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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第一章 夜のはじまり
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第七節 僕より先に

 帰り道に、黒猫は現れなかった。


 旧市街の坂を下り、錆びた看板の並ぶ路地を抜け、深夜営業のコインパーキングの前を通り過ぎても、屋根の上から金色の目が覗くことはなかった。


 それなのに、戒十は何度も振り返った。


 街灯の下。


 曲がり角。


 自動販売機の横。


 マンションの植え込み。


 車止めの影。


 何もいない。


 だが、何もいないから安心できる、という状態ではもうなくなっていた。


 黒猫型の落影。


 リサはそう呼んだ。


 猫ではない。


 影の残骸。


 肉体を持たないもの。


 そんな説明をされたところで、実感は追いつかない。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。


 あれは、自分を追ってきた。


 家の外廊下まで。


 五階の窓の外まで。


 自分の影を目印にするように。


 戒十はポケットの中の小さなアンプルを指で押さえた。


 影固定剤。


 黒い瓶は冷たかった。


 ガラス越しに薬液の重さが伝わる。


 これを飲めば、症状は抑えられる。


 完全には治らない。


 影が人格を持つ可能性も、消えるわけではない。


 リサはそう言った。


 シンは、次に他人を傷つけたら選択肢は減ると言った。


 どちらの言葉も、耳の奥に残っている。


 リサの軽い口調より、シンの硬い声より、もっと嫌なのは、彼らの言葉を完全には否定できないことだった。


 戒十は、路地で男の影の喉へ指をかけた感覚を思い出す。


 自分の影の指。


 自分の肉体では触れていない。


 それなのに、男の喉が詰まった。


 もし、あの女性の悲鳴がなければ。


 もし、自分が左手を殴らなければ。


 もし、止められなければ。


 シンの言葉は脅しではなく、単なる事実になる。


「……くそ」


 小さく吐き捨てた声は、夜道に吸われた。


 家へ近づくにつれて、いつもの住宅街の匂いが戻ってくる。


 濡れたアスファルト。


 排水溝。


 誰かの家の柔軟剤。


 閉店後の弁当屋の油。


 遠くのコンビニのホットスナック。


 それらは相変わらず強く感じる。


 だが、VIOLET DRAGONの地下で嗅いだ血の匂いに比べれば、どれも薄かった。


 そのことに気づき、戒十は唇を噛みそうになって、寸前でやめた。


 血を出すな。


 影に触れさせるな。


 自分へ言い聞かせる。


 マンションの入口には誰もいなかった。


 オートロックを開ける。


 エレベーターへ乗る。


 箱の中の白い照明は少し眩しいが、もう目を閉じるほどではない。


 それは良くなったのか。


 それとも、夜の身体に慣れ始めているのか。


 わからない。


 五階で降りると、外廊下の非常灯が緑色に光っていた。


 さっき、黒猫たちがいた場所。


 ドアの隙間から影が入り込んできた場所。


 床には何の痕跡もない。


 爪痕も、黒い煤も、影の染みも。


 ただのマンションの廊下だった。


 それが逆に不自然に思えた。


 戒十は玄関の鍵を開け、室内へ入る。


 靴を脱ぐ前に、背後を確認した。


 廊下には誰もいない。


 猫もいない。


 影だけが、廊下の壁に短く落ちている。


 ドアを閉める。


 鍵をかける。


 チェーンもかける。


 そこでようやく、息を吐いた。


 リビングの明かりはついていなかった。


 父の靴も、母の靴もまだない。


 時計を見ると、日付が変わる少し前だった。


 両親は相変わらず帰っていない。


 そのことに、胸の奥で二つの感情がぶつかった。


 知られずに済む。


 それは安堵だった。


 誰にも見られないまま、汚れた服を脱ぎ、傷を隠し、薬を隠し、今日起きたことを自分だけで整理できる。


