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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第一章 夜のはじまり
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第六節 紫色の地下

 紫色のネオンは、古い雑居ビルの二階部分に取り付けられていた。


 雨でくすんだ外壁。


 半分錆びた非常階段。


 隣にはシャッターを下ろした中華料理店、その反対側には二十四時間営業をやめて久しいコインランドリー。


 表通りから少し外れた場所にあるそのビルは、知らない人間ならまず足を止めない。看板が光っていなければ、営業している店が入っていることすら見落としそうだった。


 だが、そのネオンだけは妙に鮮やかだった。


 濡れた路面へ紫色が落ち、ビルの入口から地下へ続く階段の手前で、ぼんやりと滲んでいる。


 看板には英字でこう書かれていた。


 VIOLET DRAGON


 戒十は文字を見上げた。


「ドラゴン?」


 思わず口にすると、前を歩いていたリサが得意げに振り返った。


「いい名前でしょ」


「悪い意味で目立つ」


「昔はもっと派手だったんだよ。ネオンが三倍くらいあって、入口の上に竜のオブジェもついてた」


「消防法に怒られそう」


「怒られた」


「怒られたんだ」


「うん。あと近所の人にも怒られた。眩しいって」


 リサはけらけら笑いながら、階段の脇にある黒い扉へ向かった。


 扉には営業中の札がかかっている。


 ただし、ガラス窓は内側から厚いカーテンで塞がれ、中の様子は見えない。


 普通のバー。


 そう見えなくもない。


 だが、階段を下りてくる途中から、戒十には音が聞こえていた。


 低いベース音。


 ドラムのリズム。


 グラスの触れ合う音。


 誰かの笑い声。


 氷を砕く音。


 それらの奥に、もっと別の音もある。


 規則正しい機械音。


 空調。


 金属製の扉が開閉する音。


 水が配管を通る音。


 そして、どこかでかすかに聞こえる、人のうめき声のようなもの。


 戒十は足を止めた。


 背後のシンも止まる。


「どうした」


「中から、変な音がする」


「変な音の定義は」


「バーにあるべきじゃない音」


「なら正しい」


「正しいって何が」


「ここは、バーだけじゃない」


 シンは短く答えた。


 リサが扉の前で片手を振る。


「はいはい、怖い顔しない。初めてのお客様なんだから、もうちょっと雰囲気よくいこうよ」


「逃げようとしていた相手を客とは言わない」


「じゃあ、迷子?」


「危険個体候補」


「シン、第一印象って大事だよ?」


「事実のほうが大事だ」


 戒十は二人のやり取りを聞きながら、扉を見る。


 危険個体候補。


 その言葉が胸の中へ残った。


 わかっている。


 路地で男を壁へ叩きつけた。


 影を止められなかった。


 黒猫の群れに襲われたときも、自分の影は勝手に戦った。


 だから、彼らから見れば危険なのだろう。


 それでも、自分がそう呼ばれることには強い抵抗があった。


「入るよ」


 リサが扉を開けた。


 まず、音が出てきた。


 低い音楽。


 古いスピーカーを通したベースの振動が、床から足の裏へ伝わる。


 次に、匂い。


 酒。


 煙草ではない。おそらく禁煙なのだろう。だが、古い店に染みついたアルコールと木材の匂いがある。


 それに混じって、甘いシロップ、柑橘、金属、消毒液、そしてわずかな血の匂い。


 戒十の喉が反応した。


 すぐに口を閉じる。


 店内は思ったより広かった。


 地下へ半分埋まるような構造で、天井は低いが奥行きがある。入口側にはカウンター、奥には小さなステージ。壁には古いライブポスターや、紫色の照明に照らされた写真が所狭しと貼られている。


 バーカウンターの向こうでは、白髪交じりの中年男がグラスを磨いていた。


 ただし、その男の目は暗い店内で猫のように反射している。


 カウンター席には、スーツ姿の女性がひとり座っていた。片手でノートパソコンを操作しながら、もう片方の手で赤い液体の入った小さなグラスを回している。


 ステージ脇では、若い男がギターの弦を張り替えていた。耳には大きな遮光ゴーグルのようなものを掛けている。


 テーブル席では、制服姿の少女が二人、向かい合って静かにスープを飲んでいた。片方は高校生くらいに見える。もう片方は小学生ほどにしか見えないが、話し方や仕草は年齢と合っていない。


