第三節 夜の身体
放課後の教室には、湿った紙の匂いが残っていた。
窓の外では、昼間の雨を含んだ校庭が夕方の光を鈍く跳ね返している。グラウンドの端にできた水たまりは、雲の切れ間から差し込む薄い橙色を受けて、割れた鏡みたいに光っていた。
戒十はその光から目を逸らし、机の中へ教科書を押し込んだ。
今日一日で、ノートの後半はほとんど症状の記録に埋まっていた。
光が痛い。
音が大きい。
匂いが細かい。
体育館で身体が勝手に動いた。
左手の痣は消えない。
黒い線は伸びていないように見えるが、時折、内側から脈打つ。
書き並べれば並べるほど、馬鹿げている。
だが、書けば現実になる。
現実にしておかなければ、昨夜のことが夢だったのか、寝不足のせいだったのか、頭の中で都合よく薄まってしまいそうだった。
戒十はノートを閉じ、バッグへ入れた。
教室のあちこちで、帰り支度をする音が重なっている。
椅子を引く音。
ペンケースを閉じる音。
誰かが部活へ向かうために走り出す音。
女子の笑い声。
スマートフォンの通知音。
それらは朝よりは少しだけましになっていた。
慣れたのか。
それとも、昼間の光の下では身体が勝手に感覚を抑えているのか。
わからない。
わからないことが増えるのは、本来なら不快なはずだった。
今は違う。
わからないままでも、続きを確かめたいという感情のほうが強い。
「戒十」
名前を呼ばれた。
振り返る前から、純だとわかった。
足音。
布製の鞄が制服に擦れる音。
そして、朝から何度も近くで聞いた、少し速くなりやすい心音。
そこまでわかってしまう自分に、戒十はわずかに眉を寄せた。
「何」
純は机の横に立っていた。
手には、昼休みに貸した消毒液の小さな容器を持っている。
「返してもらおうと思って」
「忘れてた」
「忘れてる顔じゃないよ」
「顔で判断しないで」
「じゃあ、手で判断する」
「まだ言うの」
戒十はバッグの外ポケットから消毒液を取り出し、純へ差し出した。
容器を渡す瞬間、純の指がかすかに触れた。
体温がわかった。
温かい。
普通の人間の温度。
それを意識した瞬間、左手の痣が小さく疼く。
戒十は手を引っ込めた。
「ありがとう」
「別に。勝手に使えって言ったのはそっちだし」
「使ってくれたなら、それでいい」
「過保護」
「怪我を隠す人に言われたくない」
「怪我じゃないかもしれない」
口にしてから、戒十は失敗したと思った。
純の表情が変わる。
ただの心配ではなくなる。
「怪我じゃないって、どういうこと?」
「言葉の綾」
「また?」
「便利な言葉でしょ」
「戒十が使うと、全然便利じゃない」
純は消毒液をポーチへ戻した。
ファスナーを閉じる音がやけに大きく聞こえた。
「今日、病院行かないの?」
「行かない」
「即答なんだ」
「必要ないから」
「誰が判断したの?」
「僕」
「それ、朝も聞いた」
「なら同じ答え」
「悪くなったら言うって言ったよね」
「悪くなってない」
「本当に?」
戒十は答える前に、窓の外を見た。
太陽が低くなっている。
校舎の影がグラウンドへ長く伸びている。
昼間よりも楽だった。
教室の白い光も、窓の反射も、今は耐えられる。
むしろ、身体の奥に何かがゆっくり目を覚まし始めているような感覚があった。
悪くなっているのか。
良くなっているのか。
判断できない。
「悪くはなってない」
「微妙に言い方変えた」
「細かいな」
「細かく見るしかないでしょ。戒十が大雑把に隠すから」
「僕は隠してない」
「隠してるよ」
「どうしてそう言い切れるの」
「隠してるときのほうが、よく喋るから」
戒十は返事を失った。
その沈黙を、純は追い詰める材料にしなかった。
代わりに、少しだけ声を柔らかくする。
「今日はまっすぐ帰る?」
「帰るよ」
「本当に?」
「水城は僕の保護者?」
「そういう言い方で逃げる」
「逃げてない」
「じゃあ、駅まで一緒に帰ろう」
戒十はバッグの肩紐を握り直した。
純と一緒に帰れば、確かにそのまま駅へ行くことになる。
電車に乗る。
家へ帰る。
夕食を食べるか、食べないかで迷う。
ノートへ症状をまとめる。