 同時に、自分が本当に誰にも見られていないことを突きつけられる。


 それは寂しさに近かった。


 いや、寂しいなどと認めるのは嫌だった。


 ただ、家の空気が冷たかった。


 それだけだ。


 戒十は部屋へ向かった。


 バッグを床へ置き、机の前へ座る。


 まず、VIOLET DRAGONの名刺を机の上へ置いた。


 紫色のロゴ。


 電話番号。


 メッセージ用のアカウント。


 裏面に、リサの丸い字で名前が書かれている。


『リサ』


 その下に、小さく落書きのような竜の絵。


 戒十はしばらくそれを見てから、裏返した。


 次に、影固定剤のアンプル。


 小さな黒い瓶。


 机のライトに透かしても、中の液体は光を通さない。


 薬というより、夜を溶かして固めたような色だった。


 飲まない。


 少なくとも今は。


 そう決めて、引き出しを開ける。


 入れかけて、手が止まった。


 見えない場所へしまうのが、何かを認めることのようで嫌だった。


 かといって机の上に置いておくのも嫌だった。


 結局、戒十はカメラ用の乾燥ボックスの隅へ、名刺と薬を一緒に入れた。


 レンズやフィルターの横に、怪しい店の名刺と黒い薬瓶がある。


 まったく似合わない。


 だが、今の自分には妙に似合っている気もした。


 戒十はカメラを取り出した。


 首から下げたまま走り回ったせいで、ストラップが少し濡れている。ボディの角には、壁に当てたらしい小さな擦り傷が増えていた。


 高架下で撮った写真。


 最初の異常。


 自分がまだ、ただの夜景を撮りに行っただけの高校生だった最後の時間。


 それを確認しなければならなかった。


 パソコンを起動する。


 ファンの音。


 ディスプレイの白い光。


 いつもなら見慣れた起動音が、今夜はやけに遠い。


 メモリーカードを挿す。


 画像フォルダを開く。


 時刻順に並ぶサムネイル。


 駅のホーム。


 雨の商店街。


 純と別れたあとに撮った、濡れた歩道橋。


 高架下へ向かう途中の信号機。


 そして、黒猫がいた場所。


 戒十は呼吸を止めた。


 写真を開く。


 画面に、高架下の夜景が表示される。


 コンクリートの柱。


 雨で濡れた地面。


 頭上を走る線路の鉄骨。


 遠くの車のヘッドライト。


 水たまりに映る白い光。


 構図は悪くなかった。


 むしろ、いつもより良い。


 夜の濃淡がはっきりしている。


 暗い場所が潰れていない。


 雨粒が路面に作った細かな凹凸まで見える。


 だが、黒猫はほとんど写っていなかった。


 いたはずの場所。


 柱の根元。


 そこには、黒い穴のようなものがあるだけだった。


 猫の輪郭ではない。


 目も、耳も、しっぽもない。


 ただ、周囲の光を吸い込むような黒い欠落。


 カメラが黒猫を写せなかったのか。


 それとも、そもそも黒猫という形は、自分の目が勝手に与えていただけなのか。


 戒十は画像を拡大した。


 黒い欠落の周囲に、細いノイズのようなものが走っている。


 雨ではない。


 シャッター速度の問題でもない。


 黒い糸が、画面の内側から滲み出しているように見える。


 戒十は喉を鳴らした。


 次の画像へ進む。


 黒い欠落が少し近い。


 あるいは、自分が近づいた。


 記憶では、あの時、自分は猫へ手を伸ばした。


 肉体の指より先に、影の指が触れた。


 そして噛まれた。


 画像を拡大する。


 戒十の肉体は写っていない。


 カメラを構えている側だから当然だ。


 だが、地面へ伸びた自分の影が写っている。


 街灯と車のヘッドライトに引き伸ばされた、細い影。


 その左手だけが、異様だった。


 手首から先が、噛み取られたように欠けている。


 指がない。


 掌の輪郭が、黒い獣の牙で削られたように崩れている。


 地面は濡れている。


 路面の凹凸も、雨粒も写っている。


 しかし、影の欠けた部分だけが、写真の中で空白になっていた。


 黒いはずの影が欠けているのだから、普通なら地面の模様が見えるはずだ。


 だが、そこには何もない。


 地面のテクスチャすら消えている。


