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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第一章 夜のはじまり
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第五節 リサとシン

 眠れるわけがなかった。


 戒十は自分の部屋のベッドに横になり、天井を見ていた。


 部屋の照明は消してある。


 カーテンも閉めた。


 スマートフォンは枕元に伏せたまま。


 それでも暗くならない。


 街灯の光がカーテンの隙間から細く入り、天井へ薄い線を引いている。その一本の光だけで、部屋の輪郭がわかった。


 机の上のカメラ。


 椅子に掛けた制服の上着。


 床へ置いたバッグ。


 ゴミ箱へ捨てた血のついたティッシュ。


 左手の噛み痕。


 足元の影。


 どれも見える。


 見えすぎる。


 目を閉じても、瞼の裏へ部屋の配置が残っている。暗闇の中へ沈むのではなく、暗闇そのものが視界になったようだった。


 喉が乾いている。


 洗面所で血を床へ落としたあと、いくら水を飲んでも変わらなかった。


 水ではない。


 身体が求めているものは、もっと温かく、もっと濃い。


 そのことを認めたくなくて、戒十は何度も寝返りを打った。


 左手が疼く。


 黒い痣は、絆創膏とサポーターで隠してある。それでも、皮膚の下で誰かが小さく爪を立てているような感覚が続いていた。


 スマートフォンが震えた気がして、戒十は反射的に顔を向けた。


 画面は暗い。


 通知はない。


 純からの最後の言葉は、まだ頭に残っている。


『明日、話そう』


 明日。


 その言葉だけが、部屋の中で浮いている。


 明日になれば、本当に話せるのか。


 何を。


 左手の傷のこと。


 瞳の色のこと。


 鏡の中の自分が止まったこと。


 影が血を吸ったこと。


 勝手に「会いたい」と送ったこと。


 そんなことを言えば、純はどういう顔をする。


 心配するだろう。


 病院へ行こうと言うだろう。


 あるいは、怖がるかもしれない。


 路地の女性のように。


 あの悲鳴が蘇る。


 戒十は枕を掴み、顔へ押し当てた。


「違う」


 何が違うのか、自分でもわからなかった。


 助けた。


 少なくとも、あの女性は逃げられた。


 男は手を離した。


 でも、あれは自分が正しく動いたからではない。


 影が先に動いた。


 自分が迷っている間に。


 自分が理屈を並べている間に。


 そして、止めようとしても止まらなかった。


 左手の痣が熱を持つ。


 まるで、それでよかったのだと主張するように。


 戒十は枕を放り投げ、上体を起こした。


 部屋の隅に落ちた枕の影が、床へ黒く伸びる。


 その影が、一瞬だけ猫の背中のように見えた。


 違う。


 ただの影だ。


 そう思った直後、窓の外で何かが鳴いた。


 にゃあ、とも、ぎゃあ、ともつかない声。


 戒十の全身が固まった。


 野良猫。


 夜の住宅街なら珍しくない。


 そう自分へ言い聞かせる。


 しかし耳が勝手に音を拾った。


 窓の外ではない。


 もっと遠い。


 道路の向こう。


 電柱の上。


 あるいは、屋根の縁。


 同じ声が、別の場所からも聞こえた。


 一匹ではない。


 戒十はベッドから降りた。


 床へ足をつける。


 冷たさを感じる前に、足裏が床板のわずかな歪みを拾った。家の中の音が遠ざかり、外の音が近づく。


 風。


 車。


 信号機の電子音。


 遠くの踏切。


 そして、小さな爪がコンクリートを叩く音。


 かつ、かつ。


 軽い。


 人間ではない。


 四つ足。


 複数。


 戒十はカーテンを少しだけ開けた。


 マンションの外廊下が見える。


 非常灯の緑が、白い壁へ薄く滲んでいた。


 何もいない。


 だが、廊下の向こうの角に、黒いものが一瞬だけ消えた。


 猫。


 そう見えた。


 戒十は窓から離れる。


 心臓が早くなる。


 喉の渇きも強くなる。


 逃げるべきだ。


 いや、家の中にいればいい。


 鍵もかけてある。


 マンションの五階だ。


 普通の猫が入ってくるはずがない。


 普通なら。


 その言葉がもう信用できない。


 左手が痛んだ。


 痣の奥で、何かが外へ出ようとする。


 戒十はスマートフォンを手に取った。


 誰に連絡する。


 純ではない。


 巻き込むな。


 警察でもない。


 「猫に追われています」と言うのか。


 病院でもない。


 症状を説明できない。


 連絡先の画面を開いて、すぐ閉じた。


 玄関のほうで、かすかな音がした。


 ドアを爪で引っかくような音。


 ぎり。


