第二節 影を縫う男
白い光が、足元の影を削っていた。
公園の横の細い道。
午後の太陽。
白昼局の実働員たちが構える照射具。
地面へ投げ込まれた円盤状の影止め。
それらが作り出す人工的な明るさの中で、戒十の影は薄く、弱く、床に押し潰された黒い染みのようになっていた。
夜なら走れた。
屋根へ逃げられた。
壁を蹴れた。
影も牙を剥いた。
だが今は違う。
身体は重い。
薬で感情も反応も鈍っている。
左手の痣だけが、白い光に焼かれるように痛んでいた。
白昼局の男が手を上げる。
灰色のスーツ。
無駄のない姿勢。
その指示を合図に、左右の実働員が一歩ずつ距離を詰めた。
「抵抗しないでください」
前方の男が言った。
「抵抗しなければ、身体拘束は最小限にします」
「最小限って、便利な言葉ですね」
戒十は答えた。
自分でも驚くほど声が乾いていた。
恐怖はある。
あるはずだ。
しかし薬の膜に包まれて、胸の奥まで届いてこない。
その代わり、足元から別の声が滲んでくる。
逃げろ。
無理だ。
逃げろ。
昼だ。薬も飲んでる。
じゃあ、飲まなければよかった。
戒十は奥歯を噛んだ。
「黙れ」
小さく呟く。
前方の男が目を細めた。
「誰と話している?」
「独り言です」
「影声の発生を確認。段階進行あり」
背後の女が、通信機へ向かって淡々と告げる。
その言い方に、戒十はぞっとした。
人として話しかけられているようで、実際には観察対象として記録されている。
症状。
段階。
進行。
VIOLET DRAGONの地下でも似たような言葉は聞いた。
だが、あそこにはまだ、生活があった。
仕事へ行く人がいた。
食事をする子どもがいた。
冗談を言うリサがいた。
白昼局の人間には、その匂いがない。
清潔で、白くて、遠い。
まるで、昼の社会からこぼれたものを、光で消毒するために来たようだった。
戒十は内ポケットへ手を伸ばした。
残りの影固定剤。
飲むのか。
飲めば、影はもっと黙る。
同時に、自分はもっと鈍くなる。
逃げられない。
だが、飲まなければ影が暴れる。
この場で誰かを傷つけるかもしれない。
判断が止まる。
その迷いを見逃さず、前方の男が一気に踏み込んだ。
「確保」
左右の実働員が動く。
照射具の光が強くなる。
白い線が戒十の足元へ集まり、影止めの円盤が低い駆動音を上げた。
足が動かない。
膝が沈む。
視界が白く滲む。
戒十は初めて、昼の光に押し倒される感覚を知った。
そのとき。
公園のフェンスの影が、一本だけ伸びた。
太陽の角度と合っていない。
白い光の海の中を、細い黒い線が走る。
それは戒十の影ではなかった。
実働員の足元でもない。
公園の滑り台が作る小さな影から伸び、影止めの円盤へまっすぐ向かう。
次の瞬間、金属が割れる乾いた音がした。
円盤のひとつが、地面の上で真っ二つに裂けた。
白い光の糸が乱れる。
「接敵!」
背後の女が叫んだ。
彼女が照射具を向けるより早く、黒いコートの男が公園の塀の上から降り立った。
シンだった。
昼の光の中でも、彼の姿は夜のように浮いて見えた。
黒いコート。
無駄のない立ち姿。
手にした細身の刀。
ただし、刀身そのものより、地面に落ちる影の刃のほうが長い。
白昼局の実働員たちが、一斉に構えを変える。
「紫の処刑人……!」
誰かが呟いた。
シンはそれに反応しなかった。
ただ、戒十の足元を見た。
薄く削られた影。
焼けるように震える左手の黒。
そして、白い光へ押さえつけられた身体。
「遅い」
シンが言った。
誰に向けた言葉なのかわからなかった。
白昼局へか。
戒十へか。
あるいは、自分自身へか。
前方の灰色スーツの男が、シンへ向き直る。
「白昼局実働三課、灰田だ。対象者への干渉をやめろ。こちらは影害事案として正式に確保行動中だ」
「灰田か」