 影の左手が、そこだけ写真から抜き取られていた。


 戒十は自分の左手を見た。


 サポーターの下に、噛み痕がある。


 肉体の傷はほとんど塞がった。


 だが、写真の中の影は、まだ欠けている。


「本当の傷は、こっち」


 リサの声が頭に蘇る。


 影を噛まれた。


 肉体は結果。


 戒十は、パソコンの前でしばらく動けなかった。


 証拠を求めていた。


 夢ではないと確認したかった。


 自分が異常を見たのだと、記録したかった。


 その結果、写真ははっきりと告げている。


 自分の影は、もう普通ではない。


 画面の中で、欠けた左手がこちらへ向けて伸びている。


 助けを求めているようにも見える。


 あるいは、外へ出ようとしているようにも。


 戒十は写真を閉じようとした。


 そのとき、画面の端に何かがあることへ気づいた。


 右端。


 高架下の柱と、暗い壁の境目。


 そこに、影が立っている。


 人の影。


 女の影だった。


 肉体はない。


 影だけ。


 地面に落ちているのではなく、壁に貼りついているのでもない。


 そこに立っている。


 髪の長い女の輪郭。


 裾の長い服のような形。


 片腕が、戒十の影のほうへ伸びている。


 顔はない。


 目もない。


 しかし、見られているとわかった。


 写真の中の女の影は、黒猫ではなく、戒十の影を見ていた。


 いや。


 自分を見ていたのかもしれない。


 見つけた。


 暗闇で聞こえた声が、耳の奥で再生される。


 戒十は椅子を蹴るように立ち上がった。


 ディスプレイが揺れる。


 机の上のカメラが小さく音を立てた。


 息が荒くなる。


 リサは何かを隠していた。


 噛み痕を見たとき、彼女の顔色が変わった。


 医師も何か言いかけて、リサに止められた。


 シンも知っている。


 この女の影も、彼らが隠した何かと関係している。


 そう直感した。


 戒十は名刺を取り出そうとして、乾燥ボックスへ手を伸ばした。


 リサへ連絡する。


 写真を送る。


 何か知っているなら言え、と問い詰める。


 そう考えたところで、手が止まった。


 送ってどうする。


 また店へ来いと言われる。


 地下へ泊まれと言われる。


 薬を飲めと言われる。


 シンに監視される。


 そして、自分の生活が少しずつ地下へ引き寄せられる。


 それは嫌だった。


 だが、何も知らないままも嫌だった。


 戒十は乾燥ボックスを開けず、机へ両手をついた。


 画面の中の女の影を見る。


 写真の端。


 切れかけた場所。


 そこに立っているせいで、全体像はわからない。


 だが、なぜかその影は笑っているように見えた。


 顔がないのに。


 笑っているとわかってしまう。


「誰だよ」


 画面へ向かって呟く。


 返事はない。


 代わりに、足元の影がわずかに動いた。


 戒十は反射的に下を見た。


 部屋の電気は消してある。


 ディスプレイの光と、カーテンの隙間から入る街灯だけが光源だった。


 床の影は、複数に分かれている。


 その中で、左手の影だけが濃い。


 写真の中では欠けていた左手が、今はある。


 ただし、形が少しおかしい。


 指先が長い。


 爪のように尖っている。


 戒十は右手で左手首を掴んだ。


「今は動くな」


 影は動かなかった。


 少なくとも、見ている間は。


     ◇


 結局、戒十はほとんど眠れなかった。


 ベッドへ入っても、目を閉じるたびに写真の端の女が浮かぶ。


 黒猫の形をした欠落。


 噛み取られた影の左手。


 壁際に立つ肉体のない女。


 それらが何度も繰り返される。


 眠りに落ちる寸前、足元から誰かが呼んだ気がして目が覚める。


 スマートフォンを見る。


 純からの新しい連絡はない。


 『明日、話そう』


 その言葉だけが残っている。


 戒十は返信しなかった。


 何と返せばいいかわからなかったからだ。


 朝になっても、瞳の色は完全には戻っていなかった。


 黒目の奥に、わずかに琥珀色が残っている。


 強い光はまだ痛い。