 ぎり。


 戒十は息を止める。


 外廊下にいる。


 何かが。


 玄関の向こうへ近づく。


 ひとつではない。


 小さな足音が二つ、三つ、重なっている。


 ドアの下の隙間から、黒いものが細く伸びてきた。


 影だった。


 廊下の非常灯の光を受けて、ドアの隙間から内側へ差し込むはずのない影。


 床の上へ細く這い、戒十の足元へ向かってくる。


 戒十の影が反応した。


 左手の部分が、床へ濃く落ちる。


 黒い指が、勝手に開く。


「やめろ」


 小声で言った。


 玄関の向こうから、低い鳴き声が返る。


 戒十は部屋着の上にパーカーを羽織り、バッグからカメラだけを抜いた。


 どうしてカメラなのか、自分でもわからない。


 証拠。


 記録。


 そう言えば聞こえはいい。


 だが、本当は違う。


 カメラを持てば、ただ怯えているだけではなくなる気がした。


 戒十は玄関へ近づいた。


 ドアののぞき穴を見ようとして、やめる。


 もし向こう側から目が見えたら。


 そう考えた瞬間、喉が乾く。


 玄関の隙間から伸びた黒い影が、戒十の靴の先へ触れた。


 左手が勝手に跳ねた。


 その動きに合わせて、足元の影が伸びる。


 床の上で、二つの黒が触れた。


 頭の奥で、猫の鳴き声がした。


 いや。


 笑い声にも似ていた。


 戒十は一歩退いた。


 同時に、ドアの向こうで何かが跳ねる。


 外廊下の手すりを蹴った音。


 次の瞬間、窓の外へ黒い影が横切った。


 五階の窓の外を。


「嘘だろ……」


 戒十は部屋へ戻り、窓へ近づいた。


 ガラスの向こう、手すりの上に黒猫がいた。


 濡れていない黒い身体。


 金色に見える目。


 身体の輪郭が、非常灯の中で揺れている。


 昨夜の黒猫より小さい。


 だが同じものだと、直感でわかった。


 黒猫は窓越しに戒十を見ていた。


 口を開く。


 鳴き声は聞こえない。


 代わりに、左手の傷が内側から噛まれたように痛んだ。


 戒十は窓から離れた。


 黒猫がもう一匹、手すりへ飛び乗る。


 さらに一匹。


 五階の外廊下ではなく、外壁の排水管を伝って上がってきたのか。


 あり得ない。


 だが、現にいる。


 黒猫たちの影だけが、光源とは合わない方向へ伸びている。


 ガラスの向こうで、それぞれの影が窓の隙間を探すように揺れていた。


 家の中にいても駄目だ。


 このままでは、何が起きるかわからない。


 両親が帰ってきたら。


 それだけはまずい。


 戒十はバッグを掴み、玄関へ向かった。


 外へ出る。


 自分が追われるなら、自分だけで済む場所へ。


 逃げ道がある場所へ。


 人の少ない夜道へ。


 そう考えている時点で、まともではない。


 それでも、部屋の中へ黒猫を入れるよりはましだった。


 戒十はドアを開けた。


 外廊下に黒猫はいない。


 だが、非常灯の下にいくつもの影だけが残っていた。


 持ち主のいない影。


 猫の形をした黒い染みが、床と壁を這っている。


 戒十が一歩外へ出ると、それらが一斉に顔を上げた。


 顔などない。


 それでも、見られた。


 戒十は走った。


     ◇


 夜の住宅街は、昼間とは別の街だった。


 人がいないわけではない。


 コンビニへ向かう会社員。


 塾帰りの中学生。


 犬を散歩させる老人。


 駅へ向かう自転車。


 だが、戒十の視界では、人間よりも影のほうが目立った。


 街灯に引き伸ばされた影。


 自動販売機の光で二重になる影。


 車のヘッドライトに切り裂かれる影。


 その間を、黒猫型の影が走っている。


 屋根の上。


 塀の上。


 電柱の根元。


 道路標識の裏。


 実体のある黒猫もいる。


 影だけのものもいる。


 どちらが本物で、どちらが影なのか、もうわからなかった。


 戒十は人通りのある道を避け、旧市街へ向かった。


 細い路地が多い。


 古い商店のシャッターが下り、街灯の間隔が広い。


 暗い場所が増える。


 そこなら姿を隠せる。


 そう思ったのは、自分の判断だったのか。


 それとも、影に引かれているのか。


 わからない。


 足は速かった。


 普通の全力疾走ではない。


 呼吸が乱れない。


 地面を蹴るたび、身体が前へ滑る。


 曲がり角の手前で速度を落とす必要もなかった。


 壁へ手をつき、身体を捻り、反動で次の道へ飛び込む。


 考えるより先に動ける。


 そのことが、怖いのに気持ちいい。


 追われているはずなのに、夜の中で身体がほどけていく感覚があった。


 戒十は低い塀を越えた。


 民家の裏庭へ落ち、すぐに反対側のフェンスを掴む。


 指が金網へ食い込む。


 金属がたわむ。


 腕の力ではなく、背中から肩、腰、足までが一本のしなやかな線になって身体を持ち上げる。