 誰も、戒十を見て驚かなかった。


 いや、見てはいる。


 だが、それは珍しい客へ向ける視線ではなく、怪我人が運び込まれてきたときのような、確認の視線だった。


「ただいまー」


 リサが店内へ向けて軽く手を振った。


 カウンターの男が顔を上げる。


「リサ、プリン買えたのか」


「買えた。限定のやつ」


「黒猫は?」


「いっぱい」


「そっちを先に言え」


「プリンも大事じゃん」


 カウンターの男は呆れたように息を吐き、それから戒十を見た。


「新入りか」


「まだ新入り未満。野良黒猫に噛まれた黒猫くん」


「ややこしいな」


「本人はその呼び方嫌いなんだって」


「じゃあ名前で呼べ」


「三倉戒十くん」


 リサが勝手に紹介する。


 戒十は少し遅れて、軽く会釈した。


 会釈してから、自分が何をしているのかと思う。


 知らない場所へ、知らない大人に連れてこられて、得体の知れない人々に紹介され、なぜ礼儀正しく頭を下げているのか。


 カウンターの男はグラスを置き、短く言った。


「無事でよかったな」


 その言葉には、軽さがなかった。


 戒十は返事に困った。


 無事。


 その定義が今はもうわからない。


 黒猫に追われた。


 影を縫われた。


 目の色は変わっている。


 指の傷はすぐ塞がる。


 影が血を求める。


 それでも、ここに立っているから無事なのか。


 シンが戒十の背後から言った。


「カウンターには近づくな」


「何で」


「血がある」


 戒十の身体がこわばった。


 スーツ姿の女性が持つグラス。


 赤い液体。


 ワインではない。


 気づいた瞬間、匂いがはっきりした。


 血だ。


 保存血。


 冷たく、わずかに薬品の匂いが混ざっている。


 それでも、洗面所で自分の血を見たときの渇きが、喉の奥へ蘇る。


 戒十は無意識に一歩下がった。


 リサがその反応を見て、すっと笑みを弱めた。


「今はまだ近づかないほうがいいね」


「……飲んでるのか」


 戒十の声は掠れていた。


 カウンターの女性がグラスを見下ろし、苦笑した。


「誤解される言い方をするとね。でも、そこらへんの人から取ってきたものじゃないよ。処理済みの保存血。飲みやすく調整してある」


「飲みやすく……」


「最初はだいたい引くよね」


 女性はグラスをカウンターへ置いた。


 戒十へ見せつけないように、奥へ寄せる。


「でも、これがないと夜勤できないの。今から仕事だから」


「仕事?」


「コールセンター。深夜帯の管理者。日中は目がきついから、夜のシフトにしてもらってる」


 彼女はそう言って、ノートパソコンを閉じた。


 普通の言葉だった。


 仕事へ行く。


 夜勤。


 シフト。


 それらは、怪物や落影や影咬という言葉とは別の世界に属しているはずだった。


 だが、彼女はその二つを当たり前のように同じ場所へ置いた。


 戒十は何も言えない。


 ステージ脇の若い男が、ギターを抱えたまま口を挟む。


「俺は今日ライブ。照明抑えてって頼んであるのに、対バンの照明担当がいつも白を強くしやがる。殺意湧く」


 カウンターの男が即座に言った。


「湧かせるだけにしろ」


「わかってるって。湧くだけ。噛まない。たぶん」


「たぶんをつけるな」


「はいはい」


 軽い会話。


 冗談。


 だが、その中に本物の危険が混ざっている。


 戒十は店内を見回した。


 彼らは隠れている。


