第12話 消えたS級勇者 [後編]
ディルクは窓を開ける。
薬草畑の向こうに、国境の山がある。
「勇者の仕事をしていると、向かう先は依頼札に書かれていた。死んだことになってから、初めて自分で次の村を選んだ。笑うだろうが、最初は道を間違えた」
エルドは笑わなかった。
勇者になれず監査官を選んだ自分の道も、きれいに選んだと言えるか分からなかったからだ。
「今も、勇者へ戻りたいとは思いませんか」
「日による。宿の少年が熱を出した時は、勇者の免許があれば薬を急ぎで運べると思う。別の日には、名前を隠したままの方が村で話を聞ける」
ディルクは小屋の戸口に吊るした古い札を見た。
薬草を売る日は、その札を道へ出すのだという。
裏に、別の字で「英雄祭」とある。
「去年、ここでも俺の追悼をやった。広場で子どもが教本を読んだ。俺が魔王の手先を一人で退けたって話だ」
「違うんですか」
「あの日、一番先に敵を見つけたのは荷車の御者だ。俺は剣を抜く前に転んだ」
エルドは教本の挿絵を思い出した。
転ぶ場面はない。
「訂正は?」
「式の途中で立ち上がって、俺は生きている、しかも転んだと言うのか」
ディルクは少し笑い、札を裏返した。
「その子は読み終わってから俺のところへ薬草を買いに来た。英雄なら一人で勝てると思っていた。俺は、一緒に走った御者の話だけしておいた」
「あなたの名前は出さずに」
「出さずに。向こうが俺を知らないことも、俺がここにいる理由の一つだ。都合がいいと思って選んだ。でも、時々その子の顔を見ると、教本を取り上げたくなる」
エルドは札の上の擦れた文字を見た。
英雄祭の翌日には、また薬草の値が書かれたのだろう。
「その子は、御者の話を信じましたか」
「最初はな。帰り際に『それでもディルクなら一人で勝った』と言った」
ディルクは笑っていなかった。
畑で毎日顔を合わせても、子どもの中にいる勇者は別の場所で生きている。
訂正するなら、自分が死んでいないことから話さなければならない。
エルドは不合格通知のことを考えた。
自分の名が書かれ、受け取って、引き出しへしまった紙だ。
ディルクの死亡届とは違い、間違いようのない自分の結果のはずだった。
なのに、あの紙を開くたび、訓練場の光より先に赤い印を思い出す。
通知を受け取った翌日、エルドは勇者学校の前を通らずに帰った。
その翌日も、遠回りをした。
監査局の採用試験を受けると決めたのは、その道の先に募集の札があったからだ。
仕事を覚えるうちに、遠回りは通勤路になった。
現場から届いた数字を疑えるようになったことも、書き直した記録で誰かの給金が戻ったことも、嘘ではない。
監査官になった日々を、赤い印と一緒に消したいとは思わなかった。
ただ、その紙に書かれた自分が違うかもしれないとは、一度も考えなかった。
エルドは膝の上で手を組み直し、ディルクの手にある札を見ていた。
「戻って、訂正するつもりは」
「ある。どの村の誰が困るか、先に確かめてからだ」
ディルクは裏返した札を棚へ戻した。
明日の薬草の値段が書かれた面が、今度は表に向いた。
ディルクは机の上の小箱を開けた。
各地で集めた地脈試料が、紙に包まれて入っており、年月と採取場所がきちんと書かれていた。
「監査官なら、この記録の欠けが見えるか」
エルドは試料を並べた。
北方の三か所で、採取日が飛んでいる。
どれも勇者庁の巡回区域だったのが少し気になる。
「調べに入れなかった?」
「違う。入った時には、先に掃除されていた」
ミレイスが包みの端を見た。
「別の人が採った跡があります」
「そう。俺だけが秘密を探しているんじゃない。隠す側も、ずっと現場を見ている」
エルドは小箱を閉じた。
オルディスが書庫を封印しながら、外の異常を知らないはずがない。
局長の沈黙には情報がある。
なら、その沈黙が守る人と危険にさらす人を、分けて考えなければならない。
