第五節 リサとシン
眠れるわけがなかった。
戒十は自分の部屋のベッドに横になり、天井を見ていた。
部屋の照明は消してある。
カーテンも閉めた。
スマートフォンは枕元に伏せたまま。
それでも暗くならない。
街灯の光がカーテンの隙間から細く入り、天井へ薄い線を引いている。その一本の光だけで、部屋の輪郭がわかった。
机の上のカメラ。
椅子に掛けた制服の上着。
床へ置いたバッグ。
ゴミ箱へ捨てた血のついたティッシュ。
左手の噛み痕。
足元の影。
どれも見える。
見えすぎる。
目を閉じても、瞼の裏へ部屋の配置が残っている。暗闇の中へ沈むのではなく、暗闇そのものが視界になったようだった。
喉が乾いている。
洗面所で血を床へ落としたあと、いくら水を飲んでも変わらなかった。
水ではない。
身体が求めているものは、もっと温かく、もっと濃い。
そのことを認めたくなくて、戒十は何度も寝返りを打った。
左手が疼く。
黒い痣は、絆創膏とサポーターで隠してある。それでも、皮膚の下で誰かが小さく爪を立てているような感覚が続いていた。
スマートフォンが震えた気がして、戒十は反射的に顔を向けた。
画面は暗い。
通知はない。
純からの最後の言葉は、まだ頭に残っている。
『明日、話そう』
明日。
その言葉だけが、部屋の中で浮いている。
明日になれば、本当に話せるのか。
何を。
左手の傷のこと。
瞳の色のこと。
鏡の中の自分が止まったこと。
影が血を吸ったこと。
勝手に「会いたい」と送ったこと。
そんなことを言えば、純はどういう顔をする。
心配するだろう。
病院へ行こうと言うだろう。
あるいは、怖がるかもしれない。
路地の女性のように。
あの悲鳴が蘇る。
戒十は枕を掴み、顔へ押し当てた。
「違う」
何が違うのか、自分でもわからなかった。
助けた。
少なくとも、あの女性は逃げられた。
男は手を離した。
でも、あれは自分が正しく動いたからではない。
影が先に動いた。
自分が迷っている間に。
自分が理屈を並べている間に。
そして、止めようとしても止まらなかった。
左手の痣が熱を持つ。
まるで、それでよかったのだと主張するように。
戒十は枕を放り投げ、上体を起こした。
部屋の隅に落ちた枕の影が、床へ黒く伸びる。
その影が、一瞬だけ猫の背中のように見えた。
違う。
ただの影だ。
そう思った直後、窓の外で何かが鳴いた。
にゃあ、とも、ぎゃあ、ともつかない声。
戒十の全身が固まった。
野良猫。
夜の住宅街なら珍しくない。
そう自分へ言い聞かせる。
しかし耳が勝手に音を拾った。
窓の外ではない。
もっと遠い。
道路の向こう。
電柱の上。
あるいは、屋根の縁。
同じ声が、別の場所からも聞こえた。
一匹ではない。
戒十はベッドから降りた。
床へ足をつける。
冷たさを感じる前に、足裏が床板のわずかな歪みを拾った。家の中の音が遠ざかり、外の音が近づく。
風。
車。
信号機の電子音。
遠くの踏切。
そして、小さな爪がコンクリートを叩く音。
かつ、かつ。
軽い。
人間ではない。
四つ足。
複数。
戒十はカーテンを少しだけ開けた。
マンションの外廊下が見える。
非常灯の緑が、白い壁へ薄く滲んでいた。
何もいない。
だが、廊下の向こうの角に、黒いものが一瞬だけ消えた。
猫。
そう見えた。
戒十は窓から離れる。
心臓が早くなる。
喉の渇きも強くなる。
逃げるべきだ。
いや、家の中にいればいい。
鍵もかけてある。
マンションの五階だ。
普通の猫が入ってくるはずがない。
普通なら。
その言葉がもう信用できない。
左手が痛んだ。
痣の奥で、何かが外へ出ようとする。
戒十はスマートフォンを手に取った。
誰に連絡する。
純ではない。
巻き込むな。
警察でもない。
「猫に追われています」と言うのか。
病院でもない。
症状を説明できない。
連絡先の画面を開いて、すぐ閉じた。
玄関のほうで、かすかな音がした。
ドアを爪で引っかくような音。
ぎり。
ぎり。
戒十は息を止める。
外廊下にいる。
何かが。
玄関の向こうへ近づく。
ひとつではない。
小さな足音が二つ、三つ、重なっている。
