9.同じ皿
クリスティーナの体調は、日を追うごとに良くなっていった。長く残ると言われた手足の痺れも、次第に和らいでいった。以前のような過剰なまでの手助けは不要になった、とわかった時のフェリクスの、複雑な顔ときたら。安堵と、落胆がないまぜになって、けれど喜ばなくては、とばかりに必死に明るい声を出すフェリクスのあまりにもぎこちない表情を、クリスティーナは時々思い出しては微笑んでしまうのだった。
夕餉の時間も、いつのまにか以前のように向き合って座るように戻っていた。もちろん皿は別々である。当然なはずなのそれが、クリスティーナはなんだか少しだけ寂しいような気がした。
ただ、以前よりはるかに穏やかに、そして少しだけお互いに踏み込んだような会話を交わせるようになった。朝の調子、今日あったこと、考えたこと、家の中のほんの少しの変化、天気の話……。不必要な、報告する意味などない、些細で無意味な会話だ。でも、それがこんなにも心地よいなんて、クリスティーナは知らなかった。
ある日の夕食時、久しぶりに食前酒が供された席でのことだった。
クリスティーナは、フェリクスの前にあるワイングラスに視線が吸い付いて離れなくなってしまった。ゆっくりと注がれた、半透明の赤い色、その中にゆらりと漂う、微かな影がある。華奢なグラスをフェリクスの手が持ち上げる。クリスティーナは、声を上げた。
「まって、フェリクスさま、ダメです!」
自分でも驚くような大声が出た。フェリクスが驚いた顔で自分を見ている。けれどもいまは恥じらっている場合では無い。
「飲んではダメです、今何か……」
いつのまにか立ち上がっていたクリスティーナは、椅子の足につまづきそうになりながら、よろよろとフェリクスの方へ向かおうとした。その手を、素早く歩み寄ったフェリクスが支えた。
「ダメだ、貴女は座っていなさい」
「でも、」
「大丈夫だ、心配いらない」
クリスティーナを椅子に座らせ、フェリクスはにこりと微笑んだ。
「貴女が見たのは、これだろう?」
すい、と指を伸ばしてクリスティーナのグラスを取り上げる。その中で、同じように穏やかに揺れる不純物を、クリスティーナは息を呑んで目で追った。
「今日のワインは無濾過ワインだ。だから絞った時に出るブドウの滓が、いくらか残っているんだ」
「まぁ、そうなのですね。私てっきり……」
どうやら早とちりだったようだ。安堵の息をこぼしたクリスティーナの前で、フェリクスは柔らかい視線を妻に向け、ワインをそっと口にした。
「これは毒では無い」
ことん、と元の通りクリスティーナの前にグラスを置く。
――そして、妻の前に並んだ料理を眺めたフェリクスは、サッと怖い顔になった。
「……毒はこちらのようだ」
「えっ」
せっかく胸を撫で下ろしていたクリスティーナが、強張った声を出して固まった。
フェリクスは、迷いなくメインの皿を持ち上げると給仕に向かって突きつける。
「私とソースが違うな、何故だ?」
しどろもどろの相手をあっさりと下がらせ、フェリクスはため息をひとつついた。にわかに周囲が騒がしくなる中、慣れた顔のフェリクスは、クリスティーナの隣に椅子を持って来させる。ドカリと座り、腕組みをした。それからフェリクスは、仕方ないと言わんばかりの口調で言った。
「やはり、もうしばらく私と貴女は同じ皿で出してもらう方が良さそうだ」
クリスティーナはパッと顔色を明るくして隣のフェリクスを見上げる。すぐに恥じらうように染まった目を伏せた。
結局、夫妻だけでの食事の時は、一つの皿で分け合うのがほとんど定例になった。流石に人目のある時にはフェリクスも給餌の真似事まではしなかったが。
ある夜、例の伯父――フェリクスによると、何かと余計な野心を燃やしているらしい――夫妻も同席する夕食の場で、クリスティーナはふと手を止めてつぶやいてみた。
「あっ……手の痺れが……」
「何?」
フェリクスが、焦った顔をして立ち上がる。
いかにも仕方ないというそぶりで、けれどもいそいそとクリスティーナの手からフォークを取り上げた。そうしていつかのように、器用に一口掬うとクリスティーナに向かって差し出した。
「遠慮なく食べなさい、クリスティーナ」
にこり、と微笑むフェリクスに頷き返して、クリスティーナは耳まで赤くなりながら口を開けた。伯父夫妻が、息を呑む音がやけに大きく聞こえる。流石に人前でのこれは、恥じらいが想像以上に強い。ほとんど目を閉じて咀嚼しながら、クリスティーナは己の顔が火を吹くように熱いのを感じていた。
「……一体、何をしているのかね?」
伯父が、引き攣った声を出す。フェリクスは、当然と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「妻は先日、不届者に毒を盛られましてね」
「……」
じっと押し黙った伯父に対し、フェリクスは神妙な顔をした。
「今も些かの不自由があるので、手を貸す必要があるのですよ」
「……だからと言って、そのような……」
伯母の嗜めるような声が聞こえなかったかのように、フェリクスはクリスティーナの方だけを見つめて柔らかく微笑んだ。上機嫌にも見えた。クリスティーナは、苦虫を噛み潰したような表情の伯父をこっそりと盗み見て、それから再び覚悟を決めると、フェリクスの差し出すフォークをそっと口にする。
フェリクスの目が、優しい視線が自分に注がれているのに気づいて、クリスティーナの顔は余計に熱くなった。
あそこの公爵閣下は度を越した愛妻家である、との噂が立ち、あらゆる後妻計画は全て無に帰した。
側近「ほらぁ、奥様がこの状況を最大限利用しているっていう僕の推理、合ってたじゃないですかー」
メイド1「違います!」
メイド2「節穴野郎!」
侍女「仕事中毒すぎません?」




