第11話 消えたS級勇者 [前編]
死人は、宿代を払わない。
少なくともギルドの会計ではそういう扱いだった。
だから、七年前に失踪し、のちに死亡登録されたディルク・ヴァレンツへ宿泊費が支払われている記録は、普通ならありえない。
「失踪から三年目に一泊、五年目に二泊。先月も同じ宿です」
エルドが伝票を並べると、ミレイスは支払先の住所を読んだ。
「国境の宿。医療隊の中継所でもあります」
「名前を借りた別人かもしれません」
「そうなら、本人確認の記録が残ります」
七年前、ディルクは北方の魔物調査から戻らなかった。
遺体は見つからず、装備だけが川から発見された。
勇者庁は二年後に死亡登録した。
王都の広場には、彼の名を刻んだ石碑がある。
エルドは学生の頃、石碑の前で父に聞いたことがある。
こんなに強い勇者でも死ぬのか、と。
父は「強いから一人で行ったんだろう」と答えた。
今思えば、それは答えではなかった。
「出張申請は、通りますか」
「死亡者への不正支出調査なら」
ミレイスは申請用紙を引き寄せた。
局長の名前を出さずに行ける理由が、ちょうど見つかった。
*
宿へ着いたのは昼過ぎだった。
途中の村では、魔物が増えたという噂を何度も聞いた。
馬車の御者は街道の関所で長く止まり、護衛札を二枚買い足した。
エルドは支払った額を記録しておいた。
死亡登録された勇者への宿代を追う道中に、自分たちの護衛費が増えるのは妙な気分だった。
国境の宿には、勇者より先に患者がいた。
戸口の長椅子に脚を抱えた少年が座り、年配の女性が熱い湯を飲ませている。
部屋の奥から薬草を刻む音が聞こえた。
少年は足首に布を巻いていた。
エルドたちが入ると、片脚を引いて奥へ移ろうとする。
「動かない方がいい」
ミレイスが言った。
少年は「平気」と返したが、額には汗が浮いている。
年配の女性が椅子を引き、座らせた。
「また熱が出たの」
「出てない。ちょっと暑いだけ」
エルドは外套を脱いだ。
室内は涼しい。
少年は誰にも見られたくないように足を隠した。
宿の主人は、薬草を探しに行った人が戻れば診てもらえると言った。
「その人が、伝票の」
エルドが伝票を見せて聞く。
主人は書類を見たあと、声を落とした。
「ここでは、名前より畑の仕事で呼んでる。本人が古い名前を使っているなら、何か考えがあるんだろう」
宿の壁には近隣の村の地図が貼られ、薬が足りない村に丸がついていた。
ディルクの宿代は月に数回、荷運びの夜だけだった。
勇者の報酬を受け取るための仕組みではない。
むしろ、自分の居場所をたどれる印だけを残している。
「見つけてほしいのか、見つかりたくないのか」
ミレイスが小声で言った。
「相手を選んでいるのかもしれません」
エルドは伝票を鞄へ戻した。
死亡登録を改めるとしても、この宿の住所が公の名簿に出れば、少年たちのいる場所へ人が押し寄せる。
前の事件で氏名公開を避けたばかりだった。
手続きの出口を先に調べてから本人へ聞くことにした。
宿の主人が畑の方を指した。
「その人なら、今朝、裏の畑へ行きましたよ」
「顔を知っているんですか」
「背中は覚えています。昔、ここから逃げた時と同じだから」
主人は意味深な顔をしたが、それ以上は教えなかった。
畑へ行く道だけ示した。
ディルク・ヴァレンツは、鍬を持っていた。
伝説のS級勇者は、泥のついた靴で薬草畑の畝を直している。
髪は昔の肖像画より短く、頬に傷が増えていた。それでも、剣を抜く前に相手の足元を見る目は絵に残ったものと同じだった。
「監査局から来ました」
エルドが名乗ると、ディルクは鍬を地面に刺した。
「宿代のことか」
「はい。死亡登録の勇者へ支払いが続いています」
「死んだことになってる人間は、物が食えないらしいな」
「払うなら、別の名義があります」
「それじゃ、足跡が消える」
ディルクは土を払った。
エルドには、見つかるために伝票を残していたように聞こえた。
「私たちを待っていましたか」
「誰かが来るのをな」
ミレイスが鞄から封印印の写しを出すと、ディルクの顔が少し変わった。
「ハルトナーの娘か」