ドアの下の隙間から、黒いものが細く伸びてきた。
影だった。
廊下の非常灯の光を受けて、ドアの隙間から内側へ差し込むはずのない影。
床の上へ細く這い、戒十の足元へ向かってくる。
戒十の影が反応した。
左手の部分が、床へ濃く落ちる。
黒い指が、勝手に開く。
「やめろ」
小声で言った。
玄関の向こうから、低い鳴き声が返る。
戒十は部屋着の上にパーカーを羽織り、バッグからカメラだけを抜いた。
どうしてカメラなのか、自分でもわからない。
証拠。
記録。
そう言えば聞こえはいい。
だが、本当は違う。
カメラを持てば、ただ怯えているだけではなくなる気がした。
戒十は玄関へ近づいた。
ドアののぞき穴を見ようとして、やめる。
もし向こう側から目が見えたら。
そう考えた瞬間、喉が乾く。
玄関の隙間から伸びた黒い影が、戒十の靴の先へ触れた。
左手が勝手に跳ねた。
その動きに合わせて、足元の影が伸びる。
床の上で、二つの黒が触れた。
頭の奥で、猫の鳴き声がした。
いや。
笑い声にも似ていた。
戒十は一歩退いた。
同時に、ドアの向こうで何かが跳ねる。
外廊下の手すりを蹴った音。
次の瞬間、窓の外へ黒い影が横切った。
五階の窓の外を。
「嘘だろ……」
戒十は部屋へ戻り、窓へ近づいた。
ガラスの向こう、手すりの上に黒猫がいた。
濡れていない黒い身体。
金色に見える目。
身体の輪郭が、非常灯の中で揺れている。
昨夜の黒猫より小さい。
だが同じものだと、直感でわかった。
黒猫は窓越しに戒十を見ていた。
口を開く。
鳴き声は聞こえない。
代わりに、左手の傷が内側から噛まれたように痛んだ。
戒十は窓から離れた。
黒猫がもう一匹、手すりへ飛び乗る。
さらに一匹。
五階の外廊下ではなく、外壁の排水管を伝って上がってきたのか。
あり得ない。
だが、現にいる。
黒猫たちの影だけが、光源とは合わない方向へ伸びている。
ガラスの向こうで、それぞれの影が窓の隙間を探すように揺れていた。
家の中にいても駄目だ。
このままでは、何が起きるかわからない。
両親が帰ってきたら。
それだけはまずい。
戒十はバッグを掴み、玄関へ向かった。
外へ出る。
自分が追われるなら、自分だけで済む場所へ。
逃げ道がある場所へ。
人の少ない夜道へ。
そう考えている時点で、まともではない。
それでも、部屋の中へ黒猫を入れるよりはましだった。
戒十はドアを開けた。
外廊下に黒猫はいない。
だが、非常灯の下にいくつもの影だけが残っていた。
持ち主のいない影。
猫の形をした黒い染みが、床と壁を這っている。
戒十が一歩外へ出ると、それらが一斉に顔を上げた。
顔などない。
それでも、見られた。
戒十は走った。
◇
夜の住宅街は、昼間とは別の街だった。
人がいないわけではない。
コンビニへ向かう会社員。
塾帰りの中学生。
犬を散歩させる老人。
駅へ向かう自転車。
だが、戒十の視界では、人間よりも影のほうが目立った。
街灯に引き伸ばされた影。
自動販売機の光で二重になる影。
車のヘッドライトに切り裂かれる影。
その間を、黒猫型の影が走っている。
屋根の上。
塀の上。
電柱の根元。
道路標識の裏。
実体のある黒猫もいる。
影だけのものもいる。
どちらが本物で、どちらが影なのか、もうわからなかった。
戒十は人通りのある道を避け、旧市街へ向かった。
細い路地が多い。
古い商店のシャッターが下り、街灯の間隔が広い。
暗い場所が増える。
そこなら姿を隠せる。
そう思ったのは、自分の判断だったのか。
それとも、影に引かれているのか。
わからない。
足は速かった。
普通の全力疾走ではない。
呼吸が乱れない。
地面を蹴るたび、身体が前へ滑る。
曲がり角の手前で速度を落とす必要もなかった。
壁へ手をつき、身体を捻り、反動で次の道へ飛び込む。
考えるより先に動ける。
そのことが、怖いのに気持ちいい。
追われているはずなのに、夜の中で身体がほどけていく感覚があった。
戒十は低い塀を越えた。
民家の裏庭へ落ち、すぐに反対側のフェンスを掴む。
指が金網へ食い込む。
金属がたわむ。
