第一節 昼の逃亡者
屋上からどう降りたのか、戒十は今でもはっきり思い出せなかった。
覚えているのは、非常灯の緑。
フェンス越しに見た宵浜の街。
夕闇の中で、自分より先に振り返った影。
そして、足元から聞こえた自分の声。
やっと気づいた。
僕は、ずっとここにいた。
そのあと、自分が何を叫んだのか、叫ばなかったのか。
影がもう一度何か言ったのか。
屋上の扉がどうやって開いたのか。
階段を下りたのか、廊下を歩いたのか、教室へ戻ったのか。
記憶は飛び飛びだった。
気づいたときには、戒十は学校の最寄り駅のホームに立っていた。
バッグは肩にあった。
スマートフォンもポケットに入っていた。
内ポケットには、なくなったと思った影固定剤のアンプルが一本、きちんと戻っていた。
まるで、誰かが丁寧に忘れ物を拾い集めて、元の位置へ戻してくれたみたいに。
それが何より気味悪かった。
純からのメッセージは、五件来ていた。
『戒十?』
『どこ行ったの?』
『体調悪い?』
『先生に言う?』
『返事して』
戒十はホームのベンチに座ったまま、しばらく画面を見つめた。
返信しなければならない。
純は心配している。
放課後に話す約束をしていた。
その直後に自分は消えた。
まともな説明などできるはずがない。
影が勝手に身体を動かして、屋上へ連れていった。
自分の影が自分の声で喋った。
そんなことを打てるわけがない。
戒十は短く返信した。
『ごめん。体調悪くて帰った』
送信した瞬間、既読がついた。
少し遅れて、純から返事が来る。
『今どこ?』
戒十はホームの柱へ頭を預けた。
頭の奥が鈍く痛い。
日没後の視界は鮮明すぎて、ホームの向こう側にある広告の細かい文字まで読めた。電車のブレーキ音。線路の軋み。乗客の足音。改札の電子音。誰かのイヤホンから漏れる音楽。全部が多すぎる。
そして、その奥で、あの声がまだ残っている。
僕は、ずっとここにいた。
違う。
幻聴だ。
影咬の症状。
疲労。
睡眠不足。
血への渇き。
薬の副作用ではない。まだ飲んでいない。
だから、今すぐ飲むべきだ。
戒十は内ポケットからアンプルを取り出した。
黒い小瓶。
VIOLET DRAGONの地下で渡された、影固定剤。
医師は、症状が重なったら飲めと言った。
熱が上がる。
影が肉体より先に動く。
声が聞こえる。
血への渇きが強くなる。
四つのうち二つ以上。
今は、全部当てはまる。
迷う理由はなかった。
戒十は蓋を開けた。
薬液は、甘くも苦くもない匂いがした。
冷たい鉄と、濡れた土と、薄い消毒液を混ぜたような匂い。
喉が拒んだ。
それでも飲んだ。
舌の上に、冷たい膜が広がる。
飲み込むと、胸の奥からゆっくり温度が下がっていった。
左手の疼きが弱まる。
耳に入っていた音が、一枚ずつ布で覆われるように遠くなる。
視界の輪郭が少し鈍る。
心臓の鼓動も、感情も、同じ速度で遠ざかる。
怖い。
そう思うはずだった。
だが、その怖さすら薄くなった。
戒十はスマートフォンを見た。
純からのメッセージ。
『今どこ?』
返信欄を開く。
『駅。帰る』
打つ。
送信。
すぐ既読。
『迎えに行こうか?』
戒十は画面を見つめた。
迎えに来てほしい。
そう思う自分がいる。
いや、いた。
少し前までは。
今は、その感情が濁った水の底へ沈んでいる。
取り出せばあるのかもしれないが、取り出すのが面倒だった。
『いらない』
送信してから、少しだけ胸が痛んだ。
だが、その痛みもすぐに鈍くなる。
純の返信は、しばらく来なかった。
ホームに電車が入ってくる。
白い車体の側面に、戒十の姿が映る。
琥珀色の目は、もう目立たない程度まで戻っていた。
床に落ちた影も、普通の形に見える。
ただ、影の左手だけが、電車の照明を受けても少し濃かった。
戒十はそれを見ないようにして、電車へ乗った。
◇
薬は効いた。
効きすぎるくらいだった。
翌朝、戒十はアラームが鳴る前に目を覚ました。
いつもなら寝不足のまま重い頭を抱えて起きるところだが、身体は妙に静かだった。
静かすぎる。
左手の疼きはある。