シンは男の名を呼んだ。
知り合いなのか、と戒十は思った。
灰田の表情がわずかに険しくなる。
「まだ紫にいるのか、シン」
「おまえはまだ昼にいるのか」
「立場を思い出せ。白昼局の確保対象を奪うなら、敵対行為と見なす」
「先に対象を焼いている」
「照射は規定範囲内だ」
「影止め二枚、照射具三本。十七の未登録離影者へ使う量じゃない」
「段階進行が早い。危険度が高い」
「だから雑に囲んだのか」
「市民被害を防ぐためだ」
「市民に含めろ」
シンの声は低く、平坦だった。
「そいつもまだ市民だ」
戒十は思わずシンを見た。
助けに来たのか。
そう思いかけて、すぐに自分で打ち消す。
シンは前にも言った。
人間だから止める。
怪物なら会話しない。
今の言葉も、慰めではない。
分類の話だ。
まだ市民。
まだ人間。
まだ処分対象ではない。
そういう意味だろう。
灰田が片手を上げる。
「照射、集中」
白い光がシンへ向けられた。
だが、シンは逃げなかった。
彼は公園の滑り台の影へ半歩だけ身体を入れた。
ほんの小さな影。
子どもの遊具が作る三角形の暗がり。
そこから、シンの刀の影だけが伸びる。
白い光の中を、黒い刃が滑る。
実物の刀はほとんど動いていない。
だが、影の刃は地面を走り、照射具を持つ女の足元へ到達した。
女の影の手首へ、影の刃が突き刺さる。
「っ!」
女の右手が固まった。
照射具が傾く。
光が逸れる。
次に、シンは左側の実働員へ視線を向けた。
影の刃が曲がる。
あり得ない角度で、地面を這う。
男が跳び退こうとする前に、靴の影が縫われた。
肉体の足が止まる。
男は前のめりに倒れかけ、壁へ手をついた。
「影縫いだ、足元を見ろ!」
灰田が叫ぶ。
白昼局の動きが変わる。
彼らはシンの肉体ではなく、彼の足元と周囲の影を警戒し始めた。
訓練されている。
普通の人間相手ではない。
夜の異常を相手にするための動き。
戒十はその中で、まだ動けなかった。
光が少し逸れたせいで、影止めの圧は弱まった。
だが、薬の重さと昼の光で、身体は鈍い。
左手の痣は燃えるように痛む。
逃げろ。
影が囁く。
シンがいる。
だから何。
また管理されるだけだ。
白昼局よりましだ。
どっちも檻だ。
戒十は歯を食いしばった。
その通りだった。
白昼局に捕まるか。
VIOLET DRAGONへ連れ戻されるか。
どちらにしても、自分の意思で帰る道ではない。
灰田が腰のホルスターから短い警棒のような器具を抜いた。
先端から白い刃状の光が伸びる。
「シン、退け」
「退かない」
「その少年をおまえたちに渡せば、夜の側で隠蔽される」
「おまえたちに渡せば、昼の側で解剖される」
「解剖はしない」
「言葉を選んだだけだろ」
灰田の顔がわずかに歪む。
シンはその隙に踏み込んだ。
速い。
夜のような異常な跳躍ではない。
人間の範囲に見える。
しかし、無駄がない。
足を置く場所、身体の角度、影の伸びる方向。
すべてを計算している動きだった。
白い刃が振られる。
シンはそれを刀で受けない。
半歩ずれて、相手の影の肘を縫う。
灰田の腕が一瞬止まる。
その瞬間、シンは肩から体当たりを入れ、灰田を公園のフェンスへ押しつけた。
金網が揺れる。
灰田は呻くが、倒れない。
実働員の一人が戒十へ向かってくる。
戒十を押さえれば、シンの動きも止まると判断したのだろう。
戒十は避けようとした。
身体が重い。
間に合わない。
その実働員の影の足元へ、シンの刀の影が飛ぶ。
男の膝が止まる。
だが、勢いは止まらず、彼は地面へ転がった。
シンが戒十を見た。
「立て」
「……無理」
「立て。捕まりたいのか」
「助けに来たんじゃないんですか」
「違う」
即答だった。
戒十は一瞬、息を呑む。
シンは近づき、戒十の腕を掴んだ。
乱暴ではない。
だが、逃がすつもりのない力だった。