腕の力ではなく、背中から肩、腰、足までが一本のしなやかな線になって身体を持ち上げる。
フェンスを越える。
着地。
また走る。
耳が背後の足音を拾う。
小さな爪。
複数。
増えている。
戒十は振り返った。
路地の奥に、黒い猫の群れがいた。
十匹ほど。
いや、数えられない。
街灯の下へ出たものは輪郭を持つが、暗がりへ入ると影と混ざる。次の光の下へ出てきたとき、数が増えている。
どれも濡れていない。
どれも金色の目で戒十を見ている。
その足元から伸びる影は、猫の形をしていなかった。
細い腕。
人の髪のようなもの。
裂けた布のようなもの。
地面へ広がった黒い輪郭の中に、いくつもの形が混ざっている。
戒十は息を呑んだ。
左手が熱い。
影が動きたがっている。
「来るな」
声に出す。
黒猫たちは止まらない。
一匹が塀の上から跳んだ。
戒十の顔へ向かってくる。
肉体は避けるつもりだった。
右へ半歩。
それで足りる。
だが、足元の影が先に動いた。
戒十の影の左腕が、地面から跳ね上がる。
黒猫へ向かって伸び、空中でその影を掴んだ。
黒猫の身体が不自然に止まる。
首根っこを掴まれたように、空中で一瞬ぶら下がった。
次の瞬間、黒い霧のように弾ける。
鳴き声が頭の中で割れた。
「ぐっ……!」
戒十は左手を押さえた。
痛い。
影が相手を掴んだのに、肉体の手にも反動が来る。
黒猫の影が弾けた場所から、黒い煤のようなものが降る。
それが地面へ落ちる前に、別の猫たちの影へ吸い込まれた。
減っていない。
一匹を弾いても、終わらない。
戒十は再び走った。
旧市街の奥へ。
商店街のアーケードへ。
夜にはほとんど人が通らない、古い屋根付きの通り。
シャッターには、閉店した店の古いポスターが色褪せて貼られている。
蛍光灯は半分ほど消え、残ったものも点滅している。
光と闇がまだらに落ちる場所だった。
戒十にとっては、最悪に近かった。
光源が複数ある。
影が分かれる。
自分の足元から、三本、四本の影が伸びる。
そのうちどれが自分のものなのか、感覚が曖昧になる。
右へ伸びた影が怒っている。
左へ伸びた影が怯えている。
後ろへ伸びた影が、何かを引きずっている。
そんなふうに感じる。
黒猫たちは、その分かれた影へ噛みつこうとしていた。
背後から一匹。
右のシャッター上から一匹。
閉店した八百屋の軒下から二匹。
戒十の影が勝手に応戦する。
左腕だけではない。
背中の影が棘のように伸び、猫の影を弾く。
足元の影が爪の形になり、地面を裂くように走る。
戒十の肉体も、それに引っ張られて動いた。
指先が熱い。
爪が硬くなっている。
パーカーの袖の内側で、左腕の筋肉が別の形へ組み替えられるように軋む。
「やめろ……!」
叫ぶ。
だが、叫びながらも身体は動く。
黒猫が跳ぶ。
戒十の左手が振るわれる。
空を掻いたはずの指先が、猫の影へ触れる。
黒猫の身体が歪み、地面へ叩き落とされる。
また一匹。
また一匹。
戒十は戦っていた。
自分が戦っている。
しかし、その判断の半分以上は自分ではない。
左手の爪が伸びる。
皮膚の下から黒い毛のようなものが一瞬浮かび、すぐに引っ込む。
指の関節が、普段より柔らかく曲がった。
痛みと快感が同時に来る。
裂けるようで、解放されるようだった。
息が荒くなる。
喉が乾く。
血の匂いが欲しい。
影が黒猫を弾くたび、左手の痣が喜ぶように熱を放つ。
その熱が、肩へ、首へ、顎へ上がってくる。
歯が疼いた。
犬歯が内側から押されている。
「駄目だ」
戒十は自分の口元を押さえた。
その隙に、黒猫の一匹が足元へ食いついた。
肉体ではない。
影の足首へ。
だが痛みは現実の足首へ来た。
鋭い痛み。
戒十は膝をつく。
複数の黒猫が一斉に距離を詰める。
目が光る。
影が伸びる。
噛みつかれる。
そう思った瞬間、アーケードの奥から、女の声がした。
「はいはい、そこまでー」
場違いなほど軽い声だった。
黒猫たちの動きが、一瞬止まる。
戒十も顔を上げた。
商店街の薄暗い通りの向こうに、ひとりの女性が立っていた。
年齢は二十代前半に見える。