だが、遠い。
目の奥の琥珀色も、鏡で見る限りほとんどわからない。
蛍光灯の光も、昨日ほど痛くない。
冷蔵庫の匂いも耐えられる。
世界の音は、普通に近いところまで戻っていた。
それだけなら、良いことのはずだった。
だが、同時に何かが抜け落ちている。
恐怖も、不安も、後悔も、昨日よりずっと薄い。
純へ送った冷たい返信のことを思い出しても、胸がざわつかない。
ざわつかないことに、かろうじて違和感がある。
それだけだった。
戒十は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。
鏡の中の自分は、きちんと動いている。
床の影も、身体に合わせて動く。
喋らない。
動かない。
それでいい。
「幻聴だ」
戒十は鏡の中の自分へ言った。
「薬で抑えられるなら、症状だ。症状なら、対処できる」
声に出すと、少しだけ現実になる。
昨日もそうだった。
自分で名前をつけ、自分で項目に分け、自分で記録すれば、異常は現象になる。
現象なら、怖がらなくて済む。
人格などではない。
自分の一部が声を持ったわけではない。
影は影だ。
暴れるなら抑える。
声が聞こえるなら薬で黙らせる。
それでいい。
戒十は制服へ着替え、机の引き出しからVIOLET DRAGONの名刺を取り出した。
連絡はしない。
代わりに、残りの影固定剤を数えた。
昨日渡された分は、緊急用として三本。
一本は飲んだ。
残り二本。
医師は、乱用するなと言っていた気がする。
副作用。
倦怠感。
感情鈍麻。
眠気。
それも症状のうちだ。
この程度なら、問題ない。
少なくとも、影が勝手に喋るよりはましだ。
戒十は二本のうち一本を内ポケットへ入れ、もう一本をバッグの底へ入れた。
玄関を出る前に、母のメモへ目が行った。
『今日は早めに帰ります。夕食、いる?』
珍しい。
母が早く帰る。
以前なら、少し嬉しかったかもしれない。
今は、面倒だと思った。
食事の匂い。
会話。
顔色を見られること。
左手のサポーター。
説明しなければならないことが増える。
戒十は付箋の端へ短く書いた。
『いらない。外で食べる』
嘘だった。
外で食べる予定などない。
だが、母と食卓を囲むより、ずっと楽だと思った。
◇
学校へ着くと、純は教室の前で待っていた。
昨日と同じように、窓の光が直接当たらない場所。
その気遣いに、戒十は気づいた。
気づいたが、心があまり動かなかった。
「おはよう」
純が言った。
「おはよう」
戒十は普通に返した。
自分でも驚くほど、平坦な声だった。
純はすぐに眉を寄せる。
「昨日、帰ったあと大丈夫だった?」
「大丈夫」
「またそれ」
「実際、大丈夫だったから」
「じゃあ、何で放課後いなくなったの」
「体調が悪かった」
「だから、それをちゃんと話そうって言ったんだよね」
「今は平気」
「平気かどうかだけを聞いてるんじゃない」
純の声には、少し怒りが混ざっていた。
昨日の返事。
駅からの短いメッセージ。
迎えを断ったこと。
彼女が傷ついたのはわかる。
わかるのに、胸の奥へ届かない。
ガラス越しに見ているようだった。
「水城」
戒十は言った。
「今日は普通にしていたい」
純が目を瞬かせる。
「普通に?」
「授業を受けて、帰る。それだけでいい」
「昨日のことは?」
「何もなかった」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、体調が悪かった。それで終わり」
「終わらないよ」
「水城が終わらせたくないだけだろ」
言った瞬間、純の顔が固まった。
戒十は自分の言葉を聞いていた。
ひどい言い方だ。
わかる。
けれど、言い直す気力が出てこない。
薬のせいだ。
そう思った。
だが、薬がなければ、もっとひどいことになっていたかもしれない。
影が勝手に純へ手を伸ばしたかもしれない。
なら、これでいい。
傷つけても、近づけるよりはましだ。
純は唇を結んだ。
「私が、面倒なことをしてるって言いたいの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、どういう意味?」