「おまえを白昼局に渡さず、バイオレットドラゴンの管理下に置くために来た」
「それ、助けるって言わないだろ」
「言わない」
「最悪だな」
「知っている」
シンは戒十の足元を見た。
影止めの白い糸が、まだ薄く絡みついている。
彼は刀を振らず、影の刃だけを戒十の影へ差し込んだ。
びくり、と全身が震える。
痛みではなく、縫われたときに似た拘束感。
だが、今回は固定ではない。
絡まった白い糸を、影の刃が切り離していく。
白い光の縛りが解ける。
足が少し軽くなる。
「歩けるな」
「歩けるかじゃなくて、歩かせる気だろ」
「そうだ」
シンは戒十の腕を引いた。
灰田が体勢を立て直す。
「逃がすな!」
背後で実働員が動く。
その瞬間、公園の隣の駐車場へ、一台の黒いワゴン車が滑り込んできた。
タイヤが水気の残る路面を短く鳴らす。
運転席の窓が開き、リサが顔を出した。
「お待たせー。昼の人たち、けっこう多いね」
「遅い」
シンが言う。
「道混んでたの。昼間はみんな普通に活動するから嫌だよねえ」
「口を動かす前に開けろ」
「はいはい」
リサがリモコンを押す。
ワゴン車の後部スライドドアが開いた。
内部は遮光カーテンで覆われ、外から中が見えない。
戒十は足を止める。
「乗るなんて言ってない」
「言わせる時間がない」
シンが背中を押す。
戒十は踏ん張ろうとした。
だが、昼の身体は弱い。
薬のせいで反応も鈍い。
自分でも情けないほど簡単に、車内へ押し込まれた。
リサが振り返る。
「戒十くん、怪我は?」
「誘拐されてます」
「会話できるなら大丈夫そう」
「大丈夫の基準がおかしい」
「うちでは普通」
シンが乗り込む。
ドアが閉まる。
白い昼の光が遮られた瞬間、戒十の影が車内の床へ濃く落ちた。
左手の影が、少しだけ伸びる。
その前に、シンの影の刃が戒十の影の手首を押さえた。
「動くな」
「僕に言ってるのか、影に言ってるのか」
「両方だ」
ワゴン車が発進する。
外から、灰田の声が微かに聞こえた。
「追跡班へ。対象、紫の車両で移動。ナンバー――」
その声は、リサが車内の遮音装置を入れたことで途切れた。
車内が急に静かになる。
戒十はシートに背中を押しつけ、荒い息を吐いた。
助かった。
そう思うには、腕を掴まれた感覚がまだ強すぎた。
捕まった。
そう思うには、白昼局から引き離された事実が重すぎた。
どちらでもある。
救出であり、拘束。
保護であり、管理。
戒十はシンを睨んだ。
「僕に選ばせるって話はどこへ行ったんですか」
シンは向かいの席に座り、刀を膝の上へ置いた。
「状況が変わった」
「便利な言葉だ」
「事実だ」
「そればっかりですね」
「嘘よりましだ」
リサが運転しながら、バックミラー越しに言う。
「怒る元気あるなら、たぶん平気だね」
「怒ってるだけで平気扱いしないでください」
「うん、それも正しい」
「正しいなら何とかして」
「何とかするために連れて帰ってる」
「帰る場所じゃない」
「今はね」
リサはそれ以上言わなかった。
車内は暗い。
昼の光から遮られたことで、左手の痣が少し楽になる。
同時に、影の声がまた近づく。
逃げられなかったね。
戒十は目を閉じた。
黙れ。
今度は口に出さなかった。
目の前で、シンがじっとこちらを見ている。
影が喋ったことを、悟られたくなかった。
だが、シンはすでに気づいているようだった。
「薬を多く使ったな」
戒十は目を開ける。
「何でわかるんですか」
「反応が鈍い。怒りも恐怖も遅い。左手の影だけが浮いている」
「医者ですか」
「違う。見慣れているだけだ」
「勝手に見慣れないでほしい」
「見る。見なければ止められない」
戒十は窓の遮光カーテンを見た。
外の景色は見えない。
自分がどこへ連れていかれているのかもわからない。