そして、日没後に自分の身体がどうなるのか、部屋の中で一人で観察する。
それは安全だ。
合理的でもある。
だが、足りない。
あの体育館で、身体が勝手に正解を選んだ。
跳べた。
走れた。
見えた。
それが本当なら、部屋の中で確かめるには狭すぎる。
人目のある場所では危険すぎる。
試すなら、もっと人の少ない場所がいい。
湾岸地区。
倉庫。
資材置き場。
高いフェンスと、広い空き地。
夜になれば人はほとんどいない。
「今日は部活に顔出す」
戒十は言った。
純が怪訝そうにする。
「写真部?」
「一応、部員だから」
「今日、活動日だっけ」
「自主練」
「写真部って、自主練って言うの?」
「言うかもしれない」
「言わないと思う」
「写真部に詳しいの?」
「戒十よりは詳しくないけど、戒十が今、適当に言ったことはわかる」
「じゃあ、撮影に行く」
「どこへ?」
「決めてない」
「また高架下?」
「今日は別の場所」
「夜?」
「夕方」
「帰りは?」
「遅くならない」
「昨日もそれ、言わなかった?」
「昨日は言ってない。水城が言った」
「じゃあ、今日は私が言う。遅くならないで」
「報告義務は?」
「私に」
純はまっすぐそう言った。
昨日と違って、冗談にしなかった。
戒十は息を吐く。
「帰ったら送る」
「昨日の朝みたいなのは、帰ったって言わないよ」
「細かい」
「そこは細かくする」
「わかった」
「本当に?」
「善処じゃなくて、わかった」
純は少しだけ迷い、それから頷いた。
「それなら、今日は信じる」
その言葉が、想像以上に重かった。
信じる。
たったそれだけで、戒十は嘘をついている自分を強く意識する。
まっすぐ帰るつもりはない。
撮影も嘘ではないが、目的は写真ではない。
自分の身体を試すことだ。
純がそれを知れば、止めるに決まっている。
だから言わない。
言わないことは嘘ではない、と考えようとして、すぐに無理だとわかった。
これは嘘だ。
戒十は純の視線から逃げるように、バッグを肩へかけた。
「じゃあ」
「うん」
純は少しだけ身体を横へずらし、通路を開けた。
すれ違う瞬間、純が小さく言った。
「手、痛くなったら、本当に言って」
戒十は振り返らなかった。
「痛くない」
「そういう意味じゃない」
聞こえないふりをして、教室を出る。
廊下へ出ると、窓の外の夕日が校舎の床へ長く伸びていた。
戒十の影も、床の上へ細く伸びる。
その左手の部分だけが、ほかより少し濃い。
気のせいだ。
そう思うことにした。
◇
日が沈むまで、戒十は駅前の商業施設で時間を潰した。
本屋に入っても、活字を追う気にはなれなかった。
雑誌棚の前に立つだけで、紙とインクの匂いが濃すぎる。隣のフロアから流れてくる甘い香水の匂い、コーヒースタンドの焙煎された豆の匂い、地下食品売り場から上がってくる揚げ油の匂いまで、全部が混ざって頭を圧迫する。
それでも、昼間より苦痛ではなかった。
夕方が深まるにつれ、身体が少しずつ楽になる。
光が弱まる。
街灯が点き始める。
ショーウィンドウの反射が強くなる。
人の足元から、影が長く伸びる。
その影の中に、自分の意識の一部が引かれていくような感覚があった。
怖いと思うべきだった。
実際、怖くないわけではない。
だが、身体の奥からせり上がってくる期待が、恐怖を何度も押し返した。
戒十はフードコートの端の席に座り、ノートを開いた。
『日没前後。症状変化あり。光への痛み低下。聴覚・嗅覚は維持。身体が軽い。左手の疼痛、熱感。気分は悪くない。むしろ――』
そこまで書いて、ペンが止まる。
むしろ。
続きの言葉を探す。
爽快。
高揚。
期待。
どれも近い。
だが、書けば自分が異常を喜んでいることになる。
戒十は少し考え、最後にこう書いた。
『観察継続』
ページを閉じる。
スマートフォンを見る。
純からの新しいメッセージはない。
それに安堵し、同時に、少しだけ物足りなさを感じる。
どちらも認めたくない感情だった。
十九時前。
商業施設を出ると、街は完全に夜の準備を終えていた。
宵浜中央駅の上にある巨大な広告ビジョンが、青白い光を空へ投げている。
