第八話 見えない綻び
翌朝。
リゼは窓から差し込む朝日で目を覚ました。
身支度を整え、フィリアの部屋へ向かう。
扉をノックすると、中から小さな返事が聞こえた。
「おはようございます、フィリア様」
「お、おはようございます……」
まだ少し眠そうだ。
リゼはカーテンを開ける。
柔らかな朝日が部屋へ差し込んだ。
その後は着替えの手伝い。
髪を整え、朝食へ向かう。
その間もリゼは観察していた。
ドレスは丁寧に手入れされている。
だが新品ではない。
袖口には目立たない補修跡もあった。
公爵家にしては装身具の数も少ないように見える。
なるほど。
公爵家の財政状況は、思った以上に厳しいらしい。
朝食を終えた後。
フィリアが立ち上がる。
「今日はお屋敷を案内するんでしたね」
「ありがとうございます」
リゼは頷いた。
だがその前にーー
「その前に、ご挨拶をしておきたい方がいます」
「え?」
「公爵様と奥様です」
フィリアは一瞬目を丸くした。
「あ……そうでした」
少しだけ申し訳なさそうに笑う。
そして二人は屋敷の奥へ向かった。
◇◇◇
屋敷の奥。
人通りも少なくなってきた頃。
フィリアの足取りが少しだけ遅くなった。
リゼはその様子に気付いていたが、
何も言わなかった。
やがて二人は一枚の扉の前で立ち止まる。
重厚な木製の扉。
フィリアは少しだけ俯く。
そして小さく息を吸った。
「ここです」
コンコンとノックする。
「フィリアです」
「お父様に挨拶しにきました」
中から使用人が現れた。
その使用人は目を丸くした。
「フィリア様……?」
その声に、奥にいた別の使用人たちも振り返った。
「フィリア様だ」
「お久しぶりですね」
「最近はお見えになられていなかったので……」
どこか嬉しそうな声だった。
フィリアは少し困ったように笑う。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
リゼはその様子を静かに見ていた。
なるほど。
長らく公爵様にはお会いしていなかったらしい。
フィリアの表情を見る限り、理由は何となく想像できる。
そして、部屋の中へ招かれた。
静かな空気。
規則正しい呼吸音。
大きなベッド。
そこで眠る男性。
穏やかな顔。
呼吸も安定している。
まるで眠っているだけに見えた。
「お父様のアルヴェイン公爵様です」
フィリアが小さな声で言った。
リゼは静かに頭を下げる。
そして部屋を見回した。
本棚。
机。
山積みの資料。
魔法陣らしき図面。
なるほど。
本当に研究者だったらしい。
「お父様は本が大好きだったんです」
フィリアが少し寂しそうに笑う。
「世界中から貴重な本を集めていました」
リゼは頷いた。
それは部屋を見れば分かる。
ここにある本は飾りではない。
実際に読まれていた本だ。
「公爵様は、どのような研究を?」
「詳しくは分かりません」
フィリアは首を振った。
「私には難しくて」
リゼは静かに本棚へ視線を向けた。
棚を埋め尽くすほどの本。
机の上には積み上げられた資料。
開かれたままのノート。
書き込みの入った魔法書。
どれだけの時間を費やしたのだろうか。
見たところ、魔法に関する本が多い。
魔法理論か。
あるいは別の何かか。
詳しい内容までは分からない。
だが、一つだけ分かることがあった。
この量の資料を読み込み、理解し、自分の研究へ落とし込む。
それは並大抵のことではない。
王国屈指の魔法使い。
その評判は決して誇張ではなかったのだろう。
リゼは再び眠る公爵へ視線を向けた。
穏やかな寝顔だった。
まるで少し疲れて眠っているだけのようにも見える。
そんな人物が、なぜ昏睡状態になったのか。
何を研究していたのか。
そして。
何を見つけようとしていたのか。
少しだけ気になった。
◇◇◇
次に案内されたのは公爵夫人の部屋だった。
「ここがお母様のお部屋です」
案内されたのは、
屋敷の中でもひときわ華やかな部屋だった。
壁の装飾。
絨毯。
調度品。
使われている木材や布地も質が良い。
屋敷の他の場所と比べても、維持に手間と費用がかかっていることが分かる。
ドアにノックをすると、
中から使用人が現れた。
一瞬、フィリアの姿を見て目を見開く。
しかしすぐに、平然とした表情に戻り、
フィリアたちを中に案内した。
「どうぞ」
「奥様はバルコニーにいらっしゃいます」
軽くお辞儀をして中に入る。
「フィリアさん、いらっしゃい」
夫人は優雅に微笑みながら二人を迎えた。
「あなたが新しい専属メイドですね」
「公爵夫人のディオナ・アルヴェインです」
「リゼ・ルヴェリアと申します。公爵夫人にご挨拶申し上げます」
リゼは、公爵夫人に対し至高の敬意を表した。
「これから、フィリアさんをよろしくお願いしますね」
夫人は柔らかな声で言う。
