第四節 血の匂い
家の鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。
金属が噛み合う小さな音。
シリンダーの奥でピンが落ちる音。
ドアの縁に溜まっていた雨の湿気が、玄関の内側へ流れ込む気配。
そんなものまで、ひとつひとつ耳に引っかかった。
戒十はドアを閉め、内鍵をかけた。
玄関の照明は点いていない。
両親の靴もない。
父の革靴は朝と同じ位置にないから、まだ帰っていない。母のパンプスもない。代わりに、玄関脇の小さな棚へ、朝にはなかった封筒が置いてあった。
宅配便の不在票ではない。
母の字で、短いメモが書かれている。
『夕食は冷蔵庫。父さんも遅いそうです』
それだけだった。
戒十は封筒を手に取り、すぐに戻した。
いつものことだ。
誰かが悪いわけではない。
父も母も働いている。
自分も高校生で、いちいち親へ予定を報告する年齢ではない。
帰ったときに誰もいないのは、むしろ楽だった。
靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
足元の床が冷たい。
廊下の奥から、冷蔵庫の低い駆動音が聞こえた。
リビングの時計の針。
洗面所の換気扇。
外を通る車。
上階のどこかで椅子を引く音。
全部が聞こえる。
家は静かだった。
静かだからこそ、音が多かった。
戒十はバッグを床へ下ろす前に、玄関の姿見へ目を向けた。
薄暗い鏡の中に、制服姿の自分が立っている。
髪は乱れていた。
頬には細かな擦り傷がある。
路地から逃げる途中、低い塀を越えたときに枝でも引っかけたのだろう。
右肩にも汚れがついている。
普通なら、夜の街を走り回ったせいに見える。
普通なら。
戒十は鏡の中の自分と目を合わせた。
瞳の色が、違っていた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
玄関の暗さのせいだと思った。
街灯の光が、すりガラス越しに入っている。
その色が目へ映っているだけだ。
そう思おうとした。
だが、鏡の中の目は黒ではなかった。
琥珀色。
雨上がりの街灯を閉じ込めたような、淡い金色を帯びている。
光を反射しているのではない。
瞳の奥に、薄い熱がある。
戒十は一歩、鏡へ近づいた。
鏡の中の自分も近づく。
その動きは合っている。
普通だ。
当たり前だ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
もっと明るい場所で確かめる必要があった。
戒十はバッグを廊下へ置いたまま、洗面所へ向かった。
電気を点けるか迷う。
白い照明は痛い。
朝の蛍光灯を思い出しただけで、目の奥がこわばる。
だが、確認しないわけにはいかない。
戒十はスイッチを押した。
洗面所の照明が点く。
「っ……」
白い光が、頭蓋の内側へ刺さった。
昼間ほどではない。
それでも、まぶしい。
戒十は数秒、目を細めたまま耐えた。
視界が慣れてくると、鏡の中の自分がはっきり映った。
やはり瞳は変わっていた。
黒目の周囲が、琥珀色に薄く光っている。
瞳孔は少し縦に細い。
猫。
その単語が浮かび、すぐに打ち消す。
猫ではない。
人間の目ではない、と言うべきだった。
戒十は鏡へ顔を近づけた。
両手で下瞼を引き、角度を変えて見る。
色が戻る気配はない。
カラーコンタクトなど入れていない。
目に異物感もない。
「寝不足でこうはならないだろ」
声に出してから、笑えなかった。
左手が疼く。
黒いサポーターの下で、噛み痕が脈を打っている。
戒十は洗面台の縁へ両手をつき、深く息を吐いた。
呼吸を整える。
一つ。
二つ。
三つ。
肺へ入る空気の冷たさまでわかる。