 だが、ただの怪物として隠れているのではない。


 仕事へ行く者がいる。


 ライブへ出る者がいる。


 食事をする者がいる。


 人と会話し、文句を言い、プリンの限定味を気にし、照明の明るさに不満を言う。


 生活している。


 それが、戒十の予想を少しずつずらしていった。


 リサは戒十の表情を見て、口元を緩める。


「思ってたより普通?」


「普通とは言ってない」


「じゃあ、思ってたより人間っぽい?」


「……もっと、隔離施設みたいなのを想像してた」


「あるよ、隔離室」


「あるのかよ」


「必要なときはね。でもここ全部が檻ってわけじゃない。夜でもお腹は空くし、仕事もあるし、家賃も払わなきゃいけないし、推しの配信だって見たいし」


「最後だけ急に俗っぽい」


「俗っぽく生きられるうちは、だいたい大丈夫」


 リサはそう言って、カウンター脇の奥へ進んだ。


 そこには従業員用に見える扉がある。


 ただし、扉の横にはカードリーダーと、小さな黒いレンズが取り付けられていた。


 リサがカードをかざす。


 電子音。


 続いて、レンズがリサの顔を読み取るように光る。


「これ、意味あるのか?」


 戒十は思わず言った。


「何が?」


「人間じゃないものが出入りする場所で、普通の認証システムって」


「普通の社会で生きるには、普通のセキュリティも必要なの。税務調査とか来たら困るし」


「税務調査……」


「表向きはちゃんとお店だからね。お酒も出すし、ライブもやるし、売上も申告する。世界の裏側にいるからって、確定申告から逃げられると思ったら大間違い」


 戒十は、反論する気力を少し失った。


 扉が開く。


 その先は、まったく別の空間だった。


     ◇


 階段は地下へ続いていた。


 店の紫色の照明とは違い、階段の灯りは柔らかい琥珀色だった。


 白くない。


 眩しくない。


 壁面には細い光源が埋め込まれ、足元だけを照らしている。影が伸びすぎないように、光の角度が調整されているのがわかった。


 シンが戒十の視線に気づく。


「影が暴れにくい光量にしてある」


「そんなこともできるのか」


「完全ではない」


「ここへ来る人間は全員、影が動くのか」


「程度による」


 シンの答えは相変わらず短い。


 リサが代わりに説明するように振り返った。


「ここにいる子たちを、正式には《離影者》って呼ぶの」


「りえいしゃ」


「影が肉体からちょっと離れちゃった人。完全に別の生き物になったわけじゃない。今までぴったり重なってたものが、ずれたり、先に動いたり、勝手に喋り出したりする」


「喋る?」


「進めばね」


「……それ、僕も?」


「可能性はある」


 軽く言われたが、内容は軽くない。


 戒十は左手を握った。


 サポーターの下で、痣が熱い。


 勝手に動く影。


 血を吸う影。


 純へ勝手に言葉を送った手。


 もしあれが、喋るようになったら。


 声を持つようになったら。


 自分と同じ声で。


 戒十は無意識に足元を見た。


 階段の灯りは影を短くしている。


 だが、影は消えていない。


「影って、ただの影じゃないのか」


「じゃないね」


 リサは簡単に言った。


「人間の影は、光で地面に映ってる形だけじゃない。もっと奥に、身体とくっついたもう一つの身体みたいなものがある。そこには、本人が出せなかった感情とか、身体が覚えてる経験とか、怖かったこと、欲しかったもの、そういうのが溜まる」


