第二十話 炎と王太子
会場のざわめきは、
しばらく収まらなかった。
赤いワインは何事もなかったかのように
グラスの中へ戻っている。
それを見たマリアンヌは、
顔を真っ赤にして震えていた。
「な、何なのよ……」
誰も返事をしない。
周囲の視線が、
自分に集まっていることに気付いたのだろう。
マリアンヌは唇を噛むと、勢いよく踵を返した。
「失礼いたしますわ!」
そう言い残し、人混みの中へ消えていく。
残されたフィリアは、しばらく呆然としていた。
だが、次の瞬間。
周囲の貴族たちが一斉に近付いてくる。
「今のは何だったのですか?」
「魔法ですか?」
「アルヴェイン家の魔法なのですか?」
「お嬢様がなさったのですか?」
「それともそちらのメイドが?」
次々と質問が飛んでくる。
フィリアは完全に固まった。
「え、ええと……」
視線が泳ぐ。
助けを求めるようにリゼを見る。
だが。
リゼは何事もなかったように立っていた。
さらに、そっぽを向いて知らん顔だった。
「リ、リゼ……?」
「はい」
「えっと……」
「説明が必要でしょうか?」
「必要だと思います……」
フィリアは泣きそうな表情で小さな声で言った。
「はぁ…」
リゼが小さくため息をついた。
その時だった。
「ふん」
冷たい声が響く。
人垣の奥から一人の少年が現れた。
年齢はフィリアより、少し上だろうか。
整った顔立ち。
高価な衣服。
自信に満ちた目。
少年はフィリアを見下すように笑った。
「落ちぶれた公爵家が、随分と目立つ真似をするんだな」
周囲が静まり返る。
フィリアの表情が少し強張った。
少年は続ける。
「ローゼン伯爵家のエリオット・ローゼンだ」
「エリオット様……」
誰かが小さく呟く。
「将来は宮廷魔術師になると噂の……」
「若くして火魔法を扱える天才だとか」
そんな声が周囲から聞こえた。
エリオットは得意げに口元を上げる。
「アルヴェイン家の令嬢は、魔法が使えないと聞いていたが?」
フィリアは言葉に詰まった。
その噂は知っている。
何度も耳にしてきた言葉だった。
「公爵家の名を背負っているのに、基礎魔法も使えないとは情け無い」
少年の声に嘲りが混じる。
「そんな家が、今さら社交界に出てきて何をするつもりだ?」
フィリアは拳を握った。
言い返したい。
けれど言葉が見つからない。
その時。
エリオットが片手を上げた。
「見せてやろう」
彼の手のひらに赤い光が集まる。
熱が揺らめく。
やがて小さな炎の球が生まれた。
「ファイアーボールだ」
炎は掌の上で揺れながらも形を保っている。
周囲から感嘆の声が上がった。
「おお……」
「素晴らしい」
「さすがローゼン家のご子息」
「将来の宮廷魔術師と呼ばれるだけはある」
エリオットは満足そうに笑った。
「これが魔法だ」
「分かったか?」
フィリアは炎を見つめる。
綺麗だと思った。
同時に。
胸が少し苦しくなる。
自分にはできない。
ずっとそう思ってきた。
その時だった。
「質問してもよろしいでしょうか」
静かな声が響いた。
リゼだった。
エリオットが眉をひそめる。
「何だ、お前」
「フィリア様の専属メイドです」
「そんなことは分かっている」
リゼは気にせず、炎を見つめる。
「メイドごときが、しゃしゃり出るところではない」
「少し気になりまして」
「その火球は、どのように形を維持しているのですか?」
「…は?」
「火を発生させた後、球状を保つために周囲の空気を押し込んでいるのですか?」
「……何を言っている?」
「それとも魔力で外殻を作っているのでしょうか」
周囲がざわつく。
エリオットの顔が引きつった。
「温度はどの程度で維持していますか?」
「燃焼の中心核はどこですか?」
「この炎の持続時間は?」
「回転は加えているのでしょうか?」
「圧縮率は何%でしょう」
「お、お前……」
エリオットは苛立ったように声を荒げる。
「魔法も知らないメイド風情が、分かったようなことを言うな!」
「知りません」
リゼは即答した。
「だから、質問しているのです」
会場が静まり返る。