「父をご存じですか」
「石を確かめるのをやめなかった男だ」
ミレイスは続きを求めなかった。
ディルクもそこでやめた。
三人は畑を離れ、宿の裏にある小屋へ入った。
壁には各地の地図が張られ、色の違う糸が地脈を結んでいる。
エルドが監査局の机で引いた線よりずっと長い。
「最近の谷と火山と湿地、ここですね」
エルドが指した三点に、ディルクは赤い針を刺してあった。
「見てる奴がいたか。遅いくらいだ」
「何が起きていますか」
ディルクは答えず、地図の中央へ手を伸ばした。
糸は王都の外側で交わり、そこから北へ消えている。
「魔物の数が増え始める。地脈の余りが、出口を探すからだ」
「出口とは」
「お前らは、勇者学校で何を習った」
エルドが答える前に、ディルクは棚から古い教本を取った。
魔王出現、勇者選定、討伐。
図は分かりやすい。
敵が現れ、英雄が倒す。
それで平和が戻る。
「この図の、討伐の後は?」
「復興です」
「違う。力はどこへ行く」
ミレイスが教本を見た。
「魔王の魔力は、討伐とともに散ると」
「散っただけなら、また溜まる」
ディルクは指で教本の頁を閉じた。
「魔王は何度倒された?」
「歴史上、九回です」
「なら、なぜ十人目がいる?」
小屋の外を風が通った。
エルドは意味を取り損ねた。
「次の魔王が現れる予定だからでは」
「もういる。そいつは、何年も生きている」
ミレイスが一歩前に出た。
「誰です」
「知らない方がいい時もある」
「私たちは、調べるために来ました」
「知ったら、王都で名を呼ぶか。候補に挙げられた人間が、その日からどう生きるか考えたか」
問い返され、ミレイスは口を閉じた。
エルドは机の端にあった小さな紙片に気づいた。
日付だけが十年分並び、間隔が少しずつ短くなっている。
魔力異常の発生日だろうか。
「真実を知ることが、正義だと思うな」
ディルクはエルドに言った。
「昔の俺は、そう思っていた。名を公表すれば誰かが助けてくれると。実際は、人が集まった。助ける者もいたが、取り合う者の方が多かった」
彼は指を傷のある頬に当てた。
「あの時、あなたが名前を公表したんですか」
エルドは聞いた。
ディルクはすぐに頷かなかった。
「直接ではない。勇者庁へだけ提出した。守るためには、内部へ知らせるべきだと思った」
「そこから漏れた」
「そうだ。俺は提出した紙の端まで確認したつもりだった。誰が複写し、誰に見せるかまでは見ていなかった」
ミレイスが地図から目を離した。
「制度を離れた理由は、その事件ですか」
「半分だ。残りは、自分で歩ける道を見たくなった」
ディルクは棚から小さな革紐を取った。
勇者の肩章に使うものらしく、片側だけ焼けている。
「七年前、北方で保護していた候補者の名が漏れた。俺が勇者庁へ出した報告からだ。保護先を移すには、追ってくる連中の目を別へ向ける必要があった」
「それで、あなたが川へ」
「装備だけ流した。俺は山の道を使った」
エルドは王都の石碑を思い出した。
人々は遺体がないまま、ディルクが死んだと信じた。
「死亡登録は二年後です」
「オルディスが待った。生きていると公にして守る方法を、その間探したんだろう。俺も探した。でも、追手は石碑が建つまで消えなかった」
ミレイスは肩章の革紐を見た。
「登録に、あなたは同意しましたか」
「手紙を出した。死んだことにすれば動きやすいと思った」
ディルクは革紐を戻した。
「間違いではないとも言えない。俺がここで薬を運ぶたび、死人の名前で宿代が動く。困る人がいる。だから伝票を残した」
「見つけてもらうために?」
「見つけた相手が、そこまで読むか試した」
エルドは腹が立った。
監査局の新人を試すために、会計の誤りを何年も放置したのか。
しかしディルクの顔には、遊んでいる様子がない。
「僕は宿代の訂正から始めます。そのあとで、あなたの記録も」
「構わん。どこまで公開するかは、俺に聞け」
「はい」
返事をしてから、エルドは自分が初めて会ったときより遠慮せず話していることに気づいた。
ディルクは伝説の人ではなく、選択を間違え、訂正の面倒も抱えた人間だった。