「心理学?」


「半分くらいは。残り半分は医学と、ちょっと嫌な実験の歴史」


 リサの声が少しだけ軽さを失った。


 階段の下に着く。


 そこには金属扉があり、リサがまたカードをかざした。


 扉が開くと、消毒液の匂いが強くなった。


 戒十は鼻を押さえた。


「きつい?」


「……少し」


「そのうち慣れるけど、最初はしんどいよね。血の匂いも混ざるし」


「わざわざ言うな」


「自覚しておいたほうがいいよ。何に反応してるか、わからないほうが危ない」


 リサはそう言って、中へ進む。


 地下は想像より広かった。


 廊下の左右に、いくつもの部屋が並んでいる。


 診療室。


 処置室。


 採血室。


 保存血庫。


 隔離区画。


 居住区。


 それぞれの扉には、普通の病院のようなプレートがついている。ただし、その横に光量、遮光、影固定状態を示す小さなランプが設置されていた。


 廊下には人がいた。


 白衣を着た若い女性が、タブレットを見ながら歩いている。


 その影は本人よりほんの少し遅れて動く。


 車椅子に乗った老人が、毛布を膝にかけて廊下の端へ向かっていた。付き添いの青年は、老人の足元へ伸びる影を踏まないように、慎重に歩いている。


 居住区へ続く通路から、味噌汁の匂いがした。


 誰かが笑っている。


 テレビの音も聞こえる。


 診療所というより、病院と寮と避難所が混ざったような場所だった。


 戒十は足を止めた。


 リサも止まる。


「驚いた?」


「……もっと、暗い場所かと思った」


「暗すぎると危ないの。影が広がりすぎるから」


「暗いほうがいいんじゃないのか」


「離影者は暗いところが楽。でも、真っ暗は駄目。輪郭がなくなる。自分と周りの闇の境目がわからなくなるから」


 リサは廊下の灯りを指差した。


「だから、ここは暗すぎず、明るすぎず。ちょうどいい夜を人工的に作ってる」


「ちょうどいい夜」


「そう。夜にも質があるの」


 戒十は廊下の光を見る。


 柔らかい琥珀色。


 影を消さず、濃くしすぎず、床へ短く留める光。


 こんなことまで考えて作られた場所。


 ここは単なる隠れ家ではない。


 誰かが長く、試行錯誤して作った生活圏だった。


 保存血庫の扉が開き、白衣の女性が出てきた。


 手には保冷ケースを持っている。


 中には細いパックがいくつも入っている。


 赤い液体。


 戒十の喉がまた反応する。


 それを見て、シンが戒十の肩へ手を置いた。


 強くはない。


 ただ、動くなという合図だった。


「見るな」


「見てない」


「匂いへ反応している」


「……わかるのか」


「わかる」


 白衣の女性がこちらを見て、すぐにケースを自分の身体で隠すように持ち替えた。


 その仕草は自然だった。


 慣れている。


 新しく噛まれた者が血の匂いへ反応することを、ここでは誰も珍しがらないのだろう。


 リサが戒十の前へ立ち、視線を遮った。


「今は自分の反応を責めなくていいよ。まず、そういうものだって知っておくこと」


「そういうものって何だよ」


「血は、食べ物じゃない。でも、君の影には必要になる。影が肉体に触るための媒体みたいなものだから」


「媒体」


「うん。離影者が血を必要とするのは、吸血鬼ごっこをしたいからじゃない。血の中に、肉体と影をつなぐ情報が濃く残ってるから。ざっくり言えば、君の影は今、現実へ引っかかるための材料を欲しがってる」


「僕は欲しがってない」


「君の肉体人格は、でしょ」


 リサは、わざとその言葉を選んだようだった。


 肉体人格。


 聞き慣れない言葉が、耳へ重く落ちる。


「じゃあ、僕以外の誰かが欲しがってるって言うのか」


「まだ誰かってほどはっきりしてない。でも、君の影はもう反応してる」


「勝手に決めるな」


「決めてない。観察してる」


「同じだろ」


「違うよ。決めつけたら処分。観察なら、まだ選択肢がある」


 その言葉に、戒十は黙った。


 処分。


 軽くない単語だった。


 シンが何も言わないのが、かえって答えのように思えた。


 リサはすぐに空気を変えるように、ぱん、と手を叩いた。


「はい、怖い話は診察室で。まずは検査。シン、先生空いてる?」


「八号室」


「八号室ね。戒十くん、こっち」


「検査を受けるなんて言ってない」


「検査しないと、何もわからないよ」


「勝手に連れてきて、勝手に検査?」


「嫌なら帰ってもいいよ」


 リサはあっさり言った。


 戒十は意外で、反応が遅れた。


「……いいのか」


「いいよ。あたしは止めない」


「リサ」


 シンの声が低くなる。


 リサは彼へ目を向けず、戒十を見ていた。


「ただし、帰ったら黒猫型の落影はまた来る。君の影はたぶん、また勝手に動く。血の匂いにも反応する。今日みたいに、人を傷つけるかもしれない。それでも帰りたいなら、帰っていい」


