第十九話 社交界デビュー
フィリアの誕生日会から三ヶ月後。
その日は朝から屋敷中が慌ただしかった。
使用人たちが行き交い。
馬車の準備が進み。
玄関ホールには緊張した空気が漂っている。
今日はフィリアの、社交界デビューの日だった。
◇◇◇
フィリアの部屋。
鏡の前に座るフィリアは、落ち着かない様子で何度も手を握ったり開いたりしていた。
「緊張していますか?」
後ろからリゼの声がする。
「していません」
即答だった。
そして、数秒後。
「す、少しだけ……」
小さく付け加える。
リゼは静かに頷いた。
「それを緊張と言います」
「分かっています」
フィリアはむすっとした。
◇◇◇
やがて扉が開く。
アンナ。
裁縫室の女性たち。
数人の使用人が部屋へ入ってきた。
「それではお支度を始めましょう」
「は、はい!よろしくお願いします!」
フィリアは勢いよく立ち上がる。
ーーそして。
あの日完成したドレスが運ばれてきた。
誕生日の日。
皆で贈ってくれた特別なドレス。
使用人たちが丁寧に着付けを行う。
スカートを整え。
リボンを結び。
刺繍を確認する。
最後に。
リゼが小さな箱を開いた。
「フィリア様」
「はい」
「こちらを」
白に少し青みがかった大きな羽。
そして、星のように散りばめられた青い宝石。
あの日贈られた髪飾りだった。
そっと髪へ飾る。
鏡の中のフィリアを見て。
誰もが息を呑んだ。
「お綺麗です……」
小さな呟き。
そんな中、1人の使用人が泣き始めた。
「フィリア様……ご立派になられて……」
「公爵様も今のお姿を見られたら、お喜びになられたでしょう」
フィリアの目にもうっすらと涙が。
だが、グッと堪えた。
「皆さんが準備をしてくださったおかげです」
「本当にありがとうございます」
わぁっと歓声が上がり、
フィリアは皆に見送られながら、馬車へ向かった。
◇◇◇
馬車の中。
窓の外の景色が流れていく。
フィリアは膝の上で手を握っていた。
緊張している。
分かっていた。
社交界。
貴族たち。
視線。
評価。
すべてが怖い。
「リゼ」
「はい」
「皆様は本当に大丈夫だと思っているのでしょうか」
小さな声だった。
リゼは少し考えた。
そして答える。
「思っています」
「なぜですか?」
「皆さんが一年かけて準備しましたので」
フィリアは目を瞬く。
「一年……」
「はい」
リゼは当然のように言う。
「皆さん本気でした」
「フィリア様も、努力されたではありませんか」
「そ、そうですよね」
フィリアは窓の外へ視線を向けた。
少しだけ胸が温かくなる。
◇◇◇
社交界の会場である王宮に到着する。
巨大なシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
豪華な装飾。
数え切れないほどの貴族たち。
会場までの長い階段を、一歩また一歩と歩く。
そして、
会場へと続く扉の前に立った。
「ふぅ」
フィリアは小さく深呼吸をした。
「フィリア様、よろしいですか?」
「…はい。お願いします」
リゼが静かに一礼する。
重厚な扉がゆっくりと開かれた。
そして、会場に入った瞬間。
周囲の視線がフィリアに集まった。
「アルヴェイン公爵令嬢よ」
「よく来られたな」
「公爵は倒れたままだろう?」
小さな囁き声。
フィリアの肩が少しだけ強張る。
だが。
まっすぐ前を見つめ、俯かなかった。
◇◇◇
やがて。
名前が呼ばれる。
「アルヴェイン公爵家ご令嬢、フィリア・アルヴェイン様のご到着です」
静まり返る会場。
フィリアはゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。階段を降りていく。
半年間練習した歩き方。
頭の上に本を乗せて繰り返した訓練。
自然と背筋が伸びる。
会場の中央へ進む。
リゼもその後ろに控えていた。
その時だった。
ざわめきが起きる。
「綺麗だ……」
誰かが呟いた。
「あれがアルヴェイン家のご令嬢?」
「噂とは全然違うな」
「なんて美しいドレスだ」
次々と声が上がる。
フィリアは驚いた。
馬鹿にされると思っていた。
笑われると思っていた。
だが違う。
皆が見ている。
驚いたような顔で。
◇◇◇
ーーしばらくして。
フィリアに一人の令嬢が近付いてきた。
年齢は同じくらいだろうか。
豪華なドレス。
自信に満ちた笑み。
「初めまして」
「フィリア・アルヴェイン様ですわね」
フィリアは微笑む。
「はい」
「初めまして」
だが。
相手の笑みは少し冷たかった。
「わたくし、ドルシエ侯爵家の娘マリアンヌですわ」
「ドルシエ家の……」
フィリアが返事をする前に、
マリアンヌが遮った。
「まさか本当にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「え?」
「今、アルヴェイン家は大変だと聞いておりますので」
周囲が静かになる。
これは牽制だ。
フィリアにも分かる。
「ご心配ありがとうございます」
フィリアは微笑んだ。
令嬢の眉が僅かに動く。
思った反応と違ったのだろう。
「それより、そのドレス素敵ですわね?」
「どこの有名デザイナーの作品かしら?」
令嬢の視線がドレスの裾から髪飾りまで舐めるように動く。
「あ、これは……」
フィリアが答えようとした、
その時だった。
令嬢がグラスを持ち直す。
ほんの少し。
不自然な動き。
次の瞬間。
ワインが宙へ舞った。
赤い液体がフィリアへ向かう。
周囲が息を呑む。
「きゃっ……」
誰かが叫んだ。
だがーー
ーーワインは届かなかった。
空中で止まったのだ。
時間が止まったような静寂。
赤い雫が宙に浮かぶ。
誰も動けない。
そして。
ワインがゆっくりと集まり始めた。
一滴。
また一滴。
まるで見えない手に導かれるように。
最後には。
元のグラスへ戻っていた。
会場が騒然となる。
「は?」
令嬢が固まる。
そしてーー
「何だ今のは!?」
「魔法か!?」
「あり得ない……」
「ワインが戻ったぞ……?」
「液体制御!?」
「宮廷魔術師でもあそこまで精密には…」
会場がどよめき、貴族たちの声が響く。
その中心で。
リゼだけが静かだった。
◇◇◇
フィリアは呆然と振り返る。
そこには。
いつも通りのリゼが立っていた。
「リゼ……」
小さく呟く。
リゼは少しだけワインのグラスを見る。
そして。
静かに言った。
「せっかく皆さんで作ったドレスでしたので」
ほんの少しだけ間を置く。
「汚したくありませんでした」
フィリアの瞳が揺れた。
ーーあの日。
裁縫室で夜遅くまで灯っていた明かり。
誕生日の日に贈られた髪飾り。
アンナ。
トニー。
使用人たちの笑顔。
半年間の出来事が胸を過ぎる。
フィリアは思わず微笑んだ。
「ありがとうございます」
その言葉は。
ドレスに向けたものではなかった。
リゼは首を傾げたが、
それ以上は何も言わなかった。
会場のざわめきはまだ続いている。
けれど。
フィリアの胸の中にあった不安は。
もうほとんど消えていた。