影が、床で小さく歪む。
シンの刀の影が、それを無言で押さえていた。
◇
VIOLET DRAGONへ戻った戒十は、診療室ではなく地下の別室へ連れていかれた。
訓練室、とリサは呼んだ。
そこは体育館ほど広くはないが、学校の教室二つ分ほどの空間があった。
床は黒に近い灰色。
壁は吸音材で覆われている。
天井には複数の照明が格子状に配置され、それぞれ独立して明るさと角度を変えられるようになっていた。
壁際には、古い道路標識、フェンスの一部、ドア、ベンチ、机、倒れた自転車、壊れた街灯などが置かれている。
街の一部を切り取って、地下へ再現したような部屋だった。
ただし、どれも少しずつ不自然だ。
フェンスの下には影が伸びやすいように細い隙間がある。
ベンチの周囲には、光源の位置を変えたときに影が重なる目印が打たれている。
床には白い線と黒い線がいくつも引かれ、交差点のようにも、手術室のマーキングのようにも見えた。
戒十は入口で立ち止まった。
「何ですか、ここ」
「訓練室」
シンが答える。
「戦えってことですか」
「違う」
「じゃあ何を」
「人を傷つけない練習だ」
その言い方が、戒十の神経に触れた。
「僕が傷つける前提なんですね」
「傷つけた」
シンは即答した。
路地の男。
腕が動かなくなった男。
壁へ叩きつけた感触。
影の指が喉へかかった記憶。
戒十は言い返せなかった。
リサは入口脇の壁に寄りかかり、紙袋からプリンを取り出していた。
「リサさんは何してるんですか」
「見学」
「プリン食べながら?」
「低血糖対策」
「嘘ですよね」
「半分」
リサはスプーンを開けながら、にこっと笑う。
「今日はシン先生の安全講習。あたしは口を挟むとうるさいって怒られる係」
「自覚があるなら黙れ」
シンが言う。
「はい、もう怒られた」
戒十は頭を抱えたくなった。
白昼局に囲まれ、車に押し込まれ、地下へ連れてこられた直後に、プリンを食べる女と安全講習を始める男。
現実感が壊れている。
だが、訓練室の照明が一段落とされると、胸の奥が少しだけ楽になった。
眩しくない。
影も濃すぎない。
ここは、彼の身体が暴れすぎないように設計されている。
そのことがわかってしまう。
「まず確認する」
シンは床の中央に立った。
「今日、白昼局に囲まれたとき、おまえは何を見ていた」
「何って」
「人数、位置、光源、逃げ道、影の位置。答えろ」
戒十は少し考える。
「人数は四人。前、後ろ、駐車場側、アパートの階段下」
「光源は」
「太陽。照射具が三本。影止めの円盤が……二枚?」
「最初は一枚。二枚目を出そうとしていた」
「細かい」
「細かくなければ死ぬ。逃げ道は」
「公園のフェンス。駐車場。アパートの階段。道路の反対側」
「実際に使えた道は」
「……なかった」
「なぜ」
「昼だった。薬で鈍ってた。光が強かった。影止めで足を押さえられた」
「それだけか」
戒十は黙る。
シンは待つ。
その待ち方が嫌だった。
答えが出るまで、逃がさない。
教師のようで、尋問官のようでもあった。
「迷ったから」
戒十は低く言った。
「薬を飲むか、飲まないか」
「なぜ迷った」
「影を黙らせたかった。でも、逃げるには影が必要だった」
「正しい」
シンは短く言った。
戒十は顔を上げる。
「正しい?」
「状況判断としては正しい。問題は、判断が遅いことだ」
「初めて囲まれたんですけど」
「だから訓練する」
シンは天井の照明を操作した。
部屋の光源が三つ点く。
戒十の影が三方向へ分かれた。
左後方。
右前方。
足元へ短く。
それぞれ濃さが違う。
「数えろ」
「何を」
「光源」
「三つ」
「影の数」
「三つ」
「一番濃い影は」
「右前方」
「動きやすい影は」
「……左後方?」
「違う。濃さではない。逃げ道と重なる影だ」
シンは床の黒い線を指差した。