駅前広場の街灯。
バスのヘッドライト。
コンビニの白い看板。
居酒屋の赤提灯。
雨上がりの舗装道路は、それらを余すことなく映し返していた。
光が多い。
だから影も多い。
人々の足元から、いくつもの影が交差している。
昼間はうるさかったそれが、今は違って見えた。
影のひとつひとつが、街の裏側へ伸びる細い道みたいだった。
戒十は人の流れから離れ、湾岸方面へ歩き出した。
◇
湾岸地区は、駅前から三十分ほど歩いた先にある。
昼間はトラックや作業車が頻繁に出入りするが、夜になると人の気配は急に薄くなる。
倉庫の壁は高く、窓は少ない。
フェンスの向こうには、積まれたコンテナと、資材置き場のクレーンが見える。
道路は広いのに、歩いている人間はほとんどいない。
遠くで高速道路の走行音が低く鳴っている。
海から吹く風に、潮の匂いと鉄の匂いが混ざっていた。
戒十は人気のない倉庫脇で立ち止まった。
街灯が一つだけ点いている。
光は黄色く、地面へ濃い影を作っている。
周囲に監視カメラがないことを確認する。
いや、完全にはわからない。
だが、少なくとも見える範囲にはない。
戒十はバッグをフェンスの陰へ置き、カメラだけを取り出した。
首から下げる。
記録用だ。
何か起きたら撮る。
そして、ノートへ残す。
自分で確かめる。
それが今日の目的だった。
「まず、普通に」
誰に言うでもなく呟き、戒十は倉庫の壁へ向かって軽く走った。
助走をつける。
濡れたアスファルトを蹴る。
フェンスの低い部分へ足をかける。
いつもなら、そこで身体が止まる。
腕力で引き上げる必要がある。
だが、今は違った。
足がフェンスを踏んだ瞬間、身体が軽く跳ねた。
膝が勝手に縮み、次に伸びる。
腕がフェンスの上端を掴む。
力を入れたつもりはほとんどない。
それなのに、身体はするりと上へ持ち上がった。
戒十はフェンスの上へ乗っていた。
高さは三メートル近い。
普通なら足がすくむ。
だが、下を見ても怖くなかった。
距離が、数字ではなく、処理できる情報として頭へ入ってくる。
どこへ足を下ろせばいいか。
どの角度で着地すれば膝を痛めないか。
地面のどこが濡れて滑りやすいか。
全部わかる。
「……嘘だろ」
声が震えた。
恐怖ではない。
笑いを抑えきれないときの震えだった。
戒十はフェンスの向こうへ飛び降りた。
着地の瞬間、身体が自然に沈む。
膝と足首が衝撃を逃がす。
手をつかなくても、姿勢が崩れない。
痛みはない。
息も乱れない。
戒十は立ったまま、しばらく動けなかった。
できた。
できてしまった。
胸の奥で何かが弾ける。
自分の身体ではないみたいだ。
だが、間違いなく自分の身体だ。
戒十は周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、小さく笑った。
「最高じゃないか」
声に出した瞬間、左手が熱くなった。
黒いサポーターの下で、痣が脈を打つ。
痛みではない。
合図のようだった。
もっと。
そう言われた気がした。
戒十は資材置き場の中を走った。
最初は慎重に。
次第に速く。
コンテナとコンテナの間を抜ける。
滑りやすい鉄板を踏む。
水たまりを越える。
足場の悪い場所を選んでも、身体が勝手に正解を拾っていく。
視界が違う。
夜なのに、暗くない。
倉庫の壁の細かな傷。
フェンスの網目。
遠くの街灯へ集まる小さな虫。
コンテナの隙間で揺れるビニール片。
全部が見える。
昼間の白い光とは違う。
夜の光は痛くない。
むしろ、目に優しく沈んでくる。
暗闇が、視界を塞ぐものではなく、輪郭を浮かび上がらせるための背景になる。
戒十は壊れたパレットを踏み台にして、低い倉庫の屋根へ跳び上がった。
一度目は手が届かず、壁へ靴底を擦る。
だが、二度目で届く。
指が雨樋を掴む。
金属が軋む。
普通なら体重を支えきれないかもしれない。
しかし、戒十の身体は壁を蹴り、ほとんど腕の力を使わずに屋根へ上がった。
屋根の上へ腹ばいになったあと、勢いよく仰向けに転がる。
空が見えた。
曇りは残っている。