 嗅覚も聴覚も少し鈍ったように感じるが、普通に戻ったわけではない。


 左手の痣はサポーターで隠した。


 影固定剤は、制服の内ポケットへ入れた。


 飲まない。


 ただ、持っていく。


 それだけでも、少し敗北したような気分になった。


 学校へ行くと、純は廊下で待っていた。


 朝の光が窓から入っている場所ではなく、階段の陰に立っている。


 戒十が光を避けることを、もう覚えている。


 そのことに気づいた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。


「おはよう」


 純が言った。


「おはよう」


 戒十はできるだけ普通に返した。


 純はすぐに左手を見た。


 それから、顔。


 目。


 昨夜のメッセージのことを言うかと思った。


 『会いたい』


 勝手に送られた言葉。


 間違えた、と言った言葉。


 純はそれを知っている。


 見ている。


 だが、彼女はすぐにはその話をしなかった。


「寝た?」


「多少」


「多少って、何時間?」


「授業中に寝ない程度」


「それは寝てない人の基準だよ」


「水城基準は厳しい」


「戒十基準が甘い」


 いつものような掛け合い。


 その形を取っているのに、どこか少しだけずれている。


 純は笑わない。


 戒十も笑えない。


「今日、放課後に話せる?」


 純が言った。


 戒十は一瞬だけ迷った。


 放課後。


 夕方。


 日が沈む前。


 夜が来る前。


 話すなら、その時間しかない。


「少しなら」


「少しじゃなくて、ちゃんと」


「ちゃんとの定義が広い」


「逃げないくらい」


「……それは広い」


「戒十」


 名前の呼び方だけで、冗談を続けるなと言われた気がした。


 戒十は視線を逸らす。


「わかった」


「本当に?」


「昨日よりは、本当」


「それ、あまり信用できない」


「僕もそう思う」


 純は少しだけ目を伏せた。


 その顔を見て、戒十は言わなければならないと思った。


 昨夜、会いたいと送ったのは、自分ではない。


 いや、自分でもある。


 影が勝手に送った。


 そんな説明をどうすればいい。


 でも、何かは言うべきだ。


 言おうとして、校内放送のチャイムが鳴った。


 その音が、頭の奥で強く響く。


 戒十は顔をしかめた。


 純がすぐに気づく。


「大丈夫?」


 大丈夫。


 その言葉を言うのは簡単だった。


 だが、もう何度も使いすぎている。


 戒十は少し間を置いてから答えた。


「今は」


 純はその答えに、少しだけ驚いたようだった。


 それから、静かに頷いた。


「じゃあ、放課後」


「うん」


 それだけで、会話は終わった。


 終わったはずだった。


 だが、戒十はその後の授業をほとんど覚えていない。


 黒板の文字は読める。


 教師の声も聞こえる。


 同級生の心音も、昨日ほどではないが拾える。


 しかし、頭の中は別の場所にあった。


 高架下の写真。


 女の影。


 リサが隠した言葉。


 影固定剤。


 純へ話すべきこと。


 話してはいけないこと。


 その境目を、何度も考え直す。


 昼休みには、純が隣の席へ来た。


 いつもなら他愛ない話をする。


 図書委員の当番。


 新しく入った本。


 写真部の幽霊部員ぶり。


 購買のパンが値上がりしたこと。


 だが、その日は会話が続かなかった。


 純も無理に続けなかった。


 ただ、紙パックの飲み物をひとつ戒十の机へ置いた。


「これなら匂い、少ないと思う」


 無糖の紅茶だった。


 戒十はそれを見て、少しだけ困った。


「僕、紅茶派じゃない」


「じゃあ、水よりましなもの派」


「何それ」


「今考えた」


「雑」


「飲まなくてもいいよ」


 純はそう言った。


 戒十はしばらく紙パックを見てから、ストローを刺した。


 一口飲む。


 渋みがある。


 甘くない。


 匂いも強すぎない。


 悪くなかった。


「……飲める」


「よかった」


「別に、頼んでない」


「うん」


「余計なお世話」


「うん」