 フェンスを越える。


 着地。


 また走る。


 耳が背後の足音を拾う。


 小さな爪。


 複数。


 増えている。


 戒十は振り返った。


 路地の奥に、黒い猫の群れがいた。


 十匹ほど。


 いや、数えられない。


 街灯の下へ出たものは輪郭を持つが、暗がりへ入ると影と混ざる。次の光の下へ出てきたとき、数が増えている。


 どれも濡れていない。


 どれも金色の目で戒十を見ている。


 その足元から伸びる影は、猫の形をしていなかった。


 細い腕。


 人の髪のようなもの。


 裂けた布のようなもの。


 地面へ広がった黒い輪郭の中に、いくつもの形が混ざっている。


 戒十は息を呑んだ。


 左手が熱い。


 影が動きたがっている。


「来るな」


 声に出す。


 黒猫たちは止まらない。


 一匹が塀の上から跳んだ。


 戒十の顔へ向かってくる。


 肉体は避けるつもりだった。


 右へ半歩。


 それで足りる。


 だが、足元の影が先に動いた。


 戒十の影の左腕が、地面から跳ね上がる。


 黒猫へ向かって伸び、空中でその影を掴んだ。


 黒猫の身体が不自然に止まる。


 首根っこを掴まれたように、空中で一瞬ぶら下がった。


 次の瞬間、黒い霧のように弾ける。


 鳴き声が頭の中で割れた。


「ぐっ……!」


 戒十は左手を押さえた。


 痛い。


 影が相手を掴んだのに、肉体の手にも反動が来る。


 黒猫の影が弾けた場所から、黒い煤のようなものが降る。


 それが地面へ落ちる前に、別の猫たちの影へ吸い込まれた。


 減っていない。


 一匹を弾いても、終わらない。


 戒十は再び走った。


 旧市街の奥へ。


 商店街のアーケードへ。


 夜にはほとんど人が通らない、古い屋根付きの通り。


 シャッターには、閉店した店の古いポスターが色褪せて貼られている。


 蛍光灯は半分ほど消え、残ったものも点滅している。


 光と闇がまだらに落ちる場所だった。


 戒十にとっては、最悪に近かった。


 光源が複数ある。


 影が分かれる。


 自分の足元から、三本、四本の影が伸びる。


 そのうちどれが自分のものなのか、感覚が曖昧になる。


 右へ伸びた影が怒っている。


 左へ伸びた影が怯えている。


 後ろへ伸びた影が、何かを引きずっている。


 そんなふうに感じる。


 黒猫たちは、その分かれた影へ噛みつこうとしていた。


 背後から一匹。


 右のシャッター上から一匹。


 閉店した八百屋の軒下から二匹。


 戒十の影が勝手に応戦する。


 左腕だけではない。


 背中の影が棘のように伸び、猫の影を弾く。


 足元の影が爪の形になり、地面を裂くように走る。


 戒十の肉体も、それに引っ張られて動いた。


 指先が熱い。


 爪が硬くなっている。


 パーカーの袖の内側で、左腕の筋肉が別の形へ組み替えられるように軋む。


「やめろ……!」


 叫ぶ。


 だが、叫びながらも身体は動く。


 黒猫が跳ぶ。


 戒十の左手が振るわれる。


 空を掻いたはずの指先が、猫の影へ触れる。


 黒猫の身体が歪み、地面へ叩き落とされる。


 また一匹。


 また一匹。


 戒十は戦っていた。


 自分が戦っている。


 しかし、その判断の半分以上は自分ではない。


 左手の爪が伸びる。


 皮膚の下から黒い毛のようなものが一瞬浮かび、すぐに引っ込む。


 指の関節が、普段より柔らかく曲がった。


 痛みと快感が同時に来る。


 裂けるようで、解放されるようだった。


 息が荒くなる。


 喉が乾く。


 血の匂いが欲しい。


 影が黒猫を弾くたび、左手の痣が喜ぶように熱を放つ。


 その熱が、肩へ、首へ、顎へ上がってくる。


 歯が疼いた。


 犬歯が内側から押されている。


「駄目だ」


 戒十は自分の口元を押さえた。


 その隙に、黒猫の一匹が足元へ食いついた。


 肉体ではない。


 影の足首へ。


 だが痛みは現実の足首へ来た。


 鋭い痛み。


 戒十は膝をつく。


 複数の黒猫が一斉に距離を詰める。


 目が光る。


 影が伸びる。


 噛みつかれる。


 そう思った瞬間、アーケードの奥から、女の声がした。


「はいはい、そこまでー」


 場違いなほど軽い声だった。


 黒猫たちの動きが、一瞬止まる。


 戒十も顔を上げた。


 商店街の薄暗い通りの向こうに、ひとりの女性が立っていた。


 年齢は二十代前半に見える。


 明るい栗色の髪をゆるくまとめ、紫色のショートジャケットを羽織っている。夜の商店街に似合うような、似合わないような、派手な服装だった。


 手にはコンビニの紙袋。


 まるで近所へ買い物へ来た帰りみたいに、彼女は黒猫の群れと戒十を見比べる。


「うわ。思ったより集まってるじゃん。黒猫くん、人気者だねえ」