「脅しだろ」


「事実」


「みんなその言い方するのか」


「ここではね。嘘で安心させると、あとで死ぬから」


 リサの声は軽くなかった。


 戒十は廊下の奥を見る。


 居住区のほうから、子どもの笑い声がした。


 それに続いて、大人の注意する声。


 光量を下げすぎないで、と。


 普通のようで、普通ではない。


 普通ではないけれど、生きている。


 彼らはここで暮らしている。


 自分もそうなるのか。


 ここへ住み、血を分けてもらい、光を調整された部屋で眠り、学校へ通うか通わないかを相談され、家族へ何と説明するかを決める。


 そこまで想像した瞬間、胸が詰まった。


 自分の生活が、自分の知らないルールへ飲み込まれる。


「検査だけだ」


 戒十は言った。


「検査だけ。泊まらない」


 リサは小さく笑った。


「了解」


 シンは何も言わなかった。


     ◇


 八号室は、診療室というより撮影室に近かった。


 壁は暗いグレー。


 天井には複数の調光ライト。


 中央には診察台。


 壁際には鏡が三枚、角度を変えて置かれている。


 戒十はそれを見た瞬間、洗面所の鏡を思い出した。


 鏡の中で動かなくなった自分。


 床で肩を上下させていた影。


 喉の奥が詰まる。


「鏡は嫌?」


 リサが尋ねる。


「別に」


「嘘下手」


「うるさい」


「ここでは、肉体と鏡像と影のずれを見るの。今夜は簡易版だけ。詳しいのはまた今度」


「また今度がある前提で話すな」


「あるよ。君が死ななければ」


 言い返そうとして、戒十はやめた。


 リサは冗談のように言っているが、冗談ではない。


 診療室には医師らしい人物がいた。


 小柄な女性で、髪を短く切っている。白衣の下は普通のTシャツで、首から小さな遮光ゴーグルを提げていた。


「新規?」


「黒猫型に影咬。進行早め。さっき落影群に追われて、部分的に出かけた」


 リサが手短に言う。


 医師は戒十を見た。


「名前」


「三倉戒十」


「年齢」


「十七」


「噛まれた時刻」


「昨日の夜。二十三時前後だと思う」


「部位」


「左手」


「肉体を直接噛まれた?」


「いや……影、だと思う」


 自分で言って、まだ信じがたかった。


 だが、もう否定だけでは説明できない。


 医師はうなずき、手袋をはめた。


「左手を」


 戒十は一瞬ためらい、リサを見た。


 リサは何も言わない。


 シンは部屋の入口近くに立っている。


 逃げ道を塞ぐように。


 戒十は舌打ちしそうになるのを堪え、サポーターを外した。


 医師が噛み痕を見た瞬間、表情を引き締めた。


「これは……」


 言いかけたところで、リサが軽く首を振る。


 医師は言葉を飲み込んだ。


 戒十はそれを見逃さなかった。


「何だよ」


 医師は答えず、手首の黒い筋をライトで照らした。


 柔らかい光。


 それでも、噛み痕の周囲が黒く反応する。


「疼く?」


「少し」


「血への渇きは」


「……ある」


 言ってから、戒十は唇を結んだ。


 認めたくなかった。


 だが、嘘をついても意味がない気がした。


 医師は淡々と続ける。


「幻聴は」


「猫の鳴き声。あと、声」


「どんな声」


「女の声。『見つけた』って」


 診療室の空気が、かすかに変わった。


 リサの指先がわずかに動く。


 シンの視線が鋭くなる。


 医師はタブレットへ記録しながら、慎重に言った。


「影の自律行動は」


「左手が勝手に動く。影も。路地で……人を止めた」


「止めた?」


「傷つけたかもしれない」


 言ってしまった。


 戒十は視線を落とす。


 シンが口を開いた。


「その相手は」


「死んではいない。腕が動かなくなってた」


「影を掴んだな」


「たぶん」


「肉体の腕は?」


「僕の右手で壁に叩きつけた」


「自覚は」


「ある」


「制御は」


 戒十は答えられなかった。


 リサが代わりに、少しだけ柔らかく言う。


「迷ってる間に動いたんだよね」


 戒十はリサを見た。


 なぜわかる。


 そう言いそうになって、言わなかった。


 彼女は経験者だと言った。


 なら、わかるのかもしれない。


 迷い。


 後悔。


 怒り。


 それらが、影の側で先に動くことを。


 医師はライトを消し、鏡の前へ戒十を立たせた。


「腕を上げて」


 戒十は従う。


 鏡の中の自分も腕を上げる。


 床の影も同じように上がる。


 少し遅れて。


 医師がタブレットへ記録する。


「右手」


 右手を上げる。


 鏡像は合っている。


