7.フェリクスの拒絶
フェリクスは、すっかり妻の介護とその反応に味を占めていた。
味を占め過ぎて、手助けの機会を一秒たりとも逃してなるものか、と廊下の気配に全身を傾けてしまう始末であった。もちろん仕事どころではない。側近が冷たい目で執務の滞りを指摘してくるので、妻の気配を察知したところで、そう易々と思う通りにはならないが。
妻の方にも何かしら変化があったようで、近頃なんだかやけに恥じらうようになった。薔薇色に染まる頬は、血色の良くなった証だとフェリクスは安堵していたのだが、どうもそれだけではないらしい。フェリクスが手助けに現れると、クリスティーナはいかにもそっけなく「お気遣いは無用です」「お手を煩わせたくありませんの」などとあしらおうとする。だがその目元や耳元がほんのりと赤味を帯びているのだ。なるほど、照れているのか、とフェリクスは理解した。理解した途端、妙にそわそわした気持ちになってしまうようになった。だが嫌ではなかった。何より、遠慮など我々の間には不要だとフェリクスは信じていた。
それなのに、である。
固い顔をした妻の口から、離縁などという言葉が飛び出してきたのだ。
「何故だ?!」
フェリクスは、大声を出した。目の前でクリスティーナがびくりと肩を震わせた。フェリクスは、無意識に立ち上がっていた。
「何故そんなことを言い出す?! なんのつもりだ!」
「フェリクスさま、私は……」
応接間の椅子に腰掛けたままのクリスティーナは、今にも泣きそうな顔でフェリクスを見上げている。
「だめだ! ダメに決まってるだろう! そんなこと許さない!」
フェリクスの体は、まるで逃げ出そうとするかのように、ジリジリと後退りしてしまう。
「この話は終わりだ! これ以上なにもいうな!」
クリスティーナが唇を固く結んだ。顔が青ざめ、祈るように組んだ両手が膝上で小さく震えていた。
「はい……申し訳、ありません……」
フェリクスは、肩を怒らせて踵を返す。侍女が青い顔で扉を開けるのも一顧だにせず、フェリクスは応接間を出た。頭の中には、ただひたすら疑問符だけが渦巻いている。
そうして興奮覚めやらぬままのフェリクスは自室の戸を勢いよく開け放ち、音を立てて閉めた。
「おい! 離縁の話を出されたぞ?!」
「なんと、奥様からその話をなされるとは」
執務室で開口一番喚くフェリクスにも慌てず、側近は片眉を上げた。
「で、旦那様はなんと?」
「そんなもの却下に決まっているだろうが!」
イライラとフェリクスは返した。部屋の中を意味もなくうろうろしながら、なぜだ、クリスティーナと繰り返した。
側近は、腕組みをして首を傾げた。
「左様ですか。今度は一体、どのような思惑がおありなのでしょう……」
「知るか! 何もわからん!」
側近に苛立ちをぶつけても、涼しい顔で流されるだけだ。胸の中の行き場のない不安と混乱が、フェリクスから普段の冷静さを根こそぎ奪ってしまっていた。
「彼女の実家には手助けの手配が済んでいる! 伯父上の接触も他の親戚連中の横槍も防いでいる! 母上なんて、かなり前から遠ざけている!」
そこまで一息に口にしてから、フェリクスは執務机の前の大きな椅子に倒れるように座り込み、天を仰いだ。
「我々は、良き貴族として完璧な夫婦だったのに……」
フェリクスは力なく呟く。勢い余ってしまったのか、普段びくともしないはずの椅子がギシギシと軋む。
どこで何がどう掛け違ったのだろうか。フェリクスは眉間に皺を寄せて思い返した。
そもそもの話、妻の実家が失脚した事が始まりである。それで親戚がうるさくなったのは、今更仕方がない。貴族社会とはそんなものだ。食卓に毒が盛られたことも、腹立たしいがこれまたいつものことだ。
そうだ、あのとき……妻の食前酒に毒が仕込まれた時、フェリクスは、確かに毒だと明言したはずだ。それなのに何故か妻が死のうとした……いや、本当はわかっている、あれにも何か理由がある。その何かがクリスティーナにそうさせたのだ。
ともあれ、だ。毒杯の件が大事にならなかったのはひとまず良かった。だがそこで初めて、フェリクスは妻が心配になった、というのも事実だ。実家の醜聞など取るに足らない、と投げ打っていたが、もしや、こちらが考えている以上に彼女は追い詰められているのではないか、と。
伯父を筆頭にした親戚からの横槍を懸念したが、それも目立ったものはない。わかりやすいように伯爵家を大々的に支援しても、クリスティーナの顔はさほど晴れなかった。けれども、不思議な事に、日常生活に手を貸すようになってからは少しずつ顔色が良くなって行った。妻に必要なのはこれだったのだ、とフェリクスは納得して……そうして時間の許す限り手を貸そうと決めた。
親戚共は相変わらずうるさくてうっとおしいが、そんなのは気にならなかった。このまま、妻がまた以前のように堂々たる貴婦人として振る舞えるようになるまで、フェリクスは支えていれば良い。それで全ては丸く収まるだろう……。
それなのに、だ。
なぜ妻が離縁になってもいいなどと言い出すのだろうか。嫌だが?
そこまで考えて、フェリクスは思わず顔を覆った。
「ううう、何故だ……」
何か見落としているのかもしれない、とフェリクスは思った。何かが、フェリクスの知らないところで起きているのかもしれない。だが、まるで見当もつかない。
「私は、以前のような完璧な夫婦に戻りたいだけなのに……」
深くため息をつくこと以外、フェリクスに出来ることはない。
黙ってフェリクスを見守っていた側近が、沈痛な面持ちを浮かべた。
「旦那様、やはり奥様は、旦那様の重荷になると思い詰められたのでは……」
「それは言うなと言っただろう!」
それだけは、認めたくなかった。
決して重荷だなどと思っていない、遠慮はいらないと示すために、フェリクスはあれやこれやと無理矢理にでも世話を焼いたのだ。それが伝わっていると思いたかった。
フェリクスは、ジロッと側近を睨む。
「……というか、そもそも傷心は演技と言っていなかったか?」
だが、側近は顔色ひとつ変えずにしれっと返した。
「かもしれませんとは言いましたが」
「……」
「……」
フェリクスは、しばし側近と見つめ合った。
「……もしかして、この件でおまえを頼るのはよした方が良いのか?」
「そんな、心外です旦那様。確かに奥様の知略には敵わぬところもありますが」
「いや、知略とかでなくだな……」
心底不思議そうな側近の顔をじっとり半目で見たフェリクスは、何度目かのため息をついた。
側近と話すうちに、フェリクスの中にいつもの冷静さが帰ってきたらしかった。先ほどまでの恐ろしいほどの不安と疑問の渦はいつのまにか小さくなり、ただクリスティーナの顔だけが浮かんだ。青ざめ、泣きそうな顔の彼女が。
「……一度、彼女としっかり話すべきかもしれん」
フェリクスはポツリとこぼすようにつぶやいた。他ならぬ本人の口から真意を聞かなければ、何もわからないままだ。何故離縁などと馬鹿なことを言い出したのか……一体、彼女に何があったのか。
なにより、離縁の言葉に動揺するあまり、必要以上に強く拒絶してしまった。今更ながらそのことがフェリクスは気がかりだった。クリスティーナを無為に傷つけていないだろうか。そればかりを考えながら、フェリクスは足早にクリスティーナの元へ向かった。