 戒十は息を切らしたまま、その女を睨んだ。


「誰……」


「質問する元気あるなら、まだ大丈夫かな」


 女はにこっと笑った。


 緊張感のない笑顔。


 だが、黒猫たちは彼女へ近づかなかった。


 むしろ、少しずつ後ずさっている。


「リサ」


 別の声がした。


 低い男の声。


「余計なことを言う前に片づけろ」


「はーい。シンは相変わらず急かすなあ。出会いの挨拶って大事なんだよ?」


「相手が会話できる状態ならな」


 アーケードの支柱の陰から、黒いコートの男が現れた。


 年齢は四十歳前後に見える。


 背が高く、無駄のない身体つき。


 短く整えられた黒髪。


 手には、鞘に収まった細身の刀のようなものを持っている。


 日本刀とは違う。


 もっと実用本位で、装飾の少ない刃物。


 だが、刀そのものよりも、その足元に落ちる影が異様だった。


 男の影から、細く鋭い線が伸びている。


 刀の影だけが、実物より長い。


 商店街の点滅する蛍光灯の下で、その影は濃い黒として地面へ沈んでいた。


 女――リサは紙袋を片手で抱え直し、もう片方の手を軽く振った。


「黒猫くん、ちょっとそのまま動かないでね。動くとシンが怖いことするから」


「もう怖いことになってるんだけど」


 戒十はかすれた声で言った。


「口答えできるの、いいね。可愛くないけど」


「誰だって聞いてる」


「リサ。夜のお姉さん。怪しい者ではありませーん」


「怪しい者はだいたいそう言う」


「じゃあ怪しい者です」


「リサ」


 シンの声が一段低くなる。


 リサは肩をすくめた。


「はいはい」


 次の瞬間、リサの姿が消えた。


 戒十は見失った。


 風だけが動いた。


 商店街のシャッターがかすかに鳴り、黒猫の一匹が宙へ跳ね上がる。


 リサはその背後にいた。


 人間の動きではない。


 指先が黒猫の影へ触れた瞬間、猫の身体が紙のように潰れ、黒い煙になって弾ける。


 リサは着地しない。


 シャッターの凹凸を蹴り、反対側の看板へ移る。


 笑いながら。


「一匹、二匹、三匹。多いなあ。誰かさん、よっぽど気に入られたみたい」


 黒猫たちが一斉に散る。


 逃げるもの。


 リサへ飛びかかるもの。


 戒十へ向かうもの。


 そのうち戒十へ向かった二匹を、彼の影が勝手に迎え撃とうとした。


「動くな」


 シンの声。


 戒十が反応するより早く、男が踏み込んだ。


 抜刀の音はほとんど聞こえなかった。


 ただ、地面の上を走る刀の影が見えた。


 実物の刃は戒十に届いていない。


 だが、刀の影だけがアーケードの床を滑り、戒十の影へ突き刺さった。


 影の左腕。


 黒猫へ伸びかけていた部分へ、まっすぐに。


「――あ、」


 声にならない声が漏れた。


 痛みではない。


 いや、痛みもある。


 だがそれ以上に、身体の内側から釘で床へ打ちつけられたような感覚だった。


 戒十の肉体が止まる。


 膝をついた姿勢のまま、動けない。


 指一本動かせない。


 呼吸すら、浅くしかできない。


 床に突き刺さったのは影だ。


 なのに、肉体が固定されている。


 左手の痣が激しく脈打つ。


 影が暴れようとする。


 だが、刀の影がそれを押さえ込んでいる。


「な、に……」


 戒十は歯を食いしばった。


 シンは戒十のすぐ前に立っていた。


 黒いコートの裾が、床の上の影へ重なる。


「今なら止められる」


 シンは言った。


 抑揚のない声だった。


「次も止められるとは限らない」


「何を……」


「おまえだ」


 その言葉に、戒十の胸の奥が熱くなる。


「ふざけるな……僕を襲ってるのは、あいつらだろ……!」


「それと、おまえを止める必要があることは別だ」


「助けに来たんじゃないのかよ」


「助けるために止めている」


「人を床に縫いつけて?」


「影を縫った。肉体を傷つけるよりましだ」


「ましって……!」


 戒十は身体を動かそうとした。


 動かない。


 影が釘で留められたように、床へ貼りついている。


 呼吸をするたび、左手の痣が熱くなる。


 シンの背後で、リサが最後の黒猫を処理した。


 彼女の動きは、踊るようだった。


 ただし、触れたものは消える。


 黒猫型の落影たちは、彼女の指先や足元の影に触れるたび、黒い灰になって消えていく。


 リサは最後の一匹をシャッターの影へ追い込み、軽く指を鳴らした。


 細い銀色の糸のようなものが光り、猫の影を絡め取る。


 黒猫は声もなく潰れた。


 リサは紙袋を拾い直し、中を覗く。


「あー、プリン無事。よかった」


「その心配をする場面か」


 シンが言う。


「大事でしょ。限定のやつだよ」


「今はそっちじゃない」


「はいはい」


 リサは戒十の前へしゃがみ込んだ。


 近い。


 距離感が異常に近い。