「誰かを見つけたら、先にそいつが眠る場所を考えろ」
エルドは頷けなかった。
自分ならどうするか、まだ決められない。
*
宿へ戻ると、戸口の少年が眠っていた。
熱は下がったらしい。
宿の主人が小さな毛布を掛け、ディルクへ会釈した。
彼が運んできた薬が効いたという。
少年の足首には新しい包帯が巻かれていた。
ディルクは靴を脱いで、床に落ちた薬草の葉を拾う。
伝説の勇者の手が、戦いではなく小さな葉を集めている。
「治療院へ運ぶべきですか」
ミレイスが尋ねると、ディルクは少年の額を見た。
「今夜は眠らせてやれる。明日、熱が戻れば連れていく」
「必要な薬は足りますか」
「宿の分なら。隣の村からも要ると言われてる」
エルドは薬の袋を見た。
調合印はあるが、緊急輸送の札がない。
免許を失ったディルクには、ギルドの伝令を優先して使う権限がない。
別の勇者へ依頼すれば済むはずだが、彼がここにいると知られたくないため、遠回りして運んでいた。
「輸送の依頼を、監査局から出せます」
エルドが言うと、ディルクは眉を上げた。
「宿の薬を、死亡者のために運ぶのか」
「宿の患者のためです。医師が必要量を出し、宿の主人が受け取る。あなたの名義を使う必要はありません」
主人は話を聞き、すぐに隣村の医師へ伝言を書いた。
夜の伝令が動けるか確認する間、ディルクは椅子へ座り、少年が目を覚まさないか見ている。
「俺がいたことを隠すために、余計な仕事を増やしてるな」
「患者さんの名前を、記録から消すよりはましです」
エルドが答えると、ディルクは苦笑した。
彼自身の名前は守られてきた。
けれど、それによって使えなくなった手続きもある。
完全な秘密は、本人にとっても便利とは限らない。
ミレイスは保護付きの登録を調べた。
公示欄には住所を載せず、限られた医療輸送だけ本人確認できる手続きがある。
ディルクの死亡登録を改めるには時間がかかるが、暫定的な支援者登録なら今夜申請できた。
「これなら、宿の仕事を続けながら伝令を使えます」
「名前は誰まで届く」
「ギルドの登録担当と、調査権限のある監査官です。一般の依頼札には出ません」
ディルクは書類を受け取った。
「七年前に、こういう欄はあったか」
「ありました。ただ、対象が限られていて」
「俺は探さなかった」
彼はそこで黙った。
制度の秘密を調べる旅を続けながら、自分を助ける小さな欄は読んでいなかった。
エルドはその気持ちが少し分かった。
自分も勇者の資格を失ったと思ってから、ずっと別の道を探すことだけで手一杯だった。
少年が寝返りを打った。
ディルクは書類を端へ置き、毛布を肩まで掛け直す。
その手つきは、剣を握っていた頃より上手なのかもしれない。
「死亡者への支払いは、訂正が必要です」
ミレイスが言った。
ディルクは笑った。
「そう来ると思った」
「ですが、失踪の事情を理由に、住所の公開は猶予申請できます」
エルドが補う。
ディルクは二人を見比べた。
「監査官も、いろいろいるな」
出発のとき、ディルクはエルドに教本の一ページを渡した。
余白に、九度の討伐年が手書きで書かれている。
どれも戦いのあと、決まって数年だけ魔物の発生が減っていた。
「記録を探せ。俺の言葉より、そっちを信じろ」
「どこで」
「百年前の報告書から始めろ。同じ文章がある」
エルドは紙を受け取った。
ディルクは畑へ戻り、曲がった畝にまた鍬を入れた。
勇者の石碑に刻まれた名前と、泥のついた背中が、エルドの中でなかなか重ならなかった。
帰りの馬車で、ミレイスは問わなかった。
――十人目は誰か。
エルドも口にしなかった。
窓の外を流れる山道で、飛び立った鳥の群れが一度だけ進路を変えた。
紙の余白には、百年前の討伐年の横に小さく印がある。
『第六次移行の前兆』
討伐と教わった出来事に、別の分類が付いていた。