「影が濃くても、壁へ向かって伸びていれば使えない。薄くても、逃げ道へ伸びていれば使える。自分の影がどこにあるかを見ずに動くな」
「そんなの、いちいち確認してたら遅れる」
「確認を癖にしろ。呼吸と同じにする」
「戦闘訓練じゃないんですか」
「戦闘は後だ」
「後があるんだ」
「ある。だが今のおまえに必要なのは、勝つことじゃない。被害を出さないことだ」
その言葉はまっすぐだった。
慰めもなく、過剰な非難もない。
ただの優先順位。
戒十はそれが余計に腹立たしかった。
シンは床の中央から離れ、部屋の端へ置かれたベンチを指した。
「次。あそこに座れ」
「何をするんですか」
「血の匂いを申告する練習だ」
戒十は顔をしかめた。
「何ですか、それ」
「そのままの意味だ」
シンは壁際の冷蔵庫のような保管庫を開けた。
中から、小さな密閉容器を取り出す。
容器の中身は見えない。
だが、蓋が閉じていても、戒十にはわかった。
血だ。
処理済みの保存血。
冷たい匂い。
鉄。
薬品。
身体の奥が、かすかに反応する。
影固定剤を飲んでいるせいで、反応は弱い。
それでも、喉が少し鳴った。
シンは容器を机の上へ置いた。
「近づけ」
「嫌です」
「近づけ」
「何の意味があるんですか」
「他人に近づく前に、自分が何へ反応しているか申告するためだ」
「普通に変質者扱いされるでしょ。『血の匂いがします』って」
「言い方は選べ。だが言え」
「誰に」
「同伴者、管理者、相手本人。必要ならその場の全員」
「無理です」
「無理でもやる」
「やらなかったら?」
「誰かを噛む可能性が上がる」
戒十は黙った。
シンは続ける。
「おまえはまだ自分の渇きを恥ずかしいものとして隠そうとしている。隠した渇きは遅れて暴れる。匂いを感じた時点で言え。『血の匂いがする。距離を取る』。それだけで被害は減る」
「僕は人を噛んだりしない」
「今はな」
「ずっとしない」
「根拠は」
「僕がそう決めてる」
「おまえの影は同意しているか」
言葉が止まった。
足元の影が、わずかに揺れた気がした。
シンは見逃さない。
「ほらな」
「今のは違う」
「違うと証明できないなら、手順を守れ」
戒十はベンチへ近づいた。
血の匂いが強くなる。
喉が鳴る。
自分でそれが聞こえた。
嫌悪感と渇きが同時に来る。
薬のせいで感情は鈍いのに、身体だけが欲しがっている。
それが気持ち悪い。
シンが言う。
「声に出せ」
戒十は唇を結んだ。
リサが壁際から、プリンのスプーンを持ったまま言った。
「最初は恥ずかしいよねえ。でも言わないほうが後で恥ずかしいことになるよ。あたし、昔それで隣の人の指に噛みつきかけたことあるし」
「さらっと怖い話をしないでください」
「未遂だよ。未遂」
「未遂ならいいわけじゃない」
「だから申告するの」
戒十は深く息を吸った。
血の匂いが、肺へ入る。
口に出す。
それだけだ。
それだけが、やけに難しかった。
「……血の匂いがする」
声は小さかった。
シンはすぐに言う。
「続けろ」
「距離を取る」
「誰から」
「……人から」
「具体的に」
「近くにいる人から」
「自分が何をする」
「壁側に寄る。手を見える位置に置く。影を踏まない。必要なら、薬を飲む」
「いい」
初めて、シンの声がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
褒められたわけではない。
ただ、手順として合格しただけ。
それでも、戒十の胸の奥に小さな何かが引っかかった。
リサが軽く拍手する。
「おー、初申告。えらい」
「子ども扱いしないでください」
「実際、離影者としては生後二日くらいだし」
「その数え方やめてください」
「じゃあ初心者」
「それも嫌だ」
「わがまま」
