確かに「鐘楼の時刻」とある。
鐘の回数を間違えたとは書いていない。
つまり、だ。
「新しい時代の文章を、古い報告に載せた」
ミレイスは職人に帳面の写しを頼んだ。
主人は快く応じたが、印を押す段で「何か問題でも?」と尋ねた。
「古い記録の確認です」
エルドはそれ以上言わなかった。
説明するには証拠が足りない。
工房の主人の一日は、時計を直すことで埋まっている。
監査局の疑いを丸ごと持たせる必要はなかった。
帰り道、二人は鐘楼の下を通った。
鉄の針は正しい時刻を指している。
人々はその下で待ち合わせ、露店で買い物をしていた。
誰も百年前の報告書のことを知らない。
「後から報告を書き換える理由は何でしょう」
エルドが聞くと、ミレイスは少し考えた。
「起きたことを、別の出来事に見せたい場合。あるいは、起きなかったことを起きたように見せたい場合」
「魔王討伐なら、どちらもありえます」
鐘楼の針が一目盛り進んだ。
エルドは手帳に時刻を書き留めた。
いつかこの日の記録を読む人がいるなら、時刻だけは正しくしておきたかった。
「原本保管の欄は、監査局地下」
エルドは椅子にもたれた。
封印書庫へ入るには局長の許可がいる。
イサークの事件で見つけた印と同じものが、歴代討伐記録にも押されていた。
そのとき、廊下で靴音が止まった。
扉が開く。
「働きすぎだな」
オルディス・クレイバー局長だった。
背筋の伸びた五十二歳の男。
監査官の制服が、彼には鎧のように見える。
昔は勇者だったと聞くが、剣を持つ姿を見た者は今の局にはいない。
「業務の範囲です」
ミレイスが立った。
エルドも続く。
「古い報告書を比べています」
「見れば分かる。なぜだ」
「近年の魔力異常と、討伐前の記録に似た傾向があるので」
オルディスは机の上の地図を見た。
谷、火山、湿地。赤い印が三つある。
「その三点だけで、百年前まで遡ったのか」
「三点だからです。別々の事件なら、同じ反応が続くのはおかしい」
局長はエルドの顔を見た。
「現場に危険があるなら、現場を調べろ」
「調べています。人を避難させるべき時期も知りたいんです」
局長は少しの間をもちつつも言う。
「書庫の原本には触れるな」
命令は短かった。
ミレイスが理由を聞こうとしたが、局長は続けた。
「封印の解除は、必要になれば私が判断する」
足音が遠ざかる。
扉が閉まってから、エルドは地図を見た。
局長は何を知っているのか。
知らないふりをする人の目ではないことは明らかだった。
*
翌日、エルドは討伐報告ではなく、古い村役場の避難記録を借りた。
現場の人が書いた紙なら、中央で使う雛形には合わせていないはずだ。
百四年前の山村では、魔王が現れる二か月前から井戸が温かくなっていた。
六十七年前の港では、漁網に小さな魔物がかかるようになった。
二十八年前の農村では、泥から光る粉が吹き、子どもが咳をしている。
地元の記録は、勇者の報告書より汚れていた。
井戸の頁には水の跡があり、港の帳面は塩で端が波打っている。
二十八年前の農村の紙には、途中で子どもの名前が書き足されていた。
咳が続き、学校を休んだ子たちだ。
「同じ家の子が二人います」
ミレイスが言った。
一人は三日で戻り、もう一人は二週間休んでいる。
医師の記録は別にあるはずだった。
エルドは農村の医療帳簿を取り寄せた。
古い封筒には、請求書の写しまで入っている。
治療に使った薬は、ノルタ村でリュカが買った薬と同じ系統だった。
二十八年前の医師は、病名の欄へ「魔王熱」と書きかけ、線で消して「地脈熱」に直している。
「病名を変えたんでしょうか」
「あの時代は、魔王という言葉がつくだけで患者が避けられたそうです」
ミレイスは注釈にある地方史を示した。
病名が変わった事情は推測できる。
ただ、症状が討伐の前に出ていた順番は変わらない。
エルドはノルタ村の男の子を思い浮かべた。
あの子が咳をした日付も診断書に残っている。
二人は汚れのついた頁を複写し、三つの地方へ返す借用書に前兆の頁番号を記した。
「ノルタ村と同じです」
エルドが記録を読むと、ミレイスは今の鑑識結果を並べた。
「魔王が現れてから魔物が増える、と教わりました」
「順番が逆かもしれません」
最初は地脈の変化。
次に魔物の増加。
最後に魔王の出現。
教本にある因果をひっくり返すと、前の三事件の見え方が変わる。
エルドは三つの村の記録から、異常の始まった日を表にした。
百四年前は討伐の六十二日前。
六十七年前は五十一日前。
二十八年前は四十七日前。
最初の魔物が報告されたのは、それぞれ遅れて十日から三週間後だ。
「地脈の方が先、は三件とも同じです」
ミレイスは数字を見て、別の問題を指した。
「昔の記録は欠けています。最初の異常を誰も記録していなければ、この日付は遅くなります」
「それでも、魔王より後にはならない」
「はい。ただ、三件だけで世界の仕組みを決めるのは早い」
残る六件は、戦後に村の名や街道が変わり、現場の記録を追えなかった。
ミレイスは税台帳を開く。
四件目の村では、魔王が現れる前に井戸の修理費が増えている。
理由はない。
そこから先は、別の帳面に残っていた。
「避難小屋の建設費です。三村で、討伐の二か月前に出ています」
エルドが示すと、ミレイスは日付を写した。
寺院の帳面には、その前の月から井戸の水を汲まない日が増え、飲み水を運ぶ馬車賃まで記されていた。
測量図では水位は下がっていない。
「水はあったのに、飲めなかった?」
「理由は書いていません」
エルドは原因の欄を空け、日付だけ表へ移した。
魔王出現より前に給水と避難の準備が始まっていたことは、消えない。
「全部が分からなくても、給水の準備を早められます」
「そのためには、今の井戸も調べないと」
ミレイスは王都の水路図を開いた。
過去を読むほど、今日の仕事が増える。
エルドは少し笑って、明日の巡回先を一つ書き足した。
「魔王が魔力を生むのではなく、魔力が増えすぎるから、受け止める何かが必要になる」
言ってから、エルドは喉が渇いた。
まだ仮説だ。
生きた証人もいない。
けれど、紙にある順番は変わらない。
ミレイスは窓を開けた。
書庫の空気は乾いている。
外では、役場の荷車が通りを曲がるところだった。
「その『何か』に、魔王という名前がつくなら」
「勇者の役目も、教わったのとは違う」
エルドは地図の赤い印を見た。
三点をつないだ先に、古い導水路がある。
王都へ流れ込む水の地下を地脈が通っていた。