「心配しなくていいって意味」
「心配するかどうかは、私が決める」
「その心配が負担になることもある」
また、言ってしまった。
純の表情が、今度ははっきり傷ついたものになる。
戒十はそれを見て、何も感じなかったわけではない。
胸の奥がかすかに痛んだ。
しかし、その痛みはすぐ薬の冷たさに沈んだ。
「……わかった」
純は小さく言った。
「今日は、普通にするんだね」
「うん」
「じゃあ、普通にする」
純はそれ以上何も言わず、教室へ入っていった。
戒十はその背中を見送る。
背中が小さく見えた。
追うべきだ。
謝るべきだ。
昨日のことはまだ言えないとしても、今の言い方は違ったと伝えるべきだ。
そういう判断だけは浮かぶ。
感情がついてこない。
そのとき、足元で声がした気がした。
冷たいね。
戒十は床を見た。
自分の影が短く落ちている。
午前の光の下では、影は薄い。
教室の蛍光灯と窓からの光で、輪郭も曖昧だ。
それでも、左手の部分だけが少し濃い。
戒十は奥歯を噛んだ。
幻聴。
薬が足りない。
そう結論づけるのは簡単だった。
戒十は廊下の端へ行き、人目を避けて内ポケットからアンプルを取り出した。
残り二本のうちの一本。
今朝飲む必要はないはずだった。
だが、声がした。
それなら必要だ。
用量など知らない。
医師の指示も曖昧だった。
症状が出たら飲む。
それだけだ。
戒十は薬を飲んだ。
喉を通った瞬間、身体の内側からさらに温度が下がる。
影の声は消えた。
胸の痛みも薄くなる。
純の背中を思い出しても、何も動かなくなった。
それでいい。
戒十は自分にそう言い聞かせ、教室へ入った。
◇
白昼局の観測室には、窓がなかった。
壁も天井も、白い。
蛍光灯ではない。
昼光に近い波長へ調整された人工照明が、室内を均一に満たしている。
影ができにくい部屋だった。
机は白。
椅子は灰色。
床には光を反射する薄い樹脂コーティング。
人間が立っても、影は足元へ薄く滲む程度にしか落ちない。
その部屋で、三人の職員がモニターを見ていた。
画面には、高架下の監視映像が映っている。
雨の夜。
画質は荒い。
ノイズも多い。
だが、そこに映る少年の動きは確認できた。
制服姿。
カメラを持った高校生。
彼が高架下の柱へ近づく。
足元の影が、肉体より一瞬先に伸びる。
映像が乱れる。
黒いノイズ。
街灯が消える。
数秒後、灯りが戻る。
少年は左手を押さえている。
監視員のひとりが、映像を止めた。
「高架下の異常停電、黒猫型の目撃通報、同時刻に影害反応。該当者はこの少年でほぼ確定です」
別のモニターには、路地の防犯カメラ映像が映っていた。
若い男が壁へ叩きつけられる瞬間。
画面の端に、一瞬だけ不自然な影が映る。
少年の姿はほとんどブレている。
だが、影だけが濃く残っていた。
「こちらは昨夜の路地事件。被害男性は右腕の一時麻痺。筋断裂、神経損傷なし。本人は『黒い腕に掴まれた』と証言。現場の女性も同様の証言をしています」
「実体傷ではなく影傷か」
奥に座る男が言った。
白昼局実働三課の主任、灰田だった。
四十代半ば。
短く刈った髪。
薄い灰色のスーツ。
目元には、常に眠っていない人間特有の乾きがある。
彼はモニターの少年を見つめ、机の上の資料をめくった。
「氏名は」
「三倉戒十。十七歳。宵浜市立北陵高校二年。目立った非行歴なし。写真部所属ですが活動頻度は低い。夜間に市内を単独で撮影することが多いようです」
「家庭は」
「両親とも勤務時間が不規則。夜間不在が多い。監視対象としては接触しやすい部類です」
「VIOLET DRAGONとの接触は」
「昨夜、旧市街方面へ移動したあと、一時的に監視ロスト。周辺カメラの死角に入っています。位置から見て、接触した可能性が高い」
灰田は小さく舌打ちした。
「紫の連中か」
職員のひとりが、別のデータを表示する。
「匿名提供の影紋解析値です。通常の黒猫型落影による影咬とは一致しません。混入率が高すぎます」
「匿名提供?」