フィリアは額に手を当てたくなった。
だが、リゼは本気だった。
本気で知りたいだけなのだ。
エリオットは顔を真っ赤にする。
「なら、お前がやってみろ!」
「分かりました」
即答だった。
「え?」
エリオットが固まる。
リゼは先ほどの炎を思い出すように手を上げた。
「火を生むというより、熱を一点に集める」
小さく呟く。
「形は球状」
「外側をマナで薄く包む」
「中心の温度を維持」
「空気の流れを乱さない」
掌の上に、小さな赤い光が灯る。
周囲が息を呑んだ。
次の瞬間。
炎の球が生まれた。
エリオットのものより小さい。
けれど形は安定していた。
ふわりと揺れながら、リゼの掌の上で静かに燃えている。
「……あ、できました」
リゼが淡々と言う。
会場が一瞬で騒然となった。
「嘘だろう……」
「今、初めて見たのでは?」
「あのメイドは何者だ?」
エリオットは絶句していた。
「ば、馬鹿な……」
リゼは炎を消すと、フィリアへ向き直る。
「フィリア様」
「はい!?」
フィリアの声が裏返る。
「やってみてはいかがでしょう」
「えええっ!?」
会場の視線が一斉にフィリアへ向く。
フィリアは慌てて首を振った。
「む、無理です!」
「無理ではありません」
リゼは静かに言った。
「先ほどの説明通りです」
「説明通りと言われましても……!」
リゼは一歩近付く。
そしてフィリアの耳元で小さく囁いた。
「火を作ろうとしないでください」
「え?」
「温かい空気を集めるように」
「中心を決めて、そこから逃げないように包みます」
「包む……」
「はい」
リゼの声は落ち着いていた。
「フィリア様は、細かな調整が得意です」
「勢いではなく、形を整える方が向いています」
その言葉に、フィリアは少しだけ目を見開いた。
向いている。
そう言われたのは初めてだった。
フィリアは震える手を前に出す。
心臓がうるさい。
会場中が見ている。
怖い。
けれど。
今は一人ではない。
リゼがいる。
皆で作ったドレスがある。
髪には、あの頭飾りがある。
フィリアは小さく息を吸った。
温かい空気を集める。
中心を決める。
逃げないようにマナで包む。
掌の上に、小さな光が灯った。
「……っ」
消えそうになる。
だがフィリアは集中した。
逃げないように。
形を整えるように。
光が少しずつ赤くなる。
やがて。
小さな炎の球が生まれた。
それは、とても小さかった。
けれど確かに。
フィリアの掌の上で燃えていた。
「……できた……」
小さな声だった。
自分でも信じられない。
フィリアは目を見開く。
「できました……」
会場が静まり返る。
そして、次の瞬間。
ざわめきが爆発した。
「魔法が使えないのではなかったのか?」
「アルヴェイン家の令嬢が……」
「今のは確かにファイアーボールだ」
エリオットは真っ青になっていた。
「嘘だ……」
「魔法が使えないはずだろう……」
彼は唇を噛む。
この社交界でアルヴェイン家の評判を落とし、自分の名を上げる。
そのつもりだった。
だが。
結果は逆だった。
フィリアはまだ掌の上の炎を見つめていた。
小さな火。
それは誰かに見せつけるためのものではなかった。
初めて自分で掴んだ、小さな自信だった。
その時。
パン。
乾いた音が響いた。
パン。
もう一度。
会場が静まり返る。
人々が一斉に振り返った。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
月光を閉じ込めたような白銀の髪。
紫水晶を思わせる瞳。
穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その表情からは何を考えているのか読み取れなかった。
「面白いものを見せてもらった」
その声に、周囲の貴族たちが一斉に頭を下げる。
フィリアも慌てて膝を折った。
「お、王太子殿下……」
リゼは青年を見る。
気持ちが読めない。
笑顔だが、何を考えているのか分からない。
今まで会った誰よりも。
王太子はゆっくりとフィリアへ視線を向けた。
「フィリア・アルヴェイン」