星は少ない。
それでも、駅前よりも空が広い。
遠くで航空機の光が点滅している。
戒十は息を吐いた。
口元が緩む。
平凡ではない。
その言葉が頭に浮かび、消えない。
自分はもう、ただの高校生ではない。
昼間、机に座って、眩しい蛍光灯に耐え、純に手を見せるかどうかで迷っていた自分が、急に遠く感じられた。
あんな狭い教室へ戻る必要があるのか。
そう思った瞬間、純の顔が浮かんだ。
手を痛がっているのを見抜いた顔。
消毒液を置いていった手。
帰ったら送って、と言った声。
胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
戒十はそれを振り払うように上体を起こした。
「帰ったら送ればいい」
問題はない。
まだ夜は始まったばかりだ。
戒十は屋根の端へ立った。
地上まで、およそ四メートル。
普通なら飛び降りない高さ。
だが、身体はもう答えを知っている。
戒十は迷わず跳んだ。
空気が頬を切る。
落下する。
地面が近づく。
足が着く。
衝撃を逃がす。
身体が沈み、すぐに立ち上がる。
痛くない。
むしろ、足元から熱が上がってくる。
笑い声が出た。
自分のものとは思えないほど、楽しそうな声だった。
◇
一時間ほど、戒十は湾岸地区の隅を動き回った。
走る。
跳ぶ。
よじ登る。
降りる。
反応を見る。
音を聞き分ける。
遠くを走る車の車種を、エンジン音で予想する。
フェンスの向こうを通る野良猫の足音を拾う。
自分の呼吸を調整する。
最初はばらばらだった感覚が、少しずつまとまっていく。
騒音だった世界が、必要な音と不要な音へ分けられるようになる。
見えすぎていた夜が、距離と深さを持ち始める。
身体の変化に、頭が追いついていく。
自分で自分を調整している感覚があった。
それが、たまらなく気持ちよかった。
戒十はフェンスの外へ戻り、バッグを拾った。
カメラで何枚か撮影したが、ほとんどは失敗だった。
動きながら撮ったせいでブレている。
だが、何枚かには異様に鮮明な夜の景色が残っていた。
人間の目で見た夜ではない。
黒い部分の奥まで輪郭がある。
画像の中の世界は暗いのに、何も隠れていない。
「これ、設定のせいじゃないよな」
カメラの液晶を見ながら呟く。
自分の視界が変わっているだけではない。
撮る瞬間の手ブレが減っている。
反応速度が上がっている。
シャッターを切るタイミングが、これまでよりずっと正確になっている。
写真まで変わる。
それがわかると、胸が熱くなった。
誰も知らない。
まだ誰にも言っていない。
だが、自分は変わっている。
変わり始めている。
戒十はバッグを背負い、帰路についた。
湾岸地区から住宅街へ向かう道は、倉庫と古い商店が混在している。
大通りを使えば明るいが、人目も多い。
戒十は自然と裏道を選んだ。
人に見られたくない。
走ればすぐ帰れる。
そう思いながら、塀の上へ手をかけかけて、やめる。
さすがに住宅街ではまずい。
人に見られたら説明が面倒だ。
路地へ入る。
細い道だった。
古い飲食店の裏口。
積まれたビールケース。
壊れた傘。
換気扇から漂う油と煙草の匂い。
雨上がりの湿気で、コンクリートの壁は黒ずんでいた。
戒十は歩きながらスマートフォンを見た。
純へ送る文面を考える。
『帰るところ』
いや、まだ帰っていない。
『そろそろ帰る』
それだと、どこにいたのか聞かれるかもしれない。
『撮影終わった』
これは嘘ではない。
そう打ちかけたとき、路地の奥から声が聞こえた。
「だから、待てって言ってんだろ」
若い男の声。
苛立ちと酒の匂いが混ざった声だった。
戒十は足を止めた。
続いて、女の声がした。
「離して。もう帰るって言ったでしょ」
声は震えている。
だが、はっきり拒絶していた。
戒十は路地の角から、そっと奥を見た。
非常灯の赤い光に照らされた細い裏口の前で、若い男が女性の手首を掴んでいた。
二人とも二十歳前後に見える。
男は濡れた髪を乱し、片手にスマートフォンを握っている。服装はきちんとしているが、顔が赤い。酒の匂いが、距離があるのにわかった。