「何で嬉しそうなんだよ」


「飲めたから」


 純は小さく笑った。


 その笑顔を見たとき、戒十はまた左手が疼くのを感じた。


 影が反応したのか。


 自分が反応したのか。


 もう、すぐにはわからない。


     ◇


 放課後が近づくにつれて、空の色が変わった。


 午後の授業が終わるころ、窓の外には薄い雲が流れていた。


 雨は降っていない。


 だが、空気は湿っている。


 校舎の壁に、夕方の光が斜めに入る。


 校庭の水たまりは昨日より小さくなっているが、まだ残っている。


 そこへ夕日が映り、赤い光が揺れていた。


 戒十は帰り支度をしながら、内ポケットのアンプルを確認した。


 ある。


 冷たい。


 飲むべきか。


 日没が近い。


 夜が来れば、身体がまた変わる。


 影がまた動くかもしれない。


 純と話すなら、その前に飲んでおくべきかもしれない。


 だが、飲めば眠気と感情鈍麻が来ると医師は言った。


 話すために飲む薬が、話すための感情を鈍らせる。


 矛盾している。


 戒十はアンプルを握りしめ、結局、ポケットへ戻した。


 飲まない。


 まだ。


 教室の前方で、純がこちらを見ている。


 放課後に話す約束。


 逃げるな、という視線。


 戒十はバッグを肩へかけた。


 その瞬間だった。


 校舎の明かりが、一瞬だけちらついた。


 蛍光灯が白く瞬き、教室の影が床へばらばらに落ちる。


 生徒たちが軽くざわついた。


「今の何?」


「停電?」


「一瞬じゃね?」


 誰かの声が聞こえる。


 戒十は机に手をついた。


 左手の痣が、突然強く熱を持った。


 焼けるような痛み。


 足元の影が、夕日の方向とは違う角度へ伸びる。


 待て。


 そう思った。


 今は駄目だ。


 純がいる。


 教室に人がいる。


 ここで動くな。


 戒十はポケットへ手を入れ、アンプルを掴もうとした。


 指先が触れる。


 冷たいガラス。


 取り出せ。


 飲め。


 そう判断した瞬間、視界が暗くなった。


 暗いのではない。


 黒い何かが、目の内側から広がった。


 教室の声が遠ざかる。


 純の声が聞こえた気がした。


「戒十?」


 それに返事をしようとした。


 口が動かない。


 身体が軽くなる。


 椅子の感触が消える。


 床の感触も消える。


 自分が立っているのか、座っているのか、わからなくなる。


 最後に見えたのは、純がこちらへ歩き出す姿だった。


 そして、その足元の影へ、自分の影が手を伸ばしかけるところだった。


 やめろ。


 そう叫んだつもりだった。


 声は出なかった。


     ◇


 風が冷たかった。


 最初に戻ってきた感覚は、それだった。


 頬に当たる風。


 髪を揺らす風。


 湿った夕方の匂い。


 コンクリート。


 錆びた金属。


 遠くの排気ガス。


 校庭の土。


 学校の屋上の匂い。


 戒十は目を開けた。


 空が近い。


 薄暗い藍色の空に、夕焼けの赤がまだ少しだけ残っている。


 雲の切れ間が黒く縁取られ、遠くのビルの窓に最後の光が反射している。


 フェンスが目の前にあった。


 高い転落防止フェンス。


 その向こうに、宵浜の街が広がっている。


 校庭。


 住宅街。


 駅前の高いビル。


 遠くの湾岸地区。


 線路沿いの高架。


 すべてが夕闇の中へ沈み始めていた。


 戒十は息を吸った。


 自分がどこにいるのか、ようやく理解する。


 学校の屋上。


 立ち入り禁止のはずの場所。


 普段は鍵がかかっている。


 写真部の撮影で許可を取ったことはあるが、放課後に一人で入れる場所ではない。


「……何で」


 声が掠れる。


 直前まで教室にいた。


 純がいた。


 アンプルを掴もうとした。


 それから。


 何もない。


 階段を上がった記憶がない。


 鍵を開けた記憶もない。


 屋上へ出た記憶もない。


 そもそも、教室からここまで来るには、階段を二つ上がり、管理用の扉を通らなければならない。


 鍵は誰が開けた。


 自分が?