明るい栗色の髪をゆるくまとめ、紫色のショートジャケットを羽織っている。夜の商店街に似合うような、似合わないような、派手な服装だった。
手にはコンビニの紙袋。
まるで近所へ買い物へ来た帰りみたいに、彼女は黒猫の群れと戒十を見比べる。
「うわ。思ったより集まってるじゃん。黒猫くん、人気者だねえ」
戒十は息を切らしたまま、その女を睨んだ。
「誰……」
「質問する元気あるなら、まだ大丈夫かな」
女はにこっと笑った。
緊張感のない笑顔。
だが、黒猫たちは彼女へ近づかなかった。
むしろ、少しずつ後ずさっている。
「リサ」
別の声がした。
低い男の声。
「余計なことを言う前に片づけろ」
「はーい。シンは相変わらず急かすなあ。出会いの挨拶って大事なんだよ?」
「相手が会話できる状態ならな」
アーケードの支柱の陰から、黒いコートの男が現れた。
年齢は四十歳前後に見える。
背が高く、無駄のない身体つき。
短く整えられた黒髪。
手には、鞘に収まった細身の刀のようなものを持っている。
日本刀とは違う。
もっと実用本位で、装飾の少ない刃物。
だが、刀そのものよりも、その足元に落ちる影が異様だった。
男の影から、細く鋭い線が伸びている。
刀の影だけが、実物より長い。
商店街の点滅する蛍光灯の下で、その影は濃い黒として地面へ沈んでいた。
女――リサは紙袋を片手で抱え直し、もう片方の手を軽く振った。
「黒猫くん、ちょっとそのまま動かないでね。動くとシンが怖いことするから」
「もう怖いことになってるんだけど」
戒十はかすれた声で言った。
「口答えできるの、いいね。可愛くないけど」
「誰だって聞いてる」
「リサ。夜のお姉さん。怪しい者ではありませーん」
「怪しい者はだいたいそう言う」
「じゃあ怪しい者です」
「リサ」
シンの声が一段低くなる。
リサは肩をすくめた。
「はいはい」
次の瞬間、リサの姿が消えた。
戒十は見失った。
風だけが動いた。
商店街のシャッターがかすかに鳴り、黒猫の一匹が宙へ跳ね上がる。
リサはその背後にいた。
人間の動きではない。
指先が黒猫の影へ触れた瞬間、猫の身体が紙のように潰れ、黒い煙になって弾ける。
リサは着地しない。
シャッターの凹凸を蹴り、反対側の看板へ移る。
笑いながら。
「一匹、二匹、三匹。多いなあ。誰かさん、よっぽど気に入られたみたい」
黒猫たちが一斉に散る。
逃げるもの。
リサへ飛びかかるもの。
戒十へ向かうもの。
そのうち戒十へ向かった二匹を、彼の影が勝手に迎え撃とうとした。
「動くな」
シンの声。
戒十が反応するより早く、男が踏み込んだ。
抜刀の音はほとんど聞こえなかった。
ただ、地面の上を走る刀の影が見えた。
実物の刃は戒十に届いていない。
だが、刀の影だけがアーケードの床を滑り、戒十の影へ突き刺さった。
影の左腕。
黒猫へ伸びかけていた部分へ、まっすぐに。
「――あ、」
声にならない声が漏れた。
痛みではない。
いや、痛みもある。
だがそれ以上に、身体の内側から釘で床へ打ちつけられたような感覚だった。
戒十の肉体が止まる。
膝をついた姿勢のまま、動けない。
指一本動かせない。
呼吸すら、浅くしかできない。
床に突き刺さったのは影だ。
なのに、肉体が固定されている。
左手の痣が激しく脈打つ。
影が暴れようとする。
だが、刀の影がそれを押さえ込んでいる。
「な、に……」
戒十は歯を食いしばった。
シンは戒十のすぐ前に立っていた。
黒いコートの裾が、床の上の影へ重なる。
「今なら止められる」
シンは言った。
抑揚のない声だった。
「次も止められるとは限らない」
「何を……」
「おまえだ」
その言葉に、戒十の胸の奥が熱くなる。
「ふざけるな……僕を襲ってるのは、あいつらだろ……!」
「それと、おまえを止める必要があることは別だ」
「助けに来たんじゃないのかよ」
「助けるために止めている」
「人を床に縫いつけて?」
「影を縫った。肉体を傷つけるよりましだ」
「ましって……!」
戒十は身体を動かそうとした。
動かない。
影が釘で留められたように、床へ貼りついている。
呼吸をするたび、左手の痣が熱くなる。
シンの背後で、リサが最後の黒猫を処理した。