洗面台の排水口から上がってくる湿った匂い。
歯磨き粉。
ハンドソープ。
タオルに残った洗剤。
自分の汗。
雨。
鉄。
血。
最後の匂いが、他のすべてを押し退けた。
血の匂い。
路地で男を壁へ叩きつけたとき、自分の唇を噛んだ。
その味はもう消えたと思っていた。
だが、洗面所の白い光の下で、匂いだけがやけに鮮明に蘇る。
喉が鳴った。
腹が減っているのかと思った。
そうではない。
胃が食べ物を求めている感じとは違う。
喉の奥が乾く。
胸の中心に、空洞がある。
そこへ何かを流し込みたい。
水ではない。
食べ物でもない。
何だ。
わかってしまうのが嫌だった。
戒十は蛇口をひねり、水を出した。
水音が洗面台へ広がる。
両手を濡らし、顔へ押し当てる。
冷たさで頭を戻そうとした。
だが、水の匂いの奥にある塩素が強すぎて、逆に吐き気がした。
水を止める。
顔を上げる。
鏡の中の自分と目が合う。
戒十は動きを止めた。
鏡の中の自分も止まっている。
それは普通のことだった。
自分が止まれば、鏡像も止まる。
だが、違和感はそこではない。
戒十は肩で息をしていた。
少なくとも、現実の自分はしている。
胸が上下し、喉が動き、濡れた髪から水滴が落ちている。
鏡の中の自分は、息をしていなかった。
胸が動かない。
喉も動かない。
顔から滴ったはずの水も、鏡の中では頬の途中で止まっている。
まるで、一枚の写真になったように。
「……やめろ」
戒十は一歩下がった。
鏡の中の自分は、遅れて動かなかった。
動かないままだった。
現実の戒十だけが、洗面台から離れる。
鏡の中の戒十は、洗面台に両手をついた姿勢のまま、琥珀色の目でこちらを見ている。
心臓が大きく鳴った。
床へ視線が落ちる。
そこに、影があった。
洗面所の照明によって、戒十の足元から背後へ短く伸びた影。
その影が、肩で息をしていた。
床に貼りついた黒い輪郭の肩が、上下している。
肉体の動きとは合っていない。
鏡像とも合っていない。
床の影だけが、さっき路地を走った直後のように荒く呼吸していた。
影に胸などないはずだった。
それでも、そう見える。
黒い形の中で、背中のあたりが波打っている。
戒十は右手で左手首を掴んだ。
「止まれ」
声が小さくなる。
床の影は止まらない。
肩で息をし続けている。
「止まれって言ってるだろ」
今度は強く言った。
鏡の中の自分は相変わらず動かない。
床の影だけが、ほんのわずかに顔を上げたように見えた。
顔などない。
目もない。
それなのに、見られたと感じた。
左手のサポーターが内側から熱を持つ。
戒十は乱暴にそれを外した。
手の甲の黒い痣は、朝より濃くなっていた。
二つの噛み痕から伸びた細い線が、手首だけでなく指先のほうへも枝分かれしている。
細い根。
黒い血管。
そう見えた。
爪の形も少しおかしい。
長くなったわけではない。
だが、先端がわずかに硬く、透明な光を帯びている。
戒十はそれを確かめようとして、左手の人差し指の腹を親指の爪で押した。
ほんの少しの力だった。
皮膚が裂けた。
「痛っ」
赤い血が滲む。
一滴が、指先から盛り上がる。
その瞬間、世界の匂いが変わった。
洗面所の消毒液も、タオルも、排水口も、塩素も、全部が遠ざかった。
血の匂いだけが、異様に近い。
温かい。
甘い。
鉄の匂いなのに、どこか花のようでもある。
舌の奥が反応した。
喉が鳴る。
戒十は自分の指を見つめた。
血は小さな粒だった。
それだけだ。
なのに目が離せない。
自分の血だ。
怪我をしたら誰にでも出るもの。
何も特別ではない。
そう思おうとしても、身体が違う答えを出していた。
欲しい。
言葉にする前に、指先が口元へ近づいていた。
戒十は寸前で止めた。