 影もほぼ同時。


「左手」


 左手を上げる。


 鏡像は動く。


 だが、床の影は一瞬だけ先に動いた。


 戒十の肉体よりも、ほんのわずかに早く。


 自分の左手が、影を追いかけたように見えた。


 戒十は息を呑む。


 医師は小さくうなずいた。


「第一段階を越えてる」


「越えてるって何だよ」


 医師ではなく、シンが答えた。


「通常なら、影咬の直後は第零段階。傷、眠気、幻聴、影の欠け程度で済む。次に剥離期。夜間の身体能力上昇、光への過敏、嗅覚、聴覚、治癒力の上昇」


「それは今日あった」


「おまえはすでにその先へ足をかけている」


 シンの声は変わらない。


「共鳴期。影が人格を持ち始める段階だ」


 人格。


 その言葉が、診療室の中で大きく響いた。


「僕の影が、誰かになるってことか」


「誰かになるのではない」


 リサが言った。


「君から切り離されたものが、君に返事をし始める」


「同じだろ」


「違うよ。そこ、大事」


「僕は大事にしたくない」


「だろうね」


 リサは否定しなかった。


 医師が引き出しから小さなケースを取り出した。


 中には、黒いアンプルのようなものが数本入っている。


「影固定剤。汎用品だけど、今の症状なら一時的に抑えられる」


 戒十はそれを見た。


「薬?」


「注射と経口、どちらもある。今は経口で十分。効果は六時間から八時間。光過敏、血への渇き、影の自律行動を弱める。ただし副作用として、倦怠感、感情鈍麻、眠気が出る」


「治るのか」


 医師は、すぐには答えなかった。


 その沈黙で、戒十は答えを察した。


「治らないんだな」


「初期なら戻せることもある」


「僕は?」


 医師はリサを見る。


 リサは微笑んだまま、何も言わない。


 その笑みが、ひどく曖昧だった。


 シンが言った。


「完全に元へ戻る保証はない」


「保証はない、ね」


「嘘をつくよりいい」


「便利な言い方だな」


「事実だ」


 戒十はアンプルを見る。


 薬で抑えられる。


 でも、消せるわけではない。


 影が人格を持つ。


 その可能性を、一時的に黙らせるだけ。


「その薬を飲んだら、影は消えるのか」


「消えない」


 リサが答えた。


「じゃあ意味ないだろ」


「暴走を遅らせる意味はある。君が考える時間を作れる」


「考えた結果、飲まないって選んだら?」


「それも選択肢」


 リサは静かに言った。


 シンが鋭く見る。


「リサ」


「選択肢はあるよ。おすすめしないだけ」


「おすすめしないなら、そう言え」


「言ってる」


 戒十は二人を交互に見た。


 ここでも意見が完全には一致していない。


 リサは選ばせようとしている。


 シンは止めようとしている。


 どちらが信用できるのか。


 あるいは、どちらも信用できないのか。


 戒十には判断できなかった。


「僕をここに泊めるつもりか」


 戒十が聞くと、リサは正直にうなずいた。


「泊まってくれたほうが安全。君も、周りも」


「学校は」


「事情を作れる。体調不良とか、親御さんへの連絡とか」


「家は」


「それも相談できる」


「親に何て言うんだよ。息子が影を噛まれたので地下で預かりますって?」


「普通は言わない。体調不良で知人の病院に、とか」


「勝手に僕の生活を組み替えるな」


 戒十の声が強くなった。


 診療室の照明が、わずかに揺れた気がした。


 足元の影が濃くなる。


 シンが刀の柄へ手を伸ばす。


 リサが片手でそれを制した。


 戒十は自分の影を見下ろし、奥歯を噛んだ。


「僕の生活を、勝手に終わらせないでください」


 敬語になったのは、怒りを押さえるためだった。


 そうしないと、声が荒れすぎる気がした。


「昨日まで普通に学校へ行ってた。家に帰ってた。写真を撮ってた。純と……」


 名前を出したところで、喉が詰まる。


 リサは何も言わない。


「それを、いきなり全部やめろって言われて、はいって言えるわけないだろ。僕はまだ、何もわかってない。わかってないのに、ここに閉じ込められて、知らない人たちのルールで暮らすなんて無理だ」


「閉じ込めるつもりはないよ」


 リサは静かに言った。


「でも、守ろうとして囲うことはある。あたしたちも、それで何度も間違えた」


「なら、やめればいい」


「だから、君には選ばせる」


 リサは影固定剤のケースを閉じずに、戒十の前へ置いた。


「今夜は帰ってもいい。ただし、これを一本持っていくこと。飲むかどうかは君が決めていい。でも、影が勝手に動きそうになったら飲む。血の匂いがきつくなったら飲む。誰かを傷つけそうになったら、飲む。いい?」