彼女の動きは、踊るようだった。
ただし、触れたものは消える。
黒猫型の落影たちは、彼女の指先や足元の影に触れるたび、黒い灰になって消えていく。
リサは最後の一匹をシャッターの影へ追い込み、軽く指を鳴らした。
細い銀色の糸のようなものが光り、猫の影を絡め取る。
黒猫は声もなく潰れた。
リサは紙袋を拾い直し、中を覗く。
「あー、プリン無事。よかった」
「その心配をする場面か」
シンが言う。
「大事でしょ。限定のやつだよ」
「今はそっちじゃない」
「はいはい」
リサは戒十の前へしゃがみ込んだ。
近い。
距離感が異常に近い。
彼女は戒十の顔を覗き込み、琥珀色に変わった瞳を見て、小さく口笛を吹いた。
「うわ。目、もう変わってる。進行早いねえ」
「触るな」
戒十が言う前に、リサの指が彼の頬へ伸びた。
戒十は避けようとした。
動けない。
リサは頬についた細かな擦り傷を見て、次に左手へ目を落とす。
「黒猫くん、お名前は?」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ、噛まれたくん?」
「もっと悪い」
「わがままだなあ。じゃあ、本名」
「……三倉戒十」
「戒十くんね。あたしはリサ。で、怖い顔してるのがシン」
「聞いてない」
「自己紹介は大事って言ったでしょ」
「僕を拘束して自己紹介する人間を信用しろって?」
「人間とは言ってないよ?」
リサは楽しそうに笑った。
戒十は息を呑む。
冗談かどうかわからなかった。
いや、冗談であってほしい。
だが、目の前の女の動きは普通ではない。
黒猫型の何かを、あまりにも簡単に消した。
シンの刀も同じだ。
影を縫うなど、普通の人間にできるはずがない。
「何なんだよ、おまえら」
戒十の声は怒りよりも、焦りに近かった。
リサは軽い調子のまま答える。
「夜に噛まれちゃった子を回収したり、説明したり、たまに止めたりする親切な人たち」
「誘拐犯の自己紹介に聞こえる」
「惜しい。保護者かな」
「誰が保護されるって決めた」
「君の影が今にも人を噛みそうだから」
「噛みそうなのは、あの猫だろ!」
戒十は床に散った黒い灰を睨む。
黒猫たちはもういない。
リサが処理した。
それでも、背中には追われていた感覚が残っている。
シンが低く言った。
「あれは落影だ」
「らく……何?」
「肉体を失った影の残骸。今の個体は猫の形をしているが、猫ではない」
「説明になってない」
「説明はあとだ」
「あとって何だよ。僕は家に帰る」
「帰れば、また来る」
シンの言葉に、戒十は黙った。
リサは珍しく笑わなかった。
紙袋を横へ置き、戒十の左手へ視線を落とす。
「ちょっと見せて」
「嫌だ」
「嫌でも見る」
「さっきまで無理に見ないとか言ってた誰かとは大違いだな」
「あ、純ちゃん?」
戒十の心臓が跳ねた。
「なんでその名前を」
「当たり?」
リサが目を細める。
戒十は自分の動揺を呪った。
シンがリサを見る。
「遊ぶな」
「遊んでないよ。反応見ただけ」
「それを遊ぶと言う」
「シンは言葉が硬いねえ」
リサは戒十の左手へ手を伸ばした。
戒十は抵抗しようとするが、身体は動かない。
床へ縫いつけられた影が、まだ彼を固定している。
「外すよ」
「勝手にするな」
「勝手にしてるのは君の影も一緒だから、お互い様」
リサはサポーターをゆっくり外した。
噛み痕が露わになる。
二つの点。
そこから伸びる黒い筋。
指先へ向かう枝分かれ。
リサの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
軽い笑みが消える。
瞳の奥に、別の色が差した。
恐怖。
怒り。
それから、ひどく古い記憶に触れたような痛み。
だが次の瞬間には、リサはいつもの顔へ戻っていた。
「痛む?」
「今は、あんたたちのせいで全身が痛い」
「影を縫われると、最初はそうだよね」
「慣れる予定はない」
「慣れないほうがいいよ。慣れるような人生、あんまりおすすめしないし」
リサは戒十の手の甲へ指を添えた。
触れた瞬間、戒十の左手がびくりと震える。