「はい。今朝、局内共有サーバーへ投げ込まれました。発信経路は複数回偽装されていますが、情報精度は高いです」
「罠の可能性は」
「あります。ただ、映像データと現場反応値には整合します」
灰田は資料を閉じた。
「目的は何だ」
誰もすぐには答えなかった。
白昼局の人間は、影害を処理する。
昼の社会から、夜の異常を切り離す。
それが仕事だった。
だが、情報を流した者の目的は、必ずしも処理ではない。
灰田はそれを知っている。
影を利用しようとする者もいる。
影を隠そうとする者もいる。
影に名前を与えようとする者もいる。
そして、白昼局を使って誰かを追い詰め、その反応を観察する者もいる。
「三倉戒十を即時処分対象にするには早い」
灰田は言った。
「ただし、放置はできない。日没後は紫の連中に取られる。動くなら昼だ」
「保護名目での接触ですか」
「保護に応じるならそれでいい。抵抗するなら拘束する」
「学校周辺で?」
「一般生徒へ影害が及ぶ前に済ませる。下校時、人気の途切れる場所で包囲。照射具と影止めを用意しろ」
職員たちがうなずく。
灰田は再びモニターを見る。
画面の中の少年は、雨の高架下で左手を押さえている。
十七歳。
まだ子どもだ。
だが、影害は年齢を選ばない。
怪物になる前に止める。
そういう言葉で、自分たちは何度も誰かを昼の側へ引きずり戻してきた。
戻せなかった者もいる。
戻すべきではなかった者も、たぶんいる。
灰田は立ち上がった。
「現場へ出る。処分ではない。第一目的は拘束、第二目的は影紋確認。殺傷許可は出さない」
「了解」
職員たちが動き出す。
白い部屋の中で、少年の映像だけが雨に濡れていた。
◇
同じころ、常盤再生医療財団の最上階では、昼の光が厚いガラスを通して白く広がっていた。
宵浜湾を見下ろすその部屋には、余計な物がほとんどない。
白い机。
観葉植物。
壁一面の書棚。
奥には、完全遮光の扉で隔てられた研究区画。
窓際に立つ男は、都市の昼を見下ろしていた。
黒瀬理人。
財団の理事長として知られる男。
だが、夜の古い場所では、別の名で呼ばれることもある。
夜の王。
彼はタブレットに表示された白昼局のログを見ていた。
三倉戒十。
黒猫型落影による影咬。
進行速度、異常。
VIOLET DRAGON接触、推定。
白昼局実働三課、追跡開始。
黒瀬は薄く笑った。
処分させるつもりはなかった。
それでは意味がない。
潰してしまえば、観察は終わる。
必要なのは圧力だ。
昼の光の下で、肉体人格がどこまで自分を保てるのか。
薬で影人格を押し込めたとき、どの反動が出るのか。
外敵に包囲された際、影は肉体を守るのか、肉体を奪うのか。
そして、純粋な恐怖ではなく、他者を巻き込みたくないという感情が、どちらの人格を強くするのか。
それを見たかった。
黒瀬はタブレットの画面を閉じた。
背後の机には、高架下で抽出された影紋の解析図が表示されている。
その一部に、黒い王冠のようなパターンが浮かんでいた。
「君が選んだのか」
黒瀬は誰にともなく呟いた。
「それとも、君を選ばせられたのか」
答える者はいない。
部屋の白い床に、黒瀬の影は薄く落ちていた。
その影は、光の角度に合わせて正しく伸びている。
正しく。
あまりにも正しく。
黒瀬は窓の外へ視線を戻した。
「見せてもらおう。昼の少年が、夜の自分をどこまで拒めるのか」
彼の声は穏やかだった。
実験の開始を告げる声にしては、あまりにも。
◇
学校での一日は、ひどく長かった。
薬のせいで、感覚は鈍っている。
それでも、完全に普通にはならない。
蛍光灯の光は平気になった。
しかし、平気になったぶんだけ、眠気が重い。
教師の声は聞こえるが、意味が膜の向こうにある。
ノートを取る手は動く。
だが、自分の手ではないみたいだった。
周囲の感情も遠い。
教室のざわめき。
笑い声。
苛立ち。
退屈。
それらを聞き分ける力は弱まっている。
代わりに、自分の感情まで遠くなった。
昼休み、純はいつものように隣へ来なかった。
少し離れた席で、別の女子と話している。