「何してるんだよ」
震える声で呟く。
馬鹿げている。
自分の血を舐めようとした。
唇を噛んだときとは違う。
傷口を確かめる動作でもない。
明確に、欲しがった。
戒十は慌ててティッシュを取ろうとした。
そのとき、血の一滴が指先から落ちた。
白い洗面所の床へ。
赤い点が落ちる。
戒十の影が動いた。
床に落ちた血へ、影の左手が伸びた。
肉体の左手は動いていない。
戒十は目を見開いた。
影の指先が、血へ触れる。
触れたように見えた瞬間、赤い点が床から消えた。
拭き取られたのではない。
吸い込まれた。
黒い影の中へ、赤が沈んだ。
戒十の胸にあった空洞が、わずかに塞がる。
喉の乾きが弱まる。
荒くなっていた呼吸が、少し落ち着く。
床の影も、肩の上下を緩めた。
まるで、血を飲んだのは影で、満たされたのは自分の身体であるかのように。
「……嘘だろ」
戒十はもう一滴、指先から血が落ちるのを見た。
今度は意図して止めなかった。
血は床へ落ちる。
影の指が、またそれへ伸びる。
赤い点が消える。
喉の奥の渇きが、さらに薄くなる。
気持ち悪い。
そう思った。
同時に、楽になった。
その事実が、もっと気持ち悪かった。
戒十は慌てて指先をティッシュで押さえた。
血を止める。
影の左手が、床の上でわずかに指を開いた。
もっと、と言っているように見えた。
「駄目だ」
戒十は床の影へ向けて言った。
「これは駄目だ」
返事はない。
ただ、足元の影がゆっくり薄くなっていく。
洗面所の照明は変わっていない。
なのに、影だけが普通の濃さへ戻る。
鏡を見る。
鏡の中の自分は、いつの間にか動いていた。
戒十と同じように、指先をティッシュで押さえている。
胸も上下している。
頬の水滴も、顎へ向かって落ちていく。
何もなかったように。
その何もなかったような顔が、一番気味が悪かった。
◇
傷口を洗い、絆創膏を貼るころには、左手の血は止まっていた。
切れたはずの指先も、もう痛みが薄い。
治りが早い。
それも朝からわかっていたことだ。
わかっているはずなのに、何も慣れない。
戒十は洗面所の床を確認した。
血の跡はない。
影に吸い込まれた場所も、白い床のままだ。
ティッシュへついた血だけが、唯一の証拠だった。
そのティッシュを捨てようとして、手が止まる。
ゴミ箱へ入れてしまえば、それで終わる。
誰にも見られない。
誰にも知られない。
それでいい。
だが、何かをなかったことにする動作に見えて、急に嫌になった。
戒十はティッシュをビニール袋へ入れ、口を縛り、自分の部屋のゴミ箱へ捨てることにした。
洗面所のゴミ箱へ入れれば、母が見るかもしれない。
その可能性を考えた時点で、胸の奥に安堵が広がる。
誰もいなくてよかった。
父も母も帰っていなくてよかった。
鏡の異常も、影が血へ触れたことも、誰にも見られずに済んだ。
そう思った直後、別の感情が遅れてやってきた。
誰もいない。
助かった。
誰にも隠さずに済む。
誰にも説明しなくて済む。
誰にも止められない。
誰にも見つけてもらえない。
同じ家なのに、リビングには人の気配がなかった。
食卓には母のメモだけ。
冷蔵庫には夕食。
廊下の奥では、時計の針が規則正しく動いている。
いつもの家。
いつもの静けさ。
だが今夜は、その静けさの輪郭が違った。
洗面所で自分の影が動いた。
鏡の中の自分が止まった。
血を欲しがった。
そんなことが起きた直後でも、この家は何も変わらない。
誰かが「大丈夫か」と扉を叩くこともない。
それが都合よくて、同時に、少しだけ胸の中を冷たくした。
戒十は冷蔵庫を開けた。
母の言う夕食は、ラップのかかった皿と、タッパーに入ったサラダだった。
鶏肉の照り焼き。
味噌汁は鍋に入っている。
普通の夕食。