影の奥で、何かがリサの指を噛もうとした。
シンの刀の影が、さらに深く戒十の影へ沈む。
「ぐっ……!」
「暴れるな」
「僕じゃない!」
「そう言う奴ほど危ない」
「本当に違う!」
戒十は怒鳴った。
その声が商店街の古い屋根へ反響する。
リサは手を離さなかった。
彼女の指先が、黒い痣の周囲をなぞる。
そして、噛み痕の中心へ目を凝らした。
戒十には見えない何かを見ている。
リサの呼吸が、わずかに浅くなった。
彼女の口元から、低い声が漏れる。
「……嘘でしょ」
シンが反応する。
「何だ」
リサはすぐに答えなかった。
戒十は二人を睨む。
「何だよ」
「んー」
リサは笑おうとした。
だが、その笑みは少しぎこちない。
「黒猫くん、ずいぶん面倒なのに噛まれたねえ」
「だから、その黒猫くんやめろ」
「ごめんごめん。戒十くん」
「面倒って何」
「簡単に言うと、普通の野良落影じゃない」
「簡単に言ってわからない単語を入れるな」
「だよねえ」
リサはシンへ視線を送った。
シンの表情は変わらない。
だが、わずかに顎が引かれた。
何かを察した顔だった。
「リサ」
「うん。あとで」
「今言え」
「ここでは言わない」
低い声だった。
それまでの軽さが消えていた。
戒十はその変化を聞き逃さなかった。
「僕に関係あることだろ」
「もちろん」
「じゃあ言えよ」
「言ったら、君がもっと暴れるかもしれない」
「人の影を床に縫いつけてる奴が、それを心配する?」
「今は止められるから心配してるの」
リサの声は柔らかい。
だが、言っている内容は残酷だった。
今は止められる。
それは、次は止められない可能性を前提にしている。
シンと同じだ。
戒十は歯を食いしばった。
「僕を何だと思ってる」
シンが答えた。
「危険な状態の人間」
「怪物って言えばいいだろ」
「まだ人間だ」
即答だった。
戒十は一瞬、言葉を失う。
シンの目は冷たい。
同情も、慰めもない。
だが、怪物と切り捨てる目でもなかった。
「だから止めている」
「人間をこんなふうに扱うのか」
「人間だからだ。怪物なら会話はしない」
「会話してるように見えない」
「質問に答えている」
「答えになってない」
「おまえが理解する時間を稼いでいる」
「上から言うな」
「下から言えば聞くのか」
「聞かない」
「なら同じだ」
リサが吹き出した。
「シン、たまに面白いよね」
「黙れ」
「はいはい」
戒十は笑えなかった。
身体が動かない。
足元の影だけが、刀の影に押さえ込まれている。
黒猫たちは消えた。
だが、自分が安全になった感じは少しもしない。
むしろ、別の檻へ入れられたようだった。
リサは戒十の左手へ、今度は自分の指先を軽く当てた。
爪の先で、黒い筋のひとつをなぞる。
その瞬間、リサの瞳がかすかに揺れた。
彼女の背後に、別の影が見えた気がした。
女性のような影。
長い髪。
王冠にも、折れた角にも見える輪郭。
戒十が瞬きをすると、それは消えていた。
リサは小さく息を吐く。
「シン」
「ああ」
「連れてく」
「本人の同意は」
「取れると思う?」
「取れなくても連れていく」
「じゃあ聞く意味ないじゃん」
「手順だ」
「ほんと硬い」
リサは戒十へ向き直った。
「戒十くん。今から、あたしたちの店に来てもらいます」
「断る」
「即答いいね」
「帰る」
「帰ったら黒猫ちゃんたちがまた来る。さっきより増えて」
「なら警察へ行く」
「警察も困るよ。影を噛む猫なんて、捕まえ方わかんないし」
「病院」
「病院はもっと困る。君の血を採って、検査して、数値が変だから大きい病院へ回して、それから面倒な人たちが来る」
「面倒な人たち?」
「白い昼の人たち」
リサは冗談めかして言ったが、シンの表情がわずかに硬くなった。
「今はそこまで言うな」
「はいはい。つまりね、普通の場所に行っても、君は普通には扱われない」
「じゃあ、あんたたちは普通に扱うのか」
「普通じゃない子として、ちゃんと扱う」
「最悪の答えだな」
「でも嘘じゃない」
リサは軽く笑った。
戒十はその笑顔を睨み返す。
「僕の生活を勝手に終わらせるな」
その言葉は、自分で思った以上に強く出た。
