第9話 邪気無き襲撃
くつくつと、鍋が煮えている。
「魔術師……魂を札に、ってどんな感覚なんだろうなぁ……適合者って」
俺はその光景を眺めながら、リィナから聞いた単語を繰り返す。頭の中は寸前で弱火にした鍋の中身と違い、ずっと沸騰を続けていた。
リィナを見送った後。そわそわしてじっとしていられなくなった。そりゃ、そうだろ。リィナが語った情報量、あれをすんなりと処理できる人間がいたら連れてきて欲しい。
助かったと思った命が、今もまだ綱渡り状態で。命綱は、あのカード一枚で。あれが無くなったら死ぬんだってさ、俺。
いや、無理だ。座っていられない。
「で、始めたことがダシとりってんだから、俺もなかなかだな」
自虐で笑えてくる。実際に落ち着いてきたんだから、俺の選択は間違っていないとはいえ、生活感あふれる選択をする自分が滑稽だった。
考えながらも手は止まっていない。何度も繰り返してきたから慣れた手順だ。こうして完成したダシは冷蔵庫に入れておけば、日持ちもする。母さんが遅くなるときは、これを使ったうどんが定番だ。
「ん?」
そんなことを考えていたら、テーブルに置いてあった携帯電話に通知が来ていることに
気づいた。手に取ってみる。
メッセージが届いている。相手は母さんだった。
「遅くなります、か」
俺が入院していた間、ずっと仕事を休んでいたから埋め合わせに忙しいんだろうな。ただでさえ、母さん責任重いポジションにいるし。
「そうなると」
俺は冷凍庫に向かう。ちょうど考えていたメニューの出番のようだ。冷凍うどんがあれば、それで大丈夫なはず。
「げっ」
開けた瞬間、唸った。頼りにしていた冷凍うどんが一つもない。母さん、もしや、俺がいない間はずっとうどん生活だったのか。卵も切らしてたから、へたするとお得意の釜玉風をしていたのかもしれない。
え、ずっと? うどんと卵と醤油だけ? 体壊すぞ、あの人。好きなのは知ってるけどもさ。
「いや、まいったな」
冷凍庫の中身は盲点だった。整理したばっかりだから作り置きもないし、材料も足りない。今から他のメニューはな。
ちらりと窓の外を見る。朱色に染まってはいるが、まだ十分に明るい。
――特に、夜間に一人では出歩かぬように。
リィナの忠告がよみがえる。
「いや、大丈夫だろ」
俺は口に出す。思い込もうと、しているのかもしれない。実際に、まだ迷っている。
冷凍うどんなら近所のコンビニで買えるはずだ。それなら、十五分もかからない。行って帰ってくれば、まだ日が落ちる前には部屋の中に戻れる。
それに。
「何も用意していなかったら、母さんになんと思われるか」
別に食事の準備をしろ、と強制されているわけでもないし、そんなことで怒るひどい親でもない。ただ、普段の俺なら何も食事の準備が無い、なんてことはありえないんだ。母さんもそれが分かっているから、外食せずに帰ってくる。
「……これ以上、心配かけさせたくないしな」
俺が普段通りの行動をしなかったら。おそらく、母さんは俺の不調を案じるだろう。病室で見たあの顔を、俺は見たくない。
決めた。
「よしっ」
俺は玄関から飛び出るように、急いで店へと向かうのだった。
そんなことを考えていたのが一時間くらい前である。
「俺のバカっ!」
人気の無い道で、俺は俺をなじった。周囲はすでに日が落ちている。
他に足りないものがないか。そんなことを考え出したのが運の尽き。時間はみるみるうちに溶け、気づいたときには外は暗くなっていた。
「しかも、結局うどんしか買ってないし」
無駄な時間を過ごしてしまった。本当に無駄な時間だった。後悔しても、もう遅い。俺は急ぎ足で家路を急ぐ。
「あっ」
少しだけ、立ち止まった。目の前には、坂がある。
――上月ユータ様、ですね?