女性は肩に小さなバッグをかけ、身体を後ろへ引いている。
手首を掴まれているせいで逃げられない。
「話、終わってないだろ」
「もう終わったよ」
「終わってねえって。おまえが勝手に帰ろうとしてるだけだろ」
「声、大きい」
「大きくさせてんのはおまえだろ」
男の指に力が入る。
女性が痛そうに顔を歪めた。
戒十は、息を止めた。
関係ない。
そう思った。
他人同士の揉め事だ。
恋人かもしれない。
元恋人かもしれない。
事情を知らない。
下手に関われば、面倒になる。
警察を呼べばいい。
そう、警察。
スマートフォンを持っている。
通報すればいい。
直接出ていく必要はない。
戒十はスマートフォンを握る手に力を入れた。
だが、画面にはまだ純への未送信メッセージが残っている。
『撮影終わった』
その文字が、場違いに白く光っていた。
「痛いってば!」
女性の声が鋭くなる。
男は反射的に周囲を見回した。
戒十は角の陰へ身を引く。
見つかってはいない。
心臓が鳴っている。
自分のものだけではない。
男の心音も聞こえる。
速い。
怒りと興奮で乱れている。
女性の心音はもっと速い。
恐怖。
それが音だけでわかる気がした。
戒十は動けなかった。
頭の中で、いくつもの理屈が並ぶ。
自分が出ていけば、事態が悪化するかもしれない。
男が逆上するかもしれない。
女性が余計に巻き込まれるかもしれない。
そもそも自分はまだ、自分の身体を完全に制御できるかわからない。
正しい手順を踏むべきだ。
通報。
近くの店員を呼ぶ。
大通りへ出て人を連れてくる。
それが合理的だ。
合理的なはずだ。
なのに、身体の奥から別の声がした。
また見るだけか。
言葉ではない。
それでも、そう聞こえた。
中学生のころの記憶が、唐突に蘇る。
教室の隅。
机の中へ押し込まれた濡れた雑巾。
笑い声。
誰かの上履きが、男子トイレの個室へ投げ込まれる音。
戒十は知っていた。
最初から全部ではない。
だが、途中からは知っていた。
誰がやっているかも。
誰が見て見ぬふりをしているかも。
証拠になりそうな出来事も覚えていた。
教師へ言うことも考えた。
匿名でメモを入れることも考えた。
だが、考えただけだった。
証拠が足りない。
本人が助けを求めていない。
下手に動けば、もっと悪くなる。
自分が標的になるかもしれない。
そういう理屈を並べ、最後まで表には出なかった。
転校の日。
相手は戒十を責めなかった。
ただ、言った。
知ってたんだろ。
声は大きくなかった。
怒鳴られたわけでもない。
だから、今でも残っている。
「……っ」
戒十は角の壁へ手をついた。
左手の痣が熱い。
手の下にある自分の影が、非常灯の赤い光で細く伸びている。
その影の指先が、壁の角を越えた。
戒十の身体は、まだ動いていない。
だが、影だけが路地の奥へ滑っていた。
気づいた瞬間、全身が冷える。
待て。
そう思った。
まだ何も決めていない。
通報する。
人を呼ぶ。
直接行くなら、まず声をかける。
手順を。
手順を考えろ。
なのに、影は止まらない。
赤い非常灯の下で、戒十の影が長く伸びる。
地面を這い、男の足元へ向かう。
まるで、濡れたアスファルトの上を黒い獣が走るように。
「おい」
戒十は声を出した。
男が振り向く。
女性も見る。
二人の視線が、角の陰にいる戒十へ向いた。
言ってしまった。
もう戻れない。
戒十は路地へ出る。
心臓の音がうるさい。
自分のものか、男のものか、女性のものか、わからない。
「その手、離したほうがいいと思いますけど」
声は思ったより落ち着いていた。
男は一瞬、呆けたような顔をした。
それから、あからさまに苛立ちを浮かべる。
「何、おまえ」
「通りすがり」
「関係ねえだろ」
「関係ない人間にも聞こえる声だったので」
「高校生が口出してんじゃねえよ」
「大人なら、もう少し場所を選べば」
言いながら、戒十は自分の口が止まらないことに気づいた。
余計なことを言っている。
相手を刺激している。
わかっている。
だが、言葉が皮肉の形で出てしまう。
いつもの癖。