リサの目が一瞬だけ細くなる。
シンは無言で戒十を見ている。
「家も、学校も、僕のものだ。昨日から何か変なことが起きてるのは認める。でも、だからって、知らない大人に連れていかれて、はいそうですかってなるわけないだろ」
「知らない大人」
リサが自分を指差す。
「あたし、そんなに大人に見える?」
「そこじゃない」
「シンは大人だよ。見た目どおり、たぶん」
「たぶん?」
「細かい年齢は本人が怒るから」
「リサ」
「はい、黙る」
リサは軽く両手を上げた。
その軽さに、戒十の苛立ちはさらに増す。
「冗談を言う場面じゃない」
「冗談を言わないと、だいたいの夜はきついんだよ」
その言葉だけ、少し違った。
軽い声の奥に、何か深い疲れが見えた。
戒十は一瞬、言い返す言葉を失う。
リサはすぐに笑顔へ戻った。
「まあ、初対面で信用しろって言っても無理だよね。だから、まずは短く説明。君は噛まれた。肉体じゃなくて、影を」
「影を噛まれた?」
「そう。左手の傷は結果。本当の傷はこっち」
リサは床の影を指差した。
刀の影に縫われた戒十の影。
その左手部分は、噛み取られたように欠け、黒い筋が周囲へ広がっていた。
戒十は息を呑む。
肉体の左手より、影の左手のほうが傷が深い。
「影は、ただの光の反対側じゃない。君の身体とくっついてる、もう一つの身体みたいなもの。そこを噛まれると、色々起きる。目が変わったり、音が聞こえすぎたり、影が勝手に動いたり」
「……何で知ってる」
「経験者だから」
リサはさらりと言った。
戒十は彼女の足元を見た。
そこで、違和感に気づいた。
リサの影がない。
商店街の蛍光灯も、非常灯も、看板の光もある。
シンには影がある。
戒十にもある。
シャッターや柱にもある。
だが、リサの足元だけが、不自然に薄い。
影と呼べるものが見当たらない。
戒十の視線に気づき、リサは少しだけ笑った。
「気づいちゃった?」
「影が……」
「うん。あたし、ちょっと特殊でね」
「何なんだよ、本当に」
「だから、その説明をしに行くの。ここで長話すると、また猫ちゃんが寄ってくるし」
シンが刀をわずかに動かした。
影に刺さっていた黒い刃が、少しだけ浮く。
戒十の指先に感覚が戻った。
完全ではない。
だが、動かせる。
「逃げようとするな」
シンが言った。
「逃げたら?」
「もう一度縫う」
「脅迫だろ」
「警告だ」
「同じだ」
「違う。脅迫は相手を従わせるために危害を示す。警告は危害を避けるために伝える」
「そういう屁理屈、嫌いじゃないけど今は腹立つ」
「余裕があるな」
「あるように見えるなら目が悪い」
「目は悪くない」
シンは淡々と言った。
戒十は舌打ちしたくなった。
だが、そのやり取りの間に、身体の震えが少しだけ収まっていることへ気づく。
リサはそれを見ている。
彼女は多分、わざと軽い口調で話している。
こちらを油断させるためか。
落ち着かせるためか。
どちらもか。
信用はできない。
だが、完全な敵とも言い切れない。
リサは紙袋を持ち上げた。
「よし。黒猫くん回収。プリンも無事。今日のお仕事、だいたい成功」
「僕は荷物じゃない」
「今は暴れる荷物かな」
「最悪だ」
「歩ける?」
戒十は立ち上がろうとした。
膝に力が入る。
シンが刀の影を完全に抜く。
拘束が解けた瞬間、身体の感覚が戻ってきた。
だが、同時に左手の影も動こうとする。
シンの刃が戒十の喉元ではなく、足元の影へ向けられた。
「次に影が勝手に動いたら、迷わず縫う」
「僕に言うな」
「おまえの影だ」
「だから僕じゃない」
「今はまだ、そう言える段階だ」
戒十はその言い方に引っかかった。
「今はまだ?」
シンは答えない。
リサが間に入る。
「そこも店で説明ね。歩きながらだと、たぶん君、十回くらい逃げようとするでしょ」
「するかもね」
「正直でよろしい」
「逃げたら?」
「シンが縫う」
「結局それか」
「でも安心して。シン、見た目より優しいから」
「今のところ優しさの定義がわからなくなってる」
「そのうちわかるよ。たぶん」
リサは先に歩き出した。
シンは戒十の斜め後ろにつく。