真っ白な少女がそこに立っている幻影が見えた気がした。リィナを初めて見たときの衝撃が、生々しく心に戻ってくる。あの白と朱の共演は、きっと忘れることはないだろう。
「いやいや、だから、リィナに言われたんだって」
俺は首を何度か横に振って歩みを再開した。もうすっかり日が暮れている。ここはリィナと会ったときもそうだったけど、昼間でも住宅地なのに人通りが少ない。夜間なら、なおさらだ。
ただ家は近いから、もう少しだけ行けば。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
俺が声をかけられたのは、そんなはやる気持ちのまま坂を上っている途中だった。
振り返る。瞬間、ぞわっと背筋に何かが走った。
「こんばんは」
そこには、にこやかに挨拶をしてくる子どもの姿があった。坂の下で、手を振っている。街灯も少ない闇の中で、その子の顔だけがはっきりと見えた。
なんだろう、違和感が凄い。まるで、写真に別の写真を貼り付けたコラージュのようだ。彼の存在だけ、浮かび上がってくる。
「なんで、そんなに急いでるのかな?」
小首を傾げている幼い少年。本当だったら、かわいい仕草のはずだ。でも、全然俺には可愛く見えない。
だってさ。
「僕と遊んでよ。ちょっとだけ」
こいつ、目が笑ってないんだよ。さっきから! こんな子どもがいてたまるか。
「い、いや~、お兄ちゃん、忙しいからさ」
俺は視線をその子に向けたまま、後ずさる。いつ、反転して走り出すか。そのタイミングだけを見ていた。
だから、気づかなかった。少年の右手が、先ほどからぽわっと褐色に光っていることに。
「『待って、手をつなごう』」
彼が何か口に出した。それと、俺が振り返ろうとした瞬間が同時だった。
「どわっ」
俺は坂にあった何かにつまずいて、前のめりに倒れる。不幸中の幸い。勢いがつく前だったから、鼻と膝を打っただけで助かった。痛いけど。
「くそ、何なんだ」
起き上がろう。そうしようとしたとき、俺は異変に気づいた。
「……なんだ、これ」
俺の左足首。灰色の何かにつかまれていた。ざらつた感触のそれは鉛のように重い。表面は生きているかのように波打っている。
それは、手だ。コンクリートから生えている手が、俺の足首をつかんでいる。それだけじゃない。明らかに、意志を持って俺の行動を阻んでいた。俺が反射的に引き抜こうとしたとき、ぐいっと強く引っ張ってきたのだ。締め付けられる力で骨がきしむ。正直、痛い。
「なんで、逃げようとするのさ。僕は遊びたいだけなのに。遊ぼうよ、一緒に」
坂を、少年がゆっくりと上ってくる。彼が一歩近づく度に、鼓動は少しずつ早くなっていく。
ああ、そうじゃないかと思いましたよ。少しは違うかなと期待を持ってたけど、もう確信した。間違いない。
「ルールはどうしよっか。そうだ、死んじゃったら負けね。勝った方が『精霊符』を総取りできるんだ」
こいつ、適合者だ。
あくまでも、遊びだと彼は言っている。でも、今、自然と『死』という言葉を口にした。無邪気に、当たり前の感覚で。
そっか、これが魂の変容ってやつか。今更だけど、実感してきたら恐怖で震えてきた。
「くっ」
本当にまずい。このままでは、せっかく拾った命を無駄にする。こんな命の使い道をしたら、父さんにあの世で怒られる。
呼吸が速まる。冷静な判断ができない。冷静ではいられない。震えも止まらなくなってきた。
何とか灰色の手を振りほどこうとするが、俺の力じゃびくともしない。
こんなのゲームにいたな、うっとうしいやつ。主人公の動きを封じて、その間に仲間に攻撃させるんだ。卑怯すぎて、嫌になってくる。ぶっ壊してやりたい。
『だったら、ぶっ壊せばいい』
「へっ」
頭に響く誰かの声。平坦で、抑揚の無いそれはリィナを思い出させる。声の質は男性的でもあり、女性的でもあった。
『ぶっ壊せばいい、と言っている』
その声は、俺の衝動に同意した。言葉というよりも意志が流れ込んできているようで、妙な感覚だった。
得体の知れない声。だが、この状況、追い詰められた心はそんな藁にしがみつく。
「どうやって!?」
俺の返事に、声の持ち主は笑った。そんな気がした。