 どうやって。


 戒十は後ろを振り返った。


 屋上の出入口の扉は閉まっている。


 鍵が開いているかどうかは、ここからではわからない。


 だが、扉の近くには誰もいない。


 足元を見る。


 靴は濡れていない。


 汚れもほとんどない。


 走った形跡がない。


 息も乱れていない。


 まるで、気づいたら最初からここにいたようだった。


 だが、内ポケットにあるはずのアンプルはなくなっていた。


 戒十は慌ててポケットを探る。


 ない。


 制服の内側。


 ズボンのポケット。


 バッグ。


 バッグはない。


 教室に置いてきたのか。


 アンプルも。


 スマートフォンも。


 何も持っていない。


 あるのは、自分の身体と、左手のサポーターだけ。


 いや。


 サポーターも半分外れていた。


 黒い痣が、夕闇の中で濃く浮かんでいる。


 噛み痕から伸びた黒い筋は、手首を越え、袖の奥へ消えていた。


 戒十は呼吸を忘れた。


 進んでいる。


 自分の知らない間に。


 自分の意識がない間に。


 影が動いた。


 自分の身体を動かした。


 教室から屋上まで。


 純の前から。


「……純」


 名前を口にした瞬間、胸が冷たくなる。


 自分は何をした。


 教室で意識が途切れる前、影は純の足元へ手を伸ばしていた。


 彼女は無事か。


 周りの生徒は見たのか。


 自分は何かを傷つけたのか。


 確かめなければならない。


 戒十は出入口へ向かおうとした。


 だが、足が動かなかった。


 フェンスへ伸びた自分の影が、地面に濃く落ちている。


 夕日の残光と屋上の非常灯が、戒十の影を長く引き伸ばしていた。


 その影は、フェンスのところまで届いている。


 細長く、痩せた影。


 左手だけが大きく、爪のように尖っている。


 影は、街のほうを向いていた。


 戒十と同じ方向。


 フェンスの向こう、夜になりかける宵浜の街を見ている。


 はずだった。


 次の瞬間、影が振り返った。


 戒十より先に。


 肉体はまだ動いていない。


 首も、肩も、視線も、フェンスのほうへ向いたままだった。


 しかし、地面に落ちた影だけが、ゆっくりと戒十のほうへ顔を向けた。


 影に顔はない。


 目も、口もない。


 それでも、はっきりとわかった。


 見ている。


 戒十を。


 足元から。


 自分の形をした黒いものが、自分を見上げている。


 背筋が冷たくなる。


 逃げようとしても、足が動かない。


 声を出そうとしても、喉が詰まる。


 影の左手が、フェンスから離れる。


 地面を滑るように、戒十の足元へ伸びる。


 夕闇が濃くなった。


 屋上の非常灯が点く。


 緑色の光が床を照らす。


 影がさらに濃くなる。


 戒十はようやく声を絞り出した。


「……おまえ、何なんだ」


 返事は、すぐにはなかった。


 風が吹く。


 フェンスがかすかに鳴る。


 遠くで部活動の笛が鳴った。


 下の校舎から、生徒たちの声がうっすら聞こえる。


 そこにはまだ、普通の学校生活がある。


 だが、屋上だけが切り離されたように静かだった。


 影の口元にあたる部分が、わずかに歪む。


 笑ったように見えた。


 そして、声がした。


 戒十自身の声だった。


「やっと気づいた」


 耳から聞こえたのか、頭の中で響いたのか、わからなかった。


 だが、それは確かに声だった。


 自分の声。


 録音を聞いたときのような違和感はない。


 むしろ、自分が普段聞いている自分の声に近い。


 内側から響く声。


 戒十は一歩退こうとした。


 足がやっと動く。


 だが、影は足元にある。


 どこへ退いても、自分から離れられない。


「喋るな」


 戒十は言った。


 命令のつもりだった。


 だが、声は震えていた。


 影は、もう一度笑ったように歪む。


「僕は、ずっとここにいた」


 その言葉が、屋上の空気を変えた。


 黒猫に噛まれた夜から始まったのではない。


 VIOLET DRAGONの地下で名前をつけられたから生まれたのでもない。


 もっと前から。


 ずっと。


 ここにいた。


 戒十は否定しようとした。


 違う。


 おまえは異常だ。


 黒猫に噛まれてから出てきた。


 落影に追われて、血を吸って、勝手に動くようになった。


 自分ではない。


 そう言いたかった。


 だが、言葉が出ない。


 中学生のころの教室が、脳裏に浮かぶ。


 濡れた雑巾。


 笑い声。


 知ってたんだろ、という声。


 動かなかった自分。


 動きたかった何か。


 純へ送られた「会いたい」。


 路地で男へ飛びかかった影。


 助けたいと思った。


 怒った。


 逃げたくなかった。


 見て見ぬふりをしたくなかった。


 それらは全部、自分の中にあった。


 ただ、言葉にせず、行動にせず、きれいな理屈で蓋をしてきた。


 影は、そこから来た。


 そう理解してしまいそうになる。


 理解したくなかった。


 戒十は左手を握りしめた。


 爪が掌へ食い込む。


 痛みがある。


 血は出ない。


 影の左手も、同じように握られている。


 ただし、ほんの少しだけ先に。


「僕のふりをするな」


 戒十は言った。


 影は答えない。


 非常灯の緑の中で、地面に落ちた黒い輪郭だけが濃く揺れる。


 空の赤が消えていく。


 街の灯りが一つずつ強くなる。


 宵浜の夜が、校舎の上まで上がってくる。


 その夜の中で、戒十は自分の足元を見下ろし続けた。


 影も、戒十を見上げ続けていた。


 どちらも動かなかった。


 ただ、初めて向かい合っていた。


 夜は、もう始まっていた。

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