いつもなら何も考えずに温める。
だが、匂いがきつかった。
甘辛いタレの匂い。
冷えた脂。
ラップの匂い。
味噌。
刻んだネギ。
サラダの青臭さ。
全部が強い。
そして、そのどれもが、血の匂いほど魅力的ではなかった。
その事実に気づき、戒十は冷蔵庫の扉を閉めた。
「食べないと、余計おかしくなる」
自分へ言い聞かせる。
鶏肉の皿を取り出し、電子レンジへ入れる。
回転皿が回り始める。
温まるにつれ、タレの匂いが強くなる。
腹は減っている。
少なくとも、身体は何かを求めている。
戒十は温まった皿をテーブルへ置き、一口食べた。
味はわかる。
母の料理だ。
少し甘め。
焦げた皮の苦味。
鶏肉の繊維。
全部わかる。
だが、喉が受けつけない。
二口目を飲み込むのに時間がかかった。
三口目で箸が止まる。
食事が、食事ではなく情報の塊に感じられた。
戒十は皿へラップをかけ直し、冷蔵庫へ戻した。
かわりに水を飲む。
水では満たされない。
それでも、何もしないよりはましだった。
リビングの照明はつけなかった。
薄暗い部屋で、スマートフォンだけが光っている。
通知はない。
純からの返信もない。
いや、最後に自分が送ったのは『大丈夫』だった。
それに対して返事がないのは、彼女なりに信じようとしているからかもしれない。
戒十はソファへ座り、頭を背もたれへ預けた。
今日一日の出来事が、遅れて押し寄せる。
朝の傷。
学校の光。
心音。
体育館での跳躍。
夕方の湾岸地区。
塀を越えた感覚。
屋根から飛び降りたときの快感。
路地の男。
女性の悲鳴。
影の爪。
血。
床へ沈む赤。
どれも繋がっているようで、繋がっていない。
戒十はポケットからノートを取り出そうとして、やめた。
書けば整理できる。
整理すれば、少しは自分のものになる。
だが今は、文字にしたくなかった。
文字にした瞬間、本当に後戻りできないものになる気がした。
スマートフォンが震えた。
戒十の身体が、反射的に跳ねる。
画面を見る。
純からだった。
『本当に帰った?』
短い。
だが、心配していることはわかる。
戒十はすぐに返事を打とうとし、指が止まった。
何と返す。
帰った。
家にいる。
手は大丈夫。
今日はもう寝る。
どれも嘘ではない。
だが、どれも本当では足りない。
返信欄へ指を置く。
『帰った』
打つ。
送信しようとして、消す。
言い訳がましい。
『家』
短すぎる。
怒っているように見える。
消す。
『もう寝る』
これならいい。
会話を終わらせられる。
これ以上、聞かれずに済む。
戒十はそれを送った。
すぐに既読がつく。
純の既読の速さに、心臓が少しだけ落ち着かなくなる。
数秒後、返信が来た。
『わかった。明日、ちゃんと顔見せて』
ちゃんと。
その言葉が妙に重い。
戒十は返信しないつもりだった。
会話は終わった。
もう寝ると言った。
それで十分だ。
スマートフォンを伏せようとしたとき、画面が勝手に明るくなった。
返信欄が開いている。
戒十は触れていない。
いや、触れていたかもしれない。
親指が画面の近くにある。
だが、文字は自分で入力していない。
カーソルが点滅する。
一文字目が現れた。
『会』
戒十の指が凍りついた。
次の文字。
『い』
その次。
『た』
その次。
『い』
会いたい。
画面の中に、四文字が並んだ。
戒十は息を止めた。
送信ボタンへ指が伸びている。
自分の右手だ。
自分の親指。
だが、動かしている感覚がない。
手首から先だけが、別の意思で動いている。
「やめろ」
声が出た。
右手を左手で掴もうとする。
だが、左手の痣が熱くなり、指が一瞬こわばった。
送信ボタンが青く光る。
「やめろ!」
戒十はスマートフォンを取り落としそうになりながら、親指を引き戻そうとした。