リサの軽口に、戒十は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
その瞬間、シンが次の照明を点けた。
光源が五つに増える。
影が複雑に分かれる。
戒十の足元で、左手の影だけが一瞬遅れて動いた。
「次」
シンは容赦なく言った。
「部分獣化が始まったときの退路を決める」
◇
訓練は、戦うためのものではなかった。
少なくとも、戒十が想像したようなものではない。
拳を振るう方法。
影の爪を出す方法。
屋根へ跳ぶ練習。
そういうものは一切なかった。
シンがやらせたのは、地味で、面倒で、屈辱的な確認ばかりだった。
部屋へ入ったら、光源の数を数える。
強い光、弱い光、動く光、反射光。
窓の有無。
鏡やガラスの位置。
自分の影がどこへ伸びているか。
左手の影が肉体より先に動いていないか。
人と会話するときは、相手の影を踏まない。
血の匂いを感じたら申告する。
喉が渇いたら、その場を離れる。
手の爪が硬くなる、歯が疼く、左手が熱くなる、視界の端が黒くなる。
そのうち二つ以上が出たら、退路を選ぶ。
退路は、出口ではなく、人の少ない方向。
できれば光量が安定している場所。
完全な暗闇には逃げ込まない。
人気のない場所へ行く場合は、同行者へ位置を送る。
暴走しそうになったら、拘束されることへ同意する。
これが一番、戒十には受け入れがたかった。
シンは訓練室の中央で、一本の黒いベルトを見せた。
普通の拘束具ではない。
内側に細い金属糸が通っている。
影止めほど強制的ではないが、影の動きを鈍らせるものらしい。
「手首用だ。自力で外せる強度ではない」
「それを自分でつけろって?」
「違う。暴走時に、こちらが拘束することへ事前に同意しろ」
「絶対嫌です」
「なら、暴走時に同意を取る必要がある」
「そのとき聞けばいい」
「そのときのおまえは、答えられない可能性がある」
「僕は答えます」
「保証は」
「またそれですか」
「保証がなければ、手順で補う」
「僕を信用していないんですね」
声が、思ったより鋭く出た。
訓練室の空気が少しだけ張る。
リサもプリンの手を止めた。
シンは黒いベルトを持ったまま、戒十を見た。
「そうだ」
即答だった。
戒十の胸が熱くなる。
薬で鈍っていたはずの怒りが、少しだけ膜を破った。
「少しくらい否定したらどうですか」
「嘘になる」
「僕は、好きでこうなったわけじゃない」
「知っている」
「昨日から勝手に噛まれて、追われて、捕まりかけて、連れてこられて、薬を飲まされて、今度は拘束に同意しろ? 僕にだって限界はある」
「限界があるから手順を作る」
「手順手順って、僕は機械じゃない!」
叫んだ瞬間、照明がわずかに揺れた。
いや、揺れたように見えた。
足元の影が濃くなる。
左手の影が、床の上で爪を立てるように歪む。
シンは動かない。
ただ、刀の柄に手を置いた。
その動作を見て、戒十の怒りがさらに膨らむ。
「ほら、すぐそれだ。結局、僕を押さえつける準備しかしてない」
「必要だからだ」
「僕が何もしてなくても?」
「今、影が動いた」
「怒っただけだ」
「怒るなとは言っていない。怒ったとき、影が何をするかを見ろと言っている」
シンの声は荒くならない。
それがまた腹立たしい。
戒十は左手を握りしめた。
影の爪が床へ沈む。
黒い線が、床のマーキングをわずかになぞる。
リサが立ち上がろうとしたが、シンが視線だけで制した。
シンは一歩、戒十へ近づく。
「制御できないおまえを信用する理由がない」
冷たい言葉だった。
だが、切り捨てる声ではなかった。
「戻ろうとしているおまえは信用する」
戒十は息を止めた。
足元の影も、わずかに動きを止める。
シンは続ける。
「逃げずにここにいる。申告の練習をした。光源を数えた。薬を乱用したことを隠そうとして、結局顔に出した。どれも不十分だが、戻ろうとしている証拠だ」