 彼女は戒十の顔を覗き込み、琥珀色に変わった瞳を見て、小さく口笛を吹いた。


「うわ。目、もう変わってる。進行早いねえ」


「触るな」


 戒十が言う前に、リサの指が彼の頬へ伸びた。


 戒十は避けようとした。


 動けない。


 リサは頬についた細かな擦り傷を見て、次に左手へ目を落とす。


「黒猫くん、お名前は?」


「その呼び方やめろ」


「じゃあ、噛まれたくん?」


「もっと悪い」


「わがままだなあ。じゃあ、本名」


「……三倉戒十」


「戒十くんね。あたしはリサ。で、怖い顔してるのがシン」


「聞いてない」


「自己紹介は大事って言ったでしょ」


「僕を拘束して自己紹介する人間を信用しろって?」


「人間とは言ってないよ?」


 リサは楽しそうに笑った。


 戒十は息を呑む。


 冗談かどうかわからなかった。


 いや、冗談であってほしい。


 だが、目の前の女の動きは普通ではない。


 黒猫型の何かを、あまりにも簡単に消した。


 シンの刀も同じだ。


 影を縫うなど、普通の人間にできるはずがない。


「何なんだよ、おまえら」


 戒十の声は怒りよりも、焦りに近かった。


 リサは軽い調子のまま答える。


「夜に噛まれちゃった子を回収したり、説明したり、たまに止めたりする親切な人たち」


「誘拐犯の自己紹介に聞こえる」


「惜しい。保護者かな」


「誰が保護されるって決めた」


「君の影が今にも人を噛みそうだから」


「噛みそうなのは、あの猫だろ!」


 戒十は床に散った黒い灰を睨む。


 黒猫たちはもういない。


 リサが処理した。


 それでも、背中には追われていた感覚が残っている。


 シンが低く言った。


「あれは落影だ」


「らく……何?」


「肉体を失った影の残骸。今の個体は猫の形をしているが、猫ではない」


「説明になってない」


「説明はあとだ」


「あとって何だよ。僕は家に帰る」


「帰れば、また来る」


 シンの言葉に、戒十は黙った。


 リサは珍しく笑わなかった。


 紙袋を横へ置き、戒十の左手へ視線を落とす。


「ちょっと見せて」


「嫌だ」


「嫌でも見る」


「さっきまで無理に見ないとか言ってた誰かとは大違いだな」


「あ、純ちゃん?」


 戒十の心臓が跳ねた。


「なんでその名前を」


「当たり?」


 リサが目を細める。


 戒十は自分の動揺を呪った。


 シンがリサを見る。


「遊ぶな」


「遊んでないよ。反応見ただけ」


「それを遊ぶと言う」


「シンは言葉が硬いねえ」


 リサは戒十の左手へ手を伸ばした。


 戒十は抵抗しようとするが、身体は動かない。


 床へ縫いつけられた影が、まだ彼を固定している。


「外すよ」


「勝手にするな」


「勝手にしてるのは君の影も一緒だから、お互い様」


 リサはサポーターをゆっくり外した。


 噛み痕が露わになる。


 二つの点。


 そこから伸びる黒い筋。


 指先へ向かう枝分かれ。


 リサの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


 軽い笑みが消える。


 瞳の奥に、別の色が差した。


 恐怖。


 怒り。


 それから、ひどく古い記憶に触れたような痛み。


 だが次の瞬間には、リサはいつもの顔へ戻っていた。


「痛む?」


「今は、あんたたちのせいで全身が痛い」


「影を縫われると、最初はそうだよね」


「慣れる予定はない」


「慣れないほうがいいよ。慣れるような人生、あんまりおすすめしないし」


 リサは戒十の手の甲へ指を添えた。


 触れた瞬間、戒十の左手がびくりと震える。


 影の奥で、何かがリサの指を噛もうとした。


 シンの刀の影が、さらに深く戒十の影へ沈む。


「ぐっ……!」


「暴れるな」


「僕じゃない!」


「そう言う奴ほど危ない」


「本当に違う!」


 戒十は怒鳴った。


 その声が商店街の古い屋根へ反響する。


 リサは手を離さなかった。


 彼女の指先が、黒い痣の周囲をなぞる。


 そして、噛み痕の中心へ目を凝らした。


 戒十には見えない何かを見ている。


 リサの呼吸が、わずかに浅くなった。


 彼女の口元から、低い声が漏れる。


「……嘘でしょ」


 シンが反応する。


「何だ」


 リサはすぐに答えなかった。


 戒十は二人を睨む。


「何だよ」


「んー」


 リサは笑おうとした。


 だが、その笑みは少しぎこちない。


「黒猫くん、ずいぶん面倒なのに噛まれたねえ」


「だから、その黒猫くんやめろ」


「ごめんごめん。戒十くん」


「面倒って何」


「簡単に言うと、普通の野良落影じゃない」


「簡単に言ってわからない単語を入れるな」


「だよねえ」


 リサはシンへ視線を送った。


 シンの表情は変わらない。


 だが、わずかに顎が引かれた。