その横顔を見る。
気まずい。
たぶんそう感じるべきだった。
けれど、感情は鈍い。
ただ、胸の中に小さな空白がある。
その空白を、影の声が埋めようとする。
嫌われた。
戒十はペンを握る。
幻聴だ。
追い払ったのは君だ。
黙れ。
泣きそうだった。
黙れ。
近くに来てほしいくせに。
戒十は机の下で左手を強く握った。
爪が掌へ食い込む。
痛みは鈍い。
薬のせいで、痛みまで遠い。
影の声は、それ以上聞こえなかった。
だが、完全に消えたわけではない。
水の底で、誰かが笑っているような気配だけが残る。
放課後。
戒十は誰よりも早く教科書をバッグへ入れた。
純がこちらを見る。
声をかけようとしている。
それがわかった。
わかった瞬間、戒十は目を逸らした。
会話をすれば、何かを言わなければならない。
謝る。
説明する。
嘘をつく。
どれも面倒だった。
そして、面倒だと思ってしまう自分が、また少し嫌だった。
「戒十」
純の声。
戒十は立ち止まった。
振り返る。
純は席から立っていた。
手には、昨日渡してくれた無糖紅茶と同じ紙パックがある。
「今日も、帰るの?」
「帰る」
「話は?」
「また今度」
「昨日もそうなった」
「昨日は体調が悪かった」
「今日は?」
「普通」
「普通なら話せるよね」
純の言葉は正しい。
だが、正しい言葉ほど、今の戒十にはうるさく感じた。
「水城」
「何」
「今は、本当に放っておいてほしい」
純の指が紙パックを握る。
少しだけ、容器がへこんだ。
「……わかった」
彼女は同じ言葉を繰り返した。
朝と同じ。
ただ、今度は声がもっと低かった。
「放っておく」
戒十は何か言おうとした。
だが、言葉が出る前に、純は視線を逸らした。
それで終わりだった。
戒十は教室を出た。
廊下の窓から差し込む夕方前の光が、床へ薄く伸びている。
まだ日没ではない。
まだ昼の範囲だ。
夜ではないから、影は暴れない。
薬も飲んでいる。
だから大丈夫だ。
大丈夫。
何度も使いすぎた言葉を、また頭の中で繰り返す。
◇
下校路は、いつもより明るかった。
雲が切れ、低い太陽が街全体を白く照らしている。
雨上がりの名残はもう少なく、水たまりもほとんど乾いていた。
戒十は駅へ向かわず、住宅街を抜ける道を選んだ。
純と同じ方向を避けたかった。
誰とも話したくなかった。
薬の眠気が、歩くたびに足元へ絡みつく。
身体は重い。
昨夜のように壁を蹴って跳べる気がしない。
むしろ、昨日までの自分のほうが軽かったのではないかと思うほどだった。
それでも左手の影だけは、時折、足元で不自然に濃くなる。
戒十はそれを踏むように歩いた。
住宅街から少し外れた場所に、小さな児童公園がある。
昼間でも人通りは少ない。
滑り台、ブランコ、鉄棒。
周囲を低いフェンスが囲み、その向こうに古いアパートと駐車場がある。
戒十が公園の横を通りかかったとき、前方に男が立っていることへ気づいた。
灰色のスーツ。
会社員に見えなくもない。
だが、鞄を持っていない。
立ち方が違う。
道を塞ぐ位置に、偶然ではなく立っている。
戒十は足を止めた。
背後から、自転車のブレーキ音がした。
振り返ると、白い作業服の女が自転車を降りている。
さらに、駐車場の脇から別の男が現れた。
同じ灰色のスーツ。
三人。
いや、アパートの階段下にも一人いる。
計四人。
全員、戒十を見ている。
普通の視線ではない。
探していた相手を見つけた目。
戒十の左手が、サポーターの下で冷たくなる。
薬のせいか。
昼の光のせいか。
影は動かない。
前方の灰色スーツの男が、ゆっくりと口を開いた。
「三倉戒十くんですね」
戒十は答えなかった。
逃げるべきだ。
そう判断する。
だが、足が動かない。
身体が重い。
視界も、夜ほど鮮明ではない。
相手の心音も聞こえない。
ただ、昼の光が強い。
白い。
影が薄い。
「私たちは白昼局実働三課です」
男は身分証のようなものを出した。
だが、戒十にはそこに何が書かれているのかよく見えなかった。
光が反射して白く飛んでいる。
「あなたに確認したいことがあります。同行をお願いします」
