8.涙の意味
控えめに戸を叩く音を聞き、ベッドの上に伏せていたクリスティーナは顔を上げた。侍女の誰何に答える静かな声を聞いて、慌てて涙を拭き、鏡台の前に座ると乱れた髪を軽く梳かす。
あんなにも感情的になったフェリクスを見たのは初めてで、クリスティーナはひどく動揺してしまった。離縁しない、というならそれは嬉しいはずなのに、心が落ち着かない。余計な口をきいて、出しゃばりだと思われたかもしれない、いやむしろ、離縁のつもりがないのにこちらから切り出してしまったことで、フェリクスさまを傷つけてしまったかも……。考えるほどに不安になってしまう。またツンと痛む目頭を無理矢理抑えた。
クリスティーナは、毅然とした顔ができているかしら、と鏡を覗き込んだ。それから、なるべく平坦な声でドアの向こうに応えた。
「……どうぞ」
侍女が扉を開けると、焦った顔のフェリクスが立っていた。立ちあがろうとするクリスティーナを制して、フェリクスは言った。
「先ほどは、すまない……声を荒げてしまった」
「いいえ、私こそ、その……差し出がましいことを申し出ました」
クリスティーナの声が小さくなる。フェリクスは、さっきまでの激昂が嘘のように落ち着いた、真剣な顔でクリスティーナを見ていた。
「いや、良い。貴女にああまで言わせてしまったのは、こちらの落ち度だ。それよりも、貴女に話さなければならないと思っていることがある」
それから、侍女の持ってきた椅子に腰掛け、フェリクスは、話し始めた。
まず、例の醜聞については知っているが、それとこれとは関係ないと思っていること、伯父が妙な横槍を入れてきているが、無視していいこと、もし何か問題が起きているなら話してほしいこと……。
「貴女と私はこれまで良い夫婦関係だった、と思っている。私はそれを壊すつもりはない、むしろ、元のように戻りたいと思っているんだ」
滔々と語る姿は、今までと同じ冷静で思慮深い公爵閣下のようだ。だが、ほんの少し声が震え上擦ってしまう。そんなささやかな変化が、今のクリスティーナにはよく見えた。
「フェリクスさま、私……」
良い夫婦関係だった、なんて。フェリクスもそう思ってくれていたのか。知らなかった、そんなふうに思われていたなんて。知りたかった。もっと早く知っていれば。
「……私、フェリクスさまとの距離が、ずっと、心地良かったのです」
フェリクスが、息を呑む微かな音が聞こえる。クリスティーナは胸の奥が震えるような心地だった。
「家の都合での婚姻でありながら、フェリクス様は十分に私を尊重してくださっておりました。家のために同じ方向を向いていられる、我々は良き夫婦だと、私も信じていました」
クリスティーナは言葉を切って、俯いた。
「だからこそ……お母上ですら表舞台から押しやることに躊躇わなかったフェリクスさまは、必要ならどんな決断でもするお方だと、思ってしまいました」
「それは……どういう?」
フェリクスが怪訝そうに眉を顰める。
「先日の、毒杯を覚えておられますか?」
「もちろんだ。忘れるわけがない」
「……では」
クリスティーナは、ついに尋ねた。
「あの毒は……フェリクスさまの指示ではないのですか?」
「……何?」
眉間に皺を寄せ、フェリクスはしばし考え込んだ。言葉の意味を確かめるかのように
「……な……、……なん、だって……?!」
果たして、何を聞かれているのか理解したフェリクスは、絶句した。驚愕に目を見開いて、口をぱくぱくと酸欠の魚のように開け閉めする。硬直した姿勢のまま、ようやくフェリクスの喉から、絞り出すような、悲鳴のような声が漏れた。
「そ、そ、そんな命令、するわけないだろう!!」
フェリクスは、すぐに我にかえったようで慌ててクリスティーナの前に膝をついた。
「すまない、大声を出すつもりは……ただ、あまりに驚いて……」
「いいえ……いいえ」
首を横に振りながら、クリスティーナは胸がいっぱいになった。言葉に詰まりながらもようやく出た声は、掠れて、震えていた。
「今ので、よくわかりました」
ああ、やはりこの方は優しい方だ。クリスティーナは心の底から安堵し、納得した。嬉しさが手足の隅々まで血を通わすような心地だった。
「――貴方は、そんなことなさってらっしゃらなかった」
私が、勘違いしてしまっただけのようですわ。そう呟いて、クリスティーナは涙を浮かべてはにかんだ。
フェリクスの方はまだ動揺から立ち直れないようだった。青ざめた顔のままクリスティーナの手を取ると、そっと握る。
「すまない、すまなかった。まさか、そんなふうに思わせていたとは………………」
フェリクスは、うまく言葉が続かないでいた。何度も口ごもり、唇を引き結んでは開き、ようやく、絞り出した。
「私は、貴女にとって良い夫だとばかり……」
「貴方は良き夫です、間違いなく」
クリスティーナの言葉に、握る手の力がぎゅっと強くなった。胸が締め付けられるような気持ちになりながら、クリスティーナは続けた。
「でも私、フェリクス様が思い描いている夫婦の形を、随分と思い違いしておりました。申し訳ありません」
言いながら、クリスティーナの目からほろほろと涙が溢れた。申し訳ないような、ほっとしたような、渦巻く心が雫になってこぼれ落ちていく。ずっと張り詰めていたものがやっと抜けていく、そんな感覚だった。
「……クリスティーナ、泣いてるのか!?」
ギョッとしたフェリクスが、次いであからさまにおろおろし始めた。手を差し出すべきなのかと両手を所在なく上げたり下げたりしたあと、結局、ゴソゴソと胸ポケットから真っ白なハンカチを引っ張りだし、クリスティーナに向かって差し出した。
「泣かないでくれ、どうしたら良いかわからないんだ」
フェリクスが、情けない声で懇願する。クリスティーナはそっと首を振った。
「これは、嬉しくて泣いているのです」
「なっ、なぜ?!」
フェリクスは余計に狼狽したようだった。それが妙におかしくて、けれど涙は止まらない。クリスティーナはこの上なく穏やかな口調で言った。
「これからも貴方の妻でいていいとわかって、私は心から嬉しく思っているんです」
そうして微笑むクリスティーナの美しいこと。フェリクスは、何も言葉が出ないまま、子供のように何度も頷くしかできなかった。