 何かを察した顔だった。


「リサ」


「うん。あとで」


「今言え」


「ここでは言わない」


 低い声だった。


 それまでの軽さが消えていた。


 戒十はその変化を聞き逃さなかった。


「僕に関係あることだろ」


「もちろん」


「じゃあ言えよ」


「言ったら、君がもっと暴れるかもしれない」


「人の影を床に縫いつけてる奴が、それを心配する?」


「今は止められるから心配してるの」


 リサの声は柔らかい。


 だが、言っている内容は残酷だった。


 今は止められる。


 それは、次は止められない可能性を前提にしている。


 シンと同じだ。


 戒十は歯を食いしばった。


「僕を何だと思ってる」


 シンが答えた。


「危険な状態の人間」


「怪物って言えばいいだろ」


「まだ人間だ」


 即答だった。


 戒十は一瞬、言葉を失う。


 シンの目は冷たい。


 同情も、慰めもない。


 だが、怪物と切り捨てる目でもなかった。


「だから止めている」


「人間をこんなふうに扱うのか」


「人間だからだ。怪物なら会話はしない」


「会話してるように見えない」


「質問に答えている」


「答えになってない」


「おまえが理解する時間を稼いでいる」


「上から言うな」


「下から言えば聞くのか」


「聞かない」


「なら同じだ」


 リサが吹き出した。


「シン、たまに面白いよね」


「黙れ」


「はいはい」


 戒十は笑えなかった。


 身体が動かない。


 足元の影だけが、刀の影に押さえ込まれている。


 黒猫たちは消えた。


 だが、自分が安全になった感じは少しもしない。


 むしろ、別の檻へ入れられたようだった。


 リサは戒十の左手へ、今度は自分の指先を軽く当てた。


 爪の先で、黒い筋のひとつをなぞる。


 その瞬間、リサの瞳がかすかに揺れた。


 彼女の背後に、別の影が見えた気がした。


 女性のような影。


 長い髪。


 王冠にも、折れた角にも見える輪郭。


 戒十が瞬きをすると、それは消えていた。


 リサは小さく息を吐く。


「シン」


「ああ」


「連れてく」


「本人の同意は」


「取れると思う?」


「取れなくても連れていく」


「じゃあ聞く意味ないじゃん」


「手順だ」


「ほんと硬い」


 リサは戒十へ向き直った。


「戒十くん。今から、あたしたちの店に来てもらいます」


「断る」


「即答いいね」


「帰る」


「帰ったら黒猫ちゃんたちがまた来る。さっきより増えて」


「なら警察へ行く」


「警察も困るよ。影を噛む猫なんて、捕まえ方わかんないし」


「病院」


「病院はもっと困る。君の血を採って、検査して、数値が変だから大きい病院へ回して、それから面倒な人たちが来る」


「面倒な人たち?」


「白い昼の人たち」


 リサは冗談めかして言ったが、シンの表情がわずかに硬くなった。


「今はそこまで言うな」


「はいはい。つまりね、普通の場所に行っても、君は普通には扱われない」


「じゃあ、あんたたちは普通に扱うのか」


「普通じゃない子として、ちゃんと扱う」


「最悪の答えだな」


「でも嘘じゃない」


 リサは軽く笑った。


 戒十はその笑顔を睨み返す。


「僕の生活を勝手に終わらせるな」


 その言葉は、自分で思った以上に強く出た。


 リサの目が一瞬だけ細くなる。


 シンは無言で戒十を見ている。


「家も、学校も、僕のものだ。昨日から何か変なことが起きてるのは認める。でも、だからって、知らない大人に連れていかれて、はいそうですかってなるわけないだろ」


「知らない大人」


 リサが自分を指差す。


「あたし、そんなに大人に見える?」


「そこじゃない」


「シンは大人だよ。見た目どおり、たぶん」


「たぶん?」


「細かい年齢は本人が怒るから」


「リサ」


「はい、黙る」


 リサは軽く両手を上げた。


 その軽さに、戒十の苛立ちはさらに増す。


「冗談を言う場面じゃない」


「冗談を言わないと、だいたいの夜はきついんだよ」


 その言葉だけ、少し違った。


 軽い声の奥に、何か深い疲れが見えた。


 戒十は一瞬、言い返す言葉を失う。


 リサはすぐに笑顔へ戻った。


「まあ、初対面で信用しろって言っても無理だよね。だから、まずは短く説明。君は噛まれた。肉体じゃなくて、影を」


「影を噛まれた?」


「そう。左手の傷は結果。本当の傷はこっち」


 リサは床の影を指差した。


 刀の影に縫われた戒十の影。


 その左手部分は、噛み取られたように欠け、黒い筋が周囲へ広がっていた。


 戒十は息を呑む。


 肉体の左手より、影の左手のほうが傷が深い。


「影は、ただの光の反対側じゃない。君の身体とくっついてる、もう一つの身体みたいなもの。そこを噛まれると、色々起きる。目が変わったり、音が聞こえすぎたり、影が勝手に動いたり」