「それで、信用してるって?」
「制御できない部分は信用しない。戻ろうとする意志は信用する」
「都合よく分けるんですね」
「分けなければ、おまえ全体を信用しないことになる」
戒十は言葉を失った。
シンは黒いベルトを机へ置いた。
「人は、全部を信用するか、全部を疑うかだけじゃない。危険な部分には手順を置く。戻ろうとする部分には役割を渡す」
「役割?」
「自分の危険を申告する役割だ。おまえにしかできない」
「僕が僕を通報するってことですか」
「近い」
「嫌すぎる」
「嫌でもやれ」
シンはそこだけ一切譲らなかった。
戒十は唇を噛みそうになり、すぐにやめた。
血を出すな。
今は血の匂いを作るな。
その判断ができたことに、自分で気づく。
そして、それをシンも見ていた。
「今のはいい」
「何が」
「噛む前に止めた」
「……見すぎです」
「見ると言った」
リサがようやく口を挟む。
「シン先生、怖いけどちゃんと見てるからね。嫌なくらい」
「嫌です」
「うん、わかる」
「わかるなら何とかしてください」
「シンのこういうところは、あたしにもどうにもならないかなあ」
リサは肩をすくめた。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「でもね、戒十くん。シンが本当に信用してない相手には、訓練なんてしないよ」
戒十はシンを見る。
シンは否定しなかった。
肯定もしない。
ただ、次の照明パターンを設定する。
「休憩は終わりだ」
「してません」
「怒鳴る元気があった」
「それを休憩扱いするな」
「次は同意手順だ」
戒十は露骨に顔をしかめた。
「まだやるんですか」
「やる。言葉で確認する。おまえが暴走し、第三者へ危害を加える可能性があると判断された場合、影縫い、拘束具、影固定剤の強制投与を受け入れる。言え」
「嫌です」
「言え」
「命令ですか」
「訓練だ」
「同じに聞こえる」
「違う。命令は俺が責任を持つ。訓練はおまえに責任を戻す」
その言葉が、また戒十の胸へ重く落ちた。
責任。
逃げたかった言葉。
昨日の路地。
中学生のころの教室。
知っていたのに動かなかった過去。
影が勝手に動いた現在。
どちらも、責任の置き場が曖昧だった。
シンは、その曖昧さを許さない。
戒十は深く息を吸った。
血の匂いはしない。
光源は四つ。
影は三本。
一番濃い影は左後方。
退路は入口側。
リサは壁際。
シンは正面。
自分の左手は、まだ肉体と同じ速度で動いている。
確認する。
それだけで、少しだけ足元が戻ってくる。
「僕が暴走して、誰かを傷つける可能性があると判断された場合」
戒十は言った。
声は低い。
だが、震えてはいなかった。
「影縫い、拘束具、影固定剤の投与を受け入れる」
「強制投与」
「……強制投与を受け入れる」
「誰の判断で」
「管理者」
「違う」
シンは即座に言った。
「現場で最も近くにいる、状況を判断できる者。管理者とは限らない。リサ、俺、医師、場合によっては水城純」
戒十の顔が変わった。
「純を巻き込むな」
「すでに巻き込んでいる」
「違う」
「昨日、影が彼女へ言葉を送った」
戒十は息を呑む。
シンは続ける。
「放課後、彼女の前で消えた。今日、彼女を突き放した。おまえの影が彼女へ反応しているなら、彼女は最も危険な距離にいる」
「だから離れてる」
「離れ方が雑だ」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
「言うことを決めてから離れろ。何も言わずに突き放せば、相手は近づいて確認しようとする。危険を増やすだけだ」
戒十は反論できなかった。
純はそういう人間だ。
何も言わなければ、終わりにせず、確かめに来る。