「警察じゃないですよね」
戒十は言った。
声は思ったより冷静だった。
薬がまだ効いている。
怖さが遅れている。
「警察ではありません。ただし、影害事案に関しては警察より優先権を持ちます」
「影害」
「高架下の異常停電。昨夜の路地事件。黒猫型落影の出現。心当たりがありますね」
戒十は一歩下がろうとした。
背後の女が、鞄から細長い器具を取り出した。
警棒ではない。
白い筒。
先端にレンズのようなものがついている。
それが戒十の足元へ向けられる。
光が出た。
強い白色光。
戒十の影が、足元でさらに薄くなる。
左手の影が震えた。
だが、動けない。
「っ……」
目が痛い。
光が強すぎる。
夜の力が出ない。
いや、夜ではない。
まだ太陽が出ている。
街全体が昼の側にある。
昨夜の屋根を越えた身体はない。
黒猫の群れを弾いた影も、薬と昼光で押し込められている。
今の自分は、ただの高校生に近い。
それどころか、薬のせいで普通より鈍い。
前方の男が一歩近づく。
「抵抗しないでください。あなたを処分するためではありません」
「それ、信用しろって?」
「保護と調査です」
「VIOLET DRAGONと同じこと言うんですね」
男の眉がわずかに動いた。
「紫と接触済みか」
「答える義務は?」
「あります」
「ないと思いますけど」
戒十は横へ動こうとした。
その瞬間、アパート階段下の男が手元の装置を投げた。
薄い円盤状のもの。
地面へ落ちると、白い糸のような光が広がった。
戒十の足元の影へ絡みつく。
痛みはない。
だが、足が重くなる。
影を押さえられている。
シンの影縫刀とは違う。
もっと機械的で、冷たい拘束。
戒十は歯を食いしばる。
「何なんだよ、おまえら」
「昼の安全を守る機関です」
「安全って、誰の」
「一般市民の」
「僕は一般市民じゃないのか」
男はすぐには答えなかった。
その沈黙で十分だった。
戒十は笑いそうになった。
薬のせいで、怒りも恐怖も鈍い。
それでも、胸の奥で何かが黒く波打った。
ほら。
声がする。
だから言った。
戒十は左手を押さえた。
幻聴。
薬で消したはずだ。
だが、影は完全には黙っていない。
僕を黙らせたから、走れない。
うるさい。
昼だから力が出ないんだ。
薬のせいだ。
うるさい。
純を突き放して、薬を飲んで、いい子のふりをしたからだ。
黙れ。
前方の男が、さらに近づく。
「三倉戒十くん。最後に言います。同行してください」
「断ったら?」
「拘束します」
「最初からそのつもりだろ」
「あなた次第です」
戒十は周囲を見た。
四人。
光源。
影止めの円盤。
公園の低いフェンス。
駐車場。
アパートの階段。
逃げ道はある。
夜なら。
昨夜の身体なら、フェンスを越え、アパートの壁を蹴り、屋根へ逃げられた。
黒猫たちから逃げたように。
だが、今は昼だ。
光が強い。
影が薄い。
薬で感覚が鈍い。
足が重い。
戒十は初めて理解した。
夜、自分は追われるだけの獲物ではなかった。
追いかけてくるものと戦えるだけの力があった。
だが、昼は違う。
昼の街では、自分の影は短く、弱い。
白い光の下で、怪物ではなく、怪物として捕まえられる側になる。
狩られる側。
その言葉が、頭の中へ落ちた。
前方の男が手を上げる。
背後の女が白い筒を構え直す。
アパート脇の男が、二枚目の円盤を取り出す。
戒十は内ポケットへ手を伸ばした。
影固定剤。
もう一本。
飲めば、影はさらに黙る。
飲まなければ、暴れるかもしれない。
だが、今は暴れてくれなければ逃げられない。
その矛盾が、一瞬だけ判断を止めた。
その一瞬で、白い光が強くなった。
足元の影が、床へ押し潰される。
左手の痣が焼けるように痛んだ。
声が、今度ははっきり聞こえた。
自分の声。
すぐ近くで。
「だから、昼に逃げるなって言ったんだ」
戒十は息を呑んだ。
白昼局の男たちが一斉に動く。
昼の光が、彼の影を薄く削っていく。
戒十はようやく足を踏み出そうとした。
だが、その足は、自分が思ったよりずっと重かった。