「……何で知ってる」


「経験者だから」


 リサはさらりと言った。


 戒十は彼女の足元を見た。


 そこで、違和感に気づいた。


 リサの影がない。


 商店街の蛍光灯も、非常灯も、看板の光もある。


 シンには影がある。


 戒十にもある。


 シャッターや柱にもある。


 だが、リサの足元だけが、不自然に薄い。


 影と呼べるものが見当たらない。


 戒十の視線に気づき、リサは少しだけ笑った。


「気づいちゃった?」


「影が……」


「うん。あたし、ちょっと特殊でね」


「何なんだよ、本当に」


「だから、その説明をしに行くの。ここで長話すると、また猫ちゃんが寄ってくるし」


 シンが刀をわずかに動かした。


 影に刺さっていた黒い刃が、少しだけ浮く。


 戒十の指先に感覚が戻った。


 完全ではない。


 だが、動かせる。


「逃げようとするな」


 シンが言った。


「逃げたら?」


「もう一度縫う」


「脅迫だろ」


「警告だ」


「同じだ」


「違う。脅迫は相手を従わせるために危害を示す。警告は危害を避けるために伝える」


「そういう屁理屈、嫌いじゃないけど今は腹立つ」


「余裕があるな」


「あるように見えるなら目が悪い」


「目は悪くない」


 シンは淡々と言った。


 戒十は舌打ちしたくなった。


 だが、そのやり取りの間に、身体の震えが少しだけ収まっていることへ気づく。


 リサはそれを見ている。


 彼女は多分、わざと軽い口調で話している。


 こちらを油断させるためか。


 落ち着かせるためか。


 どちらもか。


 信用はできない。


 だが、完全な敵とも言い切れない。


 リサは紙袋を持ち上げた。


「よし。黒猫くん回収。プリンも無事。今日のお仕事、だいたい成功」


「僕は荷物じゃない」


「今は暴れる荷物かな」


「最悪だ」


「歩ける?」


 戒十は立ち上がろうとした。


 膝に力が入る。


 シンが刀の影を完全に抜く。


 拘束が解けた瞬間、身体の感覚が戻ってきた。


 だが、同時に左手の影も動こうとする。


 シンの刃が戒十の喉元ではなく、足元の影へ向けられた。


「次に影が勝手に動いたら、迷わず縫う」


「僕に言うな」


「おまえの影だ」


「だから僕じゃない」


「今はまだ、そう言える段階だ」


 戒十はその言い方に引っかかった。


「今はまだ?」


 シンは答えない。


 リサが間に入る。


「そこも店で説明ね。歩きながらだと、たぶん君、十回くらい逃げようとするでしょ」


「するかもね」


「正直でよろしい」


「逃げたら?」


「シンが縫う」


「結局それか」


「でも安心して。シン、見た目より優しいから」


「今のところ優しさの定義がわからなくなってる」


「そのうちわかるよ。たぶん」


 リサは先に歩き出した。


 シンは戒十の斜め後ろにつく。


 逃げ道を塞ぐ位置。


 戒十は二人の間に挟まれるように歩き出した。


 商店街の床には、黒猫型落影の残した黒い煤がわずかに散っている。


 リサが歩くたび、それらは彼女の足元へ吸い寄せられるように消えていく。


 影のない女。


 影を縫う男。


 そして、影を噛まれた自分。


 昨日まで知らなかった夜の仕組みが、急に目の前へ開き始めている。


 それを恐れている自分がいる。


 同時に、知りたいと思っている自分もいる。


 そのことが、戒十には一番腹立たしかった。


 リサが振り返る。


「そういえば戒十くん、プリン好き?」


「この状況でその質問?」


「緊張ほぐそうと思って」


「ほぐれると思った?」


「思ってないけど、沈黙よりまし」


「普通」


「普通って、好きでも嫌いでもないやつ?」


「そう」