フィリアにも優しく接している。
少なくとも表面上は。
だが。
リゼは違和感を覚えた。
公爵の部屋の前にも。
夫人の周囲にも。
使用人が多い。
屋敷全体は人手不足に見えるのに。
それに、この部屋の装飾品や家具もそうだ。
維持には相応の費用がかかるはずである。
なるほど。
屋敷全体と、この部屋。
少しバランスが悪い。
リゼはその違和感だけを頭の片隅に記録した。
◇◇◇
公爵夫人に挨拶をした後、部屋を出る。
廊下を歩きながら、リゼはふとフィリアへ視線を向けた。
「フィリア様」
「はい?」
「奥様とは、あまりお話をされないのですか?」
フィリアの足が少しだけ止まった。
「え……?」
一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべる。
だが、すぐに首を横へ振った。
「そんなことはありません」
「お母様はお忙しいですし」
「私も社交界デビューの準備がありますので」
少し考えるように言葉を続ける。
「以前ほど一緒に過ごす時間はありませんが……」
「特に仲が悪いというわけではないです」
なるほど。
リゼは頷いた。
仲が悪いわけではない……か。
リゼはそれ以上は聞かなかった。
フィリアの表情を見る限り、嘘を言っているようにも見えない。
ただ。
少しだけ寂しそうに見えた。
「そうですか」
リゼはそれだけ答えて、再び歩き始めた。
◇◇◇
その後。
屋敷の案内が始まった。
応接室。
客間。
厨房。
庭園。
倉庫。
洗濯場。
リゼは歩きながら周囲を観察する。
厨房では料理人たちが忙しく動いていた。
だが。
やはり、この規模の調理場に対して人が足りていない。
一人で何役もこなしている者も多く、効率が悪そうだ。
そして、この厨房の配置。
動線も良くない。
食材を取りに行く者。
調味料を探す者。
洗い場へ向かう者。
同じ場所を何度も行き来している。
少し配置を変えるだけでも、かなり改善できそうだ。
そんなことを考えながら周囲を見ていると、一人だけ周囲を見ながら指示を出している男性がいた。
料理長だろうか。
「どうしました?」
フィリアが尋ねた。
「あの方がこの厨房の責任者ですか?」
少し小太りの大柄な男性。
フィリアも視線を向ける。
「そうです」
「あの方が料理長のヴァンさんです」
リゼはしばらくその姿を観察した。
手際が良い。
周囲もよく見えている。
指示も的確だ。
誰が今何をしているのか。
どこが遅れているのか。
把握できている。
彼がいなければ、この厨房は回らないだろう。
フィリアが少し懐かしそうに言った。
「ヴァンさんは先代のお祖父様の頃からお世話になっている方なんです」
「彼の料理はどれも絶品で、美味しいと評判でした」
だが、その後少し表情を曇らせる。
「最近は上質な食材もなかなか仕入れられなくて……」
「腕を振るう機会が減ったと、他の使用人たちに話していたそうです」
そして。
「それに、お年もお年なので」
「引退したいと思っているという話も聞きます」
「なるほど」
リゼは頷く。
「新しい人を探してはいるのですが……」
「なかなか見つからなくて」
フィリアは少し困ったように笑った。
その時だった。
「では、彼を弟子にされては?」
「え?」
フィリアが目を瞬く。
リゼが見ていたのはヴァンではなかった。
厨房の隅。
黙々と野菜の皮を剥いている少年だった。
「彼ですか?」
「はい」
リゼはしばらく少年を見つめる。
少年の手は止まらない。
だが視線だけは周囲を見ていた。
料理人が食材を切らしそうになる。
その前に次の籠を運ぶ。
別の料理人が道具を探し始める。
その前に必要な包丁をそっと置いている。
誰かに指示されたわけではない。
自分で考えて動いている。
なるほど。
「彼は見込みがありそうです」
「見込み……?」
フィリアは首を傾げた。
「周囲をよく見ています」
「行動の先読みもできていますね」
「料理そのものより、人の動きを見るのが得意なのでしょう」
「弟子として育てれば、料理長の補佐くらいなら十分できると思います」
フィリアはぽかんとしていた。
そんなところを見たことがなかった。
料理長の代わりは料理長にしかできない。
そう思っていたからだ。
「探しても見つからないなら」
リゼは当然のように言う。
「育てればいいんです」
フィリアは思わず言葉を失った。
そんな発想はなかった。
才能のある人を探す。
それが当たり前だと思っていた。
けれどリゼは違う。
最初からできる人を探しているのではない。
できるようになる人を見ているのだ。
「リゼは……」
フィリアが小さく呟く。
「不思議な見方をするんですね」
リゼは首を傾げた。
「そうでしょうか?」
本気で分かっていないらしい。
フィリアは思わず苦笑した。