怖いときほど、距離を取るための言い方。
男は女性の手首を掴んだまま、戒十へ一歩近づいた。
「調子乗ってんの?」
「乗ってるように見えるなら、目が悪いんじゃないですか」
「てめえ」
「やめて!」
女性が声を上げた。
その瞬間、男が掴んでいた手にさらに力を込めた。
女性が痛みに顔を歪める。
戒十の頭の中で、何かが切れた。
いや。
切れたのは戒十ではなかった。
足元の影だった。
男へ向かって、戒十の影が跳んだ。
地面から剥がれるように。
あり得ない角度で。
黒い左手が、男の影の腕へ食い込む。
肉体ではない。
地面に伸びた影の腕。
そこへ、戒十の影の指が爪のように突き刺さった。
「え」
男の声が漏れる。
女性の手首を掴んでいた男の右手が、突然こわばった。
指が開かない。
腕が動かない。
男は自分の手を見た。
「なんだ、これ」
戒十も見ていた。
自分の左手が、勝手に持ち上がる。
肉体の左手。
サポーターに覆われた手。
指が軽く曲がり、爪を立てるような形になる。
それに合わせて、地面の影が男の影をさらに深く掴んだ。
男の右腕が不自然に引きつる。
女性の手首から、ようやく指が離れた。
「逃げて」
戒十は言った。
自分の声ではないみたいに低かった。
女性は一瞬ためらい、それから後ずさる。
だが、男は自分の腕が動かない恐怖を、怒りへ変えた。
「何しやがった!」
男が左手で戒十の胸倉を掴もうとする。
戒十は避けようとした。
ただ、半歩下がるつもりだった。
それだけだった。
しかし身体は、もっと速く動いた。
男の手が空を切る。
戒十の右腕が勝手に伸びる。
男の肩口を掴む。
その瞬間、相手の重心がわかった。
前へ出すぎている。
足が濡れた地面で滑りかけている。
左肩を押し、右足を払えば倒れる。
考えるより先に、身体が動いた。
男の身体が横へ崩れる。
戒十の右手が肩を押し込む。
壁へ叩きつける。
鈍い音が路地に響いた。
「ぐっ」
男が息を詰まらせる。
戒十は手を離そうとした。
離せ。
もう十分だ。
相手は女性から手を離した。
逃げればいい。
通報される前に、ここを離れればいい。
そう思うのに、左手が動かない。
いや、動いている。
自分の意思とは違う方向へ。
影の左手が、男の影の腕から肩へ、そして首元へ近づいていく。
黒い爪が伸びているように見えた。
男の顔から血の気が引く。
「や、やめろ……何だよ、おまえ……」
その声に、戒十は自分が何をしているのかを理解した。
怯えられている。
自分が。
助けるために出たはずなのに。
今、目の前の男は、自分を人間ではないものを見る目で見ている。
「止まれ」
戒十は自分の左手へ言った。
声に出した。
「止まれって!」
影は止まらない。
男の影の首元へ、黒い指がかかる。
肉体の男の喉がひゅっと鳴った。
呼吸が浅くなる。
物理的には触れていない。
それなのに、影を掴まれた場所が、肉体へ影響している。
戒十は必死で左手を右手で掴んだ。
サポーター越しに爪を食い込ませる。
痛みが走る。
だが、影はまだ男の影を離さない。
むしろ、戒十の焦りに反応するように濃くなる。
複数の光源が路地へ差し込んでいる。
非常灯。
店の裏口の明かり。
遠くの自動販売機。
通りを走る車のヘッドライト。
それぞれの光が、戒十の影を何本にも分けていた。
そのうち一つだけが、男へ食らいついている。
自分の一部が、自分とは別の判断で動いている。
「やめろ……!」
戒十の声が震えた。
そのとき、女性が悲鳴を上げた。
短く、鋭い悲鳴だった。
戒十は振り向いた。
女性は路地の入口付近で、口元を押さえていた。
彼女の視線は、男ではなく、戒十の足元へ向いている。
影。
地面に伸びた戒十の影。
そこから立ち上がるように蠢く黒い腕を、彼女は見ていた。
見えている。
少なくとも、そう見える何かを見てしまった。
その悲鳴が、戒十を現実へ引き戻した。
男の喉。
自分の左手。
影の爪。
怯える顔。
すべてが一度に戻ってくる。
戒十は右手で自分の左手を強く殴った。
痛みが走る。
黒い痣が焼けるように熱くなる。
その瞬間、影の指がわずかに緩んだ。