「じゃあ、今日の限定プリンはあたしが食べるね」


「勝手にどうぞ」


「うん、勝手にする」


 リサは笑った。


 その笑い方は軽い。


 だが、彼女の指先はまだわずかに震えていた。


 戒十はそれを見逃さなかった。


 自分の傷を見たとき、リサは何かを知った。


 言わなかった。


 シンには通じている。


 自分にだけ伏せている。


「リサ」


 戒十が名前を呼ぶと、彼女は少し意外そうに振り返った。


「お、名前呼んだ。進歩?」


「僕の傷、何だった」


「影咬」


「それは聞いた」


「なら今はそこまで」


「隠すな」


「隠すよ」


 リサはあっさり言った。


 戒十は立ち止まりそうになる。


 背後でシンの足も止まった。


 リサだけが、数歩先で振り返る。


「言ったでしょ。言ったら君が暴れるかもしれないって」


「僕のことだろ」


「そう。君のこと。だからこそ、言うタイミングは選ぶ」


「勝手に?」


「勝手に」


「最悪だ」


「うん。最悪だね」


 リサは笑わなかった。


「でも、最悪なことを一度に全部渡されるよりは、少しずつのほうが生き残りやすい夜もあるんだよ」


 戒十は言い返せなかった。


 リサはまた歩き出す。


 シンが低く言った。


「今は従え」


「命令?」


「助言だ」


「さっきから便利に言い換えるな」


「命令が必要なら命令する」


「嫌な大人だな」


「大人は大抵嫌なものだ」


「否定しないのかよ」


 シンは答えなかった。


 戒十は舌打ちする代わりに、左手を握った。


 サポーターの下で、黒い痣はまだ熱い。


 けれど、さっきまでの暴れるような熱ではない。


 リサが触れたあとから、少しだけ沈んでいる。


 なぜかはわからない。


 わからないことばかりだった。


 商店街を抜けると、旧市街のさらに奥へ続く細い坂道があった。


 その先に、紫色のネオンが小さく揺れている。


 遠くからでは文字までは読めない。


 だが、光の色だけが雨上がりの夜の中で妙に鮮やかだった。


 リサはその光を指差した。


「あそこ。あたしたちの店」


「店?」


「バー兼ライブハウス。未成年は本当は入店禁止だけど、今日は特別」


「警察に言うぞ」


「警察が困るって話したばかりでしょ」


「冗談」


「お。冗談言う余裕出てきた」


「余裕じゃない。現実逃避」


「いいね。夜を生きる基本だよ、現実逃避」


 リサが軽く笑う。


 シンは無言。


 戒十は紫のネオンを見つめた。


 その光の下では、建物の壁へいくつもの影が重なっている。


 人の影。


 看板の影。


 電線の影。


 そして、その奥に、見たことのない夜の入口が開いている気がした。


 帰りたい。


 帰れば、また黒猫が来る。


 逃げたい。


 逃げれば、影が勝手に戦う。


 知りたくない。


 知らなければ、次に誰かを傷つけるかもしれない。


 戒十は足を止めなかった。


 自分の意思で歩いている。


 少なくとも、今はそう思いたかった。


 背後の街灯が揺れ、戒十の影が長く伸びる。


 その左手の先には、まだシンの刀の影がつけた細い傷のような線が残っていた。


 前方で、リサが振り返って手を振る。


「ようこそ、黒猫くん。夜のこっち側へ」


「だから、その呼び方やめろ」


「そのうち慣れるよ」


「絶対慣れない」


「みんな最初はそう言うんだよねえ」


 リサの笑い声が、紫のネオンの下へ溶けていく。


 戒十はその背中を睨みながら、左手を握りしめた。


 足元の影も、同じように左手を握った。


 今度は、肉体よりほんの一瞬だけ遅れて。

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