間に合わなかった。
文章が送信された。
『会いたい』
吹き出しが画面の右側に表示される。
既読は、まだつかない。
戒十は慌てて画面を操作する。
削除。
送信取り消し。
どこだ。
メニューがうまく開かない。
指が震える。
左手が痛い。
痣が脈打つ。
画面上の文言を長押しする。
操作メニューが出る。
その瞬間、既読がついた。
戒十の呼吸が止まった。
「あ……」
取り消しても、もう遅い。
純は見た。
会いたい。
自分が送った。
いや、自分が送ったのか。
送ったのは自分の手だ。
言葉も、自分の中にないとは言えない。
会いたい。
そう思っていないと言えば、嘘になる。
だが、送るつもりはなかった。
言うつもりもなかった。
この状況で言っていい言葉ではない。
画面に、入力中の表示が出た。
純が何かを打っている。
戒十はスマートフォンを見つめたまま動けない。
数秒が長い。
家の中は静かだった。
冷蔵庫の音。
時計の針。
自分の心音。
そして、足元で、影が小さく揺れる気配。
純から返信が来た。
『今?』
たった二文字と疑問符。
それだけで、胸の奥が締めつけられる。
戒十は返信欄を開いた。
違う。
間違えた。
今のは誤送信。
そう打てばいい。
普通なら、それで済む。
だが、指が動かない。
誤送信ではない。
少なくとも、完全な間違いではない。
会いたい。
誰かに見てほしい。
今起きていることを、全部ではなくても、何か気づいてほしい。
見つけてほしい。
昨夜、暗闇の中で聞こえた声が、頭の奥で蘇る。
見つけた。
あれは自分を選んだ声だった。
では、今の四文字は何だ。
自分が誰かに向けて伸ばした、見つけてほしいという影なのか。
戒十はスマートフォンを握りしめた。
画面へ、まだ返信は打てない。
足元の影を見る。
リビングの薄い明かりの中で、戒十の影はソファの下へ伸びている。
その左手の先が、わずかに純の名前を打つように、床の上で動いていた。
「僕のふりをするな」
戒十は低く言った。
影は答えない。
スマートフォンが、もう一度震える。
純からだった。
『寝るんじゃなかったの?』
責めているようにも、心配しているようにも読める。
戒十はようやく文字を打った。
『間違えた』
送信する。
すぐに既読。
今度は返信が少し遅れた。
『そっか』
それだけだった。
その短さが、かえって痛かった。
戒十は続けて何かを打とうとした。
違う。
そうじゃない。
会いたいと思っていないわけではない。
でも今は駄目だ。
そう説明しようとして、どれも送れなかった。
言葉にすればするほど、余計におかしくなる気がした。
最後に、純からもう一件来た。
『明日、話そう』
戒十は画面を見つめた。
明日。
それまでに何が起きているか、わからない。
自分の目の色が戻るのか。
影がまた勝手に動くのか。
血の匂いに反応するのか。
誰かを傷つけるのか。
何一つわからない。
だが、明日、純は話そうと言っている。
自分を切り捨てず、拒まず、ただ話そうと言っている。
そのことに安堵した瞬間、また左手が疼いた。
足元の影が、ゆっくりと静かになる。
戒十はスマートフォンを伏せた。
返信はしなかった。
リビングの暗がりの中で、琥珀色に変わった自分の目だけが、消えた画面へぼんやり映っていた。
誰にも知られずに済んだ。
誰にも見られずに済んだ。
そう思っていた。
だが、もう違う。
影は、純のところへ言葉を伸ばした。
自分より先に。
自分が隠そうとしたものを、勝手に送った。
戒十はソファの上で膝を抱え、足元の影を見下ろした。
「勝手にするな」
声は、怒りよりも弱かった。
影は動かない。
ただ、ソファの下に溜まる闇の中で、左手の輪郭だけが少し濃く残っていた。