男は壁にもたれたまま、その場へ崩れ落ちる。
右腕はだらりと垂れている。
動かそうとしても動かないらしい。
男は自分の腕を見て、短く息を吐いた。
「なんだよ……なんなんだよ……」
戒十は答えなかった。
答えられなかった。
女性が震える声で言った。
「あ、あなた……」
助けてくれてありがとう。
そう続く可能性もあった。
大丈夫ですか。
そう言う可能性もあった。
だが、彼女の目には感謝より先に恐怖があった。
当然だった。
戒十自身も、自分が怖かった。
左手が震える。
影が、まだ動きたがっている。
男の影へもう一度触れようとしている。
戒十は一歩退いた。
女性も反射的に後ずさる。
その反応が、胸に刺さった。
「……警察、呼んでください」
戒十はそれだけ言った。
声が掠れていた。
女性が何か言う前に、戒十は背を向けた。
「おい、待て……!」
男が叫んだ。
だが追っては来ない。
来られない。
右腕が動かないからだ。
戒十は路地を走った。
最初は人間の速度で。
角を曲がった瞬間、身体が勝手に加速する。
足音が軽い。
水たまりを踏んでも滑らない。
壁を蹴り、低い塀へ乗る。
隣の路地へ飛び降りる。
考えるより先に、身体が逃げ道を選んでいく。
怖い。
今度こそ、はっきり怖かった。
自分は相手を助けた。
それは確かだ。
女性は逃げられた。
男は手を離した。
だが、もし悲鳴がなければ。
もし、あと数秒遅れていたら。
自分の影は何をしていた。
戒十は走りながら左手を押さえた。
痣が熱い。
熱いだけではない。
何かが満足している。
怒りを実行したことを。
迷っている間に動いたことを。
見ているだけで終わらなかったことを。
それが、自分の中から来た感覚だとわかってしまう。
完全に чуж物ではない。
中学生のころ、動けなかった後悔。
相手を傷つけた者への怒り。
次は間に合いたいという願い。
それらを、自分は持っていた。
持っていたから、影は動いた。
戒十は人気のない公園まで走り、ようやく足を止めた。
滑り台と鉄棒だけの小さな公園だった。
雨で濡れた砂場が黒く沈んでいる。
街灯が一つだけ点いている。
その光に照らされ、戒十の影が足元へ伸びていた。
普通の影だ。
ただし、左手の部分だけが異様に濃い。
戒十は荒い呼吸のまま、影を睨んだ。
「勝手に動くな」
影は何も答えない。
「僕の身体だ」
言ってから、その言葉が空々しく響いた。
さっき動いたのは、影だけではない。
右手で男を壁へ叩きつけたのは、自分の肉体だ。
判断は誰のものだったのか。
どこからどこまでが自分で、どこからが違うのか。
わからない。
戒十はベンチへ座り込み、バッグからノートを取り出そうとした。
だが、手が震えてうまくファスナーを開けられない。
左手ではなく、右手も震えていた。
スマートフォンが通知音を鳴らす。
身体がびくりと跳ねた。
画面を見る。
純からだった。
『帰った?』
短い文章。
ただそれだけ。
戒十はしばらく画面を見つめた。
返信しなければならない。
約束した。
帰ってはいない。
何と送る。
今、路地で男を壁へ叩きつけた。
影が勝手に動いた。
人を助けたかもしれないけど、殺しかけたかもしれない。
そんなことを言えるわけがない。
戒十は震える指で文字を打った。
『もうすぐ帰る』
送信する。
すぐに既読がついた。
心臓が嫌な跳ね方をする。
純から次のメッセージが来る。
『手は?』
戒十は左手を見た。
黒いサポーターの下で、痣がまだ熱を持っている。
自分の影は、街灯の下で動かない。
動いていない。
少なくとも、今は。
戒十は返信欄へ短く打つ。
『大丈夫』
送信してから、すぐにスマートフォンを伏せた。
画面を見ていられなかった。
大丈夫ではない。
それは自分が一番よくわかっている。
ベンチの下で、戒十の影の左手だけが、ほんのわずかに指を曲げた。
戒十はそれを見なかったことにした。
見なかったことにするしかなかった。
夜の街は、昼間よりずっと静かだった。
だが、その静けさの中で、自分の呼吸と心臓の音だけが、いつまでもうるさく鳴り続けていた。