逃げ道を塞ぐ位置。
戒十は二人の間に挟まれるように歩き出した。
商店街の床には、黒猫型落影の残した黒い煤がわずかに散っている。
リサが歩くたび、それらは彼女の足元へ吸い寄せられるように消えていく。
影のない女。
影を縫う男。
そして、影を噛まれた自分。
昨日まで知らなかった夜の仕組みが、急に目の前へ開き始めている。
それを恐れている自分がいる。
同時に、知りたいと思っている自分もいる。
そのことが、戒十には一番腹立たしかった。
リサが振り返る。
「そういえば戒十くん、プリン好き?」
「この状況でその質問?」
「緊張ほぐそうと思って」
「ほぐれると思った?」
「思ってないけど、沈黙よりまし」
「普通」
「普通って、好きでも嫌いでもないやつ?」
「そう」
「じゃあ、今日の限定プリンはあたしが食べるね」
「勝手にどうぞ」
「うん、勝手にする」
リサは笑った。
その笑い方は軽い。
だが、彼女の指先はまだわずかに震えていた。
戒十はそれを見逃さなかった。
自分の傷を見たとき、リサは何かを知った。
言わなかった。
シンには通じている。
自分にだけ伏せている。
「リサ」
戒十が名前を呼ぶと、彼女は少し意外そうに振り返った。
「お、名前呼んだ。進歩?」
「僕の傷、何だった」
「影咬」
「それは聞いた」
「なら今はそこまで」
「隠すな」
「隠すよ」
リサはあっさり言った。
戒十は立ち止まりそうになる。
背後でシンの足も止まった。
リサだけが、数歩先で振り返る。
「言ったでしょ。言ったら君が暴れるかもしれないって」
「僕のことだろ」
「そう。君のこと。だからこそ、言うタイミングは選ぶ」
「勝手に?」
「勝手に」
「最悪だ」
「うん。最悪だね」
リサは笑わなかった。
「でも、最悪なことを一度に全部渡されるよりは、少しずつのほうが生き残りやすい夜もあるんだよ」
戒十は言い返せなかった。
リサはまた歩き出す。
シンが低く言った。
「今は従え」
「命令?」
「助言だ」
「さっきから便利に言い換えるな」
「命令が必要なら命令する」
「嫌な大人だな」
「大人は大抵嫌なものだ」
「否定しないのかよ」
シンは答えなかった。
戒十は舌打ちする代わりに、左手を握った。
サポーターの下で、黒い痣はまだ熱い。
けれど、さっきまでの暴れるような熱ではない。
リサが触れたあとから、少しだけ沈んでいる。
なぜかはわからない。
わからないことばかりだった。
商店街を抜けると、旧市街のさらに奥へ続く細い坂道があった。
その先に、紫色のネオンが小さく揺れている。
遠くからでは文字までは読めない。
だが、光の色だけが雨上がりの夜の中で妙に鮮やかだった。
リサはその光を指差した。
「あそこ。あたしたちの店」
「店?」
「バー兼ライブハウス。未成年は本当は入店禁止だけど、今日は特別」
「警察に言うぞ」
「警察が困るって話したばかりでしょ」
「冗談」
「お。冗談言う余裕出てきた」
「余裕じゃない。現実逃避」
「いいね。夜を生きる基本だよ、現実逃避」
リサが軽く笑う。
シンは無言。
戒十は紫のネオンを見つめた。
その光の下では、建物の壁へいくつもの影が重なっている。
人の影。
看板の影。
電線の影。
そして、その奥に、見たことのない夜の入口が開いている気がした。
帰りたい。
帰れば、また黒猫が来る。
逃げたい。
逃げれば、影が勝手に戦う。
知りたくない。
知らなければ、次に誰かを傷つけるかもしれない。
戒十は足を止めなかった。
自分の意思で歩いている。
少なくとも、今はそう思いたかった。
背後の街灯が揺れ、戒十の影が長く伸びる。
その左手の先には、まだシンの刀の影がつけた細い傷のような線が残っていた。
前方で、リサが振り返って手を振る。
「ようこそ、黒猫くん。夜のこっち側へ」
「だから、その呼び方やめろ」
「そのうち慣れるよ」
「絶対慣れない」
「みんな最初はそう言うんだよねえ」
リサの笑い声が、紫のネオンの下へ溶けていく。
戒十はその背中を睨みながら、左手を握りしめた。
足元の影も、同じように左手を握った。
今度は、肉体よりほんの一瞬だけ遅れて。