 戒十はケースを見下ろした。


 黒いアンプル。


 小さな瓶の中に、自分の夜を鈍らせる薬が入っている。


 飲めば楽になるのかもしれない。


 だが、飲めば今日感じた夜の身体も、視界の鮮明さも、跳躍の快感も薄れるのだろう。


 そのことに惜しさを感じる自分がいる。


 それがまた嫌だった。


「副作用は」


「眠くなる。感情が鈍る。たぶん、君は嫌がる」


「よくわかってるな」


「顔に出てる」


「水城みたいなこと言うな」


「純ちゃん、いい子っぽいね」


「名前を出すな」


「ごめん」


 リサは素直に謝った。


 その素直さも調子が狂う。


 戒十はアンプルを一本取り、ポケットへ入れた。


「これで帰っていいんだな」


「いいよ」


「リサ」


 シンの声が低い。


 リサは彼を見る。


「止めたいなら、シンが自分で止めて」


「必要なら止める」


「今は必要?」


 シンは戒十を見た。


 その視線は冷静だった。


 怒りでも、恐怖でも、同情でもない。


 判断。


 戒十は、その目が嫌だった。


 自分が対象として測られている。


 危険か。


 止めるべきか。


 生かして帰すべきか。


 そんなふうに。


 長い沈黙のあと、シンは刀から手を離した。


「今は、必要ない」


 戒十は息を吐いた。


 吐いてから、自分が緊張していたことに気づく。


 医師が小さな紙袋へ追加の包帯と消毒綿を入れた。


「傷が開いたら使って。熱が上がる、影が肉体より先に動く、声が聞こえる、血への渇きが強くなる。この四つのうち二つ以上が重なったら、薬を飲んで、ここへ連絡」


 紙袋の中に連絡先カードも入れられる。


 店の名刺。


 VIOLET DRAGON


 電話番号と、メッセージ用のアカウント。


 裏には手書きで、リサの名前が書かれていた。


「これ、怪しい店の名刺にしか見えない」


 戒十が言うと、リサが笑った。


「実際、怪しい店だし」


「否定しないのか」


「嘘はよくないって何回も言ってるでしょ」


「じゃあ、怪しい店に未成年を連れ込んだことも認めるわけだ」


「保護です」


「誘拐だろ」


「保護寄りの誘拐?」


「悪化した」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 戒十はそれに気づき、すぐに表情を戻した。


 気を許すな。


 まだ何もわかっていない。


 リサもシンも、重要なことを隠している。


 噛み痕を見たときの反応。


 「見つけた」という声を聞いたときの空気。


 普通ではない影紋。


 それらは、まだ説明されていない。


 戒十はサポーターを巻き直し、診療室の扉へ向かった。


 シンがその背中へ声をかける。


「三倉」


 戒十は振り返らない。


「次に他人を傷つけたら、選択肢は減る」


 足が止まった。


 その言葉は脅しではなかった。


 少なくとも、シンにとっては。


 だからこそ重かった。


「処分するって意味ですか」


「拘束、登録、隔離、監視。薬の強制投与。学校へ通うことも難しくなる」


「殺すとは言わないんだ」


「今は言わない」


 戒十は振り返った。


 シンの表情は変わらない。


 だが、その目は逃げなかった。


「僕が本当に誰かを殺しかけたら?」


「止める」


「殺してでも?」


「必要なら」


 即答だった。


 リサが目を伏せる。


 医師は何も言わない。


 戒十は拳を握った。


 怒りはある。


 だが、完全に否定できない。


 路地の男の喉へ影の指がかかった感覚を、まだ覚えている。


 もし悲鳴がなければ。


 もし、自分が止められなければ。


 この男の言葉は、間違っていると断言できるのか。


 戒十は吐き捨てるように言った。


「最悪な場所ですね、ここ」


 シンは静かに返す。


「だから、生きて帰れる者もいる」


 戒十は何も言い返せなかった。


     ◇


 店の表側へ戻ると、音楽は少しだけ静かになっていた。


 ステージでは、ギターの男がリハーサルの続きをしている。


 カウンターの女性はいなくなっていた。仕事へ行ったのだろう。


 代わりに、制服姿の少女たちが皿を片づけている。