「は、はい」
「報告では、君は魔法が使えないと聞いていた」
フィリアの肩が小さく揺れる。
王太子は微笑む。
「だが、今目の前で起きたことを、どう説明すればいい?」
「そ、それは……」
フィリアは言葉に詰まる。
王太子は今度はリゼを見る。
「そして、そちらのメイド」
リゼは静かに頭を下げる。
「リゼと申します。王太子殿下」
「リゼか」
王太子は少しだけ目を細めた。
「覚えておこう」
その言葉に、会場がざわつく。
王太子は気にした様子もなく、
フィリアへ手を差し出した。
「今日は、社交界デビューの日なのだろう?」
「え?…はい」
「私と一曲、踊っていただけるかな」
一瞬。
会場が凍り付いた。
次の瞬間。
令嬢たちの悲鳴に近い声が上がる。
「殿下の初めの一曲を……?」
「アルヴェイン家の令嬢に?」
フィリアは目を回しそうになった。
「え、あ、わ、私がですか?」
「他にフィリア・アルヴェインがいるなら、その者でも構わないが」
王太子は軽く笑う。
フィリアは慌てて首を振った。
「い、いえ!」
「光栄です!」
「よ、よろしくお願いいたします!」
フィリアが王太子の手を取る。
すると、自然に音楽が始まった。
◇◇◇
踊りながら、フィリアの頭は真っ白だった。
足を間違えないように。
姿勢を崩さないように。
半年前から繰り返した練習を思い出す。
王太子の動きは滑らかだった。
自然に導かれ、フィリアは何とか足を動かす。
「緊張している?」
「し、しています」
「正直だね」
王太子は小さく笑った。
それから少しだけ声を落とす。
「アルヴェイン公爵は、今も目覚めないのか」
フィリアの表情が少し変わる。
「……は、はい……」
「今も眠ったままです」
「……そうか」
王太子は遠くを見るような目をした。
「彼の件は、少し引っかかっている」
「え?」
「いや」
王太子は微笑む。
「今は君の社交界デビューだ。難しい話はやめておこう」
フィリアは何も言えなかった。
だが。
その言葉は胸に残った。
父のこと。
倒れた理由。
そして。
何かがおかしいという違和感。
曲が終わる。
フィリアは丁寧にカーテシーをする。
王太子は満足そうに頷いた。
「見事だった」
「ありがとう、フィリア・アルヴェイン」
フィリアは頬を赤くした。
「こ、こちらこそ、ありがとうございました」
◇◇◇
帰りの馬車。
窓の外には夜の街が流れていた。
フィリアはぼんやりと外を見つめる。
今日の出来事が頭の中を巡っていた。
ドレス。
ワイン。
ファイアーボール。
王太子。
そして父の話。
あまりにも多くのことが起こりすぎた。
「リゼ」
「はい」
「今日は……ありがとうございました」
リゼは少しだけ顔を上げる。
膝の上には本が開かれていた。
いつの間にか読んでいたらしい。
「仕事ですので」
いつもの返事。
フィリアは小さく笑った。
だがリゼは少しだけ間を置き、続けた。
「ですが」
フィリアが顔を上げる。
「フィリア様は、よく頑張りました」
その言葉に。
フィリアは目を見開いた。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
「はい」
窓の外では、王都の灯りが遠ざかっていく。
不安だった社交界デビューは終わった。
けれど。
これは終わりではない。
アルヴェイン家を取り巻く噂。
父の昏睡。
王太子の言葉。
そして、
リゼという不思議なメイド。
新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
第1巻完結です。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
リゼとフィリアの物語は、まだまだ続いていきます。
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第2巻も頑張って執筆していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。