自分がそれを一番よく知っている。
シンは机の上の黒いベルトを指で押した。
「安全のために距離を置くなら、理由を渡せ。全部でなくていい。『今は近づくと危ない』。それだけでも違う」
「そんなこと言ったら、もっと心配する」
「心配させずに安全を守る方法はない」
それは、乱暴で、正しかった。
戒十は目を伏せる。
薬の冷たさの下で、ようやく鈍い痛みが戻ってくる。
純の顔。
傷ついた表情。
紙パックの紅茶。
放っておく、と言った声。
自分が何をしたのか、少し遅れて理解が追いつく。
左手の痣が熱を持った。
影の声が、今度は責めるようにではなく、低く笑うように響く。
ほら、やっと痛がった。
戒十は足元を睨んだ。
「黙れ」
シンが刀に手をかける。
戒十はすぐに言った。
「影声です。血の匂いはありません。左手が熱い。でも、爪は出てない。退路は入口側」
言い終えてから、自分でも驚いた。
言えた。
手順として。
リサが小さく笑う。
シンは刀から手を離した。
「いい」
短い一言。
それだけだった。
だが、今度の「いい」は、さっきより少しだけ重かった。
戒十は息を吐いた。
訓練室の照明が一段暗くなる。
影が少し濃くなる。
しかし、左手の影は動かなかった。
少なくとも、今は。
シンは床の線を指差す。
「もう一度。光源の数」
「四つ」
「影の数」
「三本」
「一番危険な影は」
「左後方。入口に近いけど、リサさんのほうへ伸びてる」
「退路は」
「入口ではなく、右のフェンス側。人がいない」
「血の匂いは」
「ない」
「影声は」
「あります」
「内容は」
戒十は一瞬、ためらった。
それでも言った。
「僕を責めてる」
「おまえはどうする」
「聞いても、すぐ動かない。光源を確認する。左手を見る。必要なら申告する」
「よし」
シンはうなずいた。
リサが壁際で、今度は茶化さずに見ていた。
戒十は足元の影を見下ろす。
影は、黙っている。
完全に従ったわけではない。
そこにいる。
声もある。
怒りもある。
嫉妬も、独占欲も、見たくない感情も、きっとそこにある。
だが、それを存在しないものとして薬で押し潰すだけでは、昼の光の下で逃げられなくなる。
それも、今日知った。
戒十は、まだシンを信用していない。
リサの隠し事も許していない。
VIOLET DRAGONに管理されるつもりもない。
それでも、今この瞬間、自分の影の位置を確認することだけは必要だとわかっていた。
生きて、学校へ戻るために。
純と話すかどうかを、自分で決めるために。
夜に飲み込まれないために。
そして、昼の光に狩られないために。
シンが次の照明を点ける。
「続ける」
戒十は顔を上げた。
「どれくらい」
「おまえが、自分の影を見る癖をつけるまで」
「一日で終わります?」
「終わらない」
「最悪だ」
「知っている」
シンは同じ調子で答えた。
リサがようやく笑う。
「がんばれ、黒猫くん」
「その呼び方、禁止です」
「訓練中の申告?」
「苦情です」
「はいはい、受理しまーす」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
その緩みの中で、戒十は自分の足元を見た。
影もまた、彼の足元にあった。
肉体より先に動かず。
少しだけ遅れてもいない。
ただ、同じ場所に。
それが安心なのか、不気味なのか、まだわからなかった。
シンの声が飛ぶ。
「光源」
「五つ」
「影」
「四本」
「危険な方向」
「左前方。リサさんの影がないから、距離感を間違えやすい」
「よし」
訓練は続く。
昼の逃亡者だった戒十は、紫色の地下で、自分の影を見る練習を始めた。
それは戦い方ではなかった。
勝ち方でもなかった。
誰かを傷つける前に、自分が危ないと認めるための、最初の手順だった。