 そのうち小学生ほどに見えた少女が、戒十の左手をちらりと見て言った。


「新しい人、帰るの?」


「帰る」


 戒十が答えると、少女は少し驚いた顔をした。


「最初の夜なのに?」


 その言葉に、戒十は返事を詰まらせる。


 リサが軽く少女の頭に手を置いた。


「この子、頑固なんだって」


「頑固な人、だいたいあとで戻ってくるよ」


 少女は真顔で言った。


 戒十は眉を寄せる。


「経験談?」


「うん。私も帰った。三時間で戻った」


「早いな」


「家の洗面所で、お父さんの影を噛みそうになったから」


 戒十は言葉を失った。


 少女はあっけらかんとしていた。


 だが、その内容は重い。


 彼女はそれを、過去の笑い話のように語る。


 笑い話にできるまで、どれだけ時間がかかったのか。


 戒十にはわからない。


 リサが少女に言う。


「今日はもう寝る時間。光量落としすぎないでね」


「はーい」


 少女は皿を持って奥へ行った。


 戒十はその背中を見送る。


 人の形。


 子どものような後ろ姿。


 だが、影だけが少し大きい。


 彼女もまた、ここで生活している。


 戒十はその事実を胸の中へ入れたくなくて、視線を逸らした。


 入口の扉へ向かう。


 リサがついてくる。


「送ろうか?」


「いらない」


「黒猫ちゃん、まだいるかもよ」


「薬は持った」


「薬は猫よけじゃないよ」


「でも影が暴れたら飲めって言っただろ」


「うん。でも、飲む前に噛まれる可能性もある」


「それでも一人で帰る」


 リサは少しだけ困ったように笑った。


「強情」


「知ってる」


「純ちゃん、苦労しそう」


「名前を出すなって言った」


「ごめんって」


 リサは扉の前で立ち止まった。


 その顔には、さっきまでの軽さと、少し違うものが混ざっていた。


「戒十くん」


「何」


「怖いって思っていいからね」


 戒十は答えなかった。


 リサは続ける。


「力を得たことを嬉しいって思ってもいい。夜が見えることを綺麗だって思ってもいい。でも、怖いと思うのも、ちゃんと君の感覚だから。どれか一つだけを本物にしないほうがいい」


「説教?」


「経験談」


「年寄りみたいな言い方」


「実際、けっこう年上だからね」


「何歳?」


「聞かないほうが楽しいよ」


「楽しくない」


「そのうちね」


 リサは扉を開けた。


 外の夜気が入ってくる。


 紫色のネオンが、階段の壁へ揺れていた。


 戒十は外へ出る前に、リサを見た。


「僕の傷、何か隠してるだろ」


 リサの笑顔が一瞬止まる。


「うん」


 彼女は否定しなかった。


「今は言わないけど」


「最悪だな」


「うん。ごめん」


 その謝罪が軽くないせいで、戒十は余計に苛立った。


 怒鳴ることもできず、ただ扉の外へ出る。


 階段を上がる。


 旧市街の夜が、再び目の前へ広がる。


 紫のネオン。


 濡れた路面。


 遠くの街灯。


 そのすべてが、来たときより少しだけ違って見えた。


 世界が変わったのではない。


 自分の見る側が変わった。


 それが腹立たしくて、怖くて、少しだけ綺麗だった。


 背後でリサの声がする。


「帰ったら連絡してねー」


「保護者か」


「夜の保護者」


「いらない」


「いるよ。君にはたぶん、すごくいる」


 戒十は返事をしなかった。


 階段を上がりきる。


 地上の風が頬を撫でる。


 足元に影が伸びる。


 左手の影は、肉体と同じ速度で動いていた。


 少なくとも今は。


 戒十はポケットの中の影固定剤を指で確かめた。


 小さなアンプルが、硬く冷たい。


 薬。


 名刺。


 消毒綿。


 自分のものではなかったはずの夜の道具が、ポケットの中に入っている。


 家へ帰る。


 学校へ行く。


 純と話す。


 そのつもりだった。


 そのつもりでなければ、自分が自分の生活から滑り落ちてしまいそうだった。


 戒十は旧市街の坂を下り始めた。


 背後のVIOLET DRAGONの扉が閉まる。


 紫色の光だけが、しばらく彼の背中へまとわりついていた。

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