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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第一章 夜のはじまり
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第二節 明るすぎる朝

 朝は、明るすぎた。


 カーテンの隙間から差し込んだ光が、刃物みたいにまぶたの裏へ刺さっていた。


 戒十は、息を吸いそこねたように目を開けた。


 自分の部屋だった。


 天井の染み。


 机の上に積みっぱなしの写真雑誌。


 充電器につながったスマートフォン。


 椅子の背に掛けた制服の上着。


 昨日の夜、濡れたまま帰ってきて、着替えて、カメラのデータだけ確認して、それからどうしたのか。


 記憶が少し途切れている。


 ベッドへ入った覚えはある。


 電気を消した覚えはない。


 だが、部屋の照明は消えていた。


 カーテンも閉めてある。


 閉めたのは自分だろうか。


 戒十は上体を起こした。


「……まぶし」


 声が思ったより低く、掠れていた。


 昨夜の雨は止んでいるらしい。窓の向こうから、濡れた道路を車が走る音が聞こえる。水を踏むタイヤの音。遠くで鳴る踏切。どこかの家の玄関が開く音。階下の給湯器が点火する音。


 いつもなら気にならないはずの音が、薄い壁を通して一つずつ耳へ入ってきた。


 聞こえる、というより、拾ってしまう。


 戒十は眉を寄せた。


 寝不足の朝に、世界だけが勝手に音量を上げたみたいだった。


 左手が疼いた。


 思い出した瞬間、胸の奥が跳ねる。


 戒十は布団をはねのけ、左手を見た。


 そこにあるはずだった傷は、ほとんど塞がっていた。


 昨夜、高架下で見たときは、確かに手の甲へ二つの牙痕が浮かんでいた。血も出ていた。カメラの外装へ付着した赤い跡まで覚えている。


 だが、今は違う。


 皮膚には薄い黒ずんだ痣が残っているだけだった。


 噛み痕は、針でつついたような点になっている。


 周囲の皮膚はわずかに熱を持ち、手首へ向かって細い黒い線が二、三本伸びていた。血管ではない。インクが皮膚の下へ滲んだような、暗い筋だった。


 戒十は親指でその線を擦った。


 消えない。


 痛みはある。


 だが、傷の痛みではなかった。


 もっと奥。


 骨と皮膚の間に、知らない神経が一本増えたような違和感がある。


 手を開く。


 閉じる。


 動く。


 痺れもない。


 むしろ、昨日よりよく動く気さえした。


「……治りすぎだろ」


 笑おうとして、失敗した。


 口元だけが少し動く。


 背筋の奥に、遅れて寒気が来た。


 病院。


 普通なら、そう考えるべきだった。


 野良猫か何かに噛まれた。いや、猫かどうかもわからない。傷が急に塞がっている。黒い痣もある。感染症かもしれない。狂犬病という単語が一瞬だけ頭を過ったが、日本でそんなものにかかる確率がどの程度か、すぐには思い出せない。


 調べるべきだった。


 母親か父親へ言うべきだった。


 学校を休んで、病院へ行くべきだった。


 戒十はスマートフォンへ手を伸ばした。


 画面が点灯する。


 未読通知。


 天気アプリ。


 学校の連絡。


 純からのメッセージが一件。


『帰った?』


 送信時刻は、昨夜の二十三時四十六分。


 戒十はしばらく画面を見つめた。


 返信していない。


 帰ったら一言送る、と約束した。


 覚えていた。


 高架下で黒猫に噛まれるまでは、たぶん覚えていた。


 そのあと、忘れた。


 いや、忘れたというより、それどころではなかった。


 そう言い訳してから、言い訳している自分へ苛立つ。


 返信欄を開く。


『帰ってる』


 そこまで打って、指が止まった。


 今さら感が強い。


 心配しているなら朝までにもう一件くらい送ってきそうなものだが、それがないということは、純は寝たか、あるいは自分を信じているか。


 信じている、という言葉が妙に重い。


 戒十は一度文章を消し、打ち直した。


『寝てた。帰ってる』


 送信する。


 既読はつかなかった。


 まだ朝の六時半だ。


 当然だと思う一方で、少しだけ安心した。


 余計な質問をされずに済む。


 スマートフォンを置こうとして、戒十は思い直した。


 カメラの画像を確認する。


 昨夜の写真は残っていた。


 高架下。


 黒猫らしき、画面の穴。


 光源と合わない影。


 そして、自分の肉体の手より先に伸びた影の左手。


 夢ではない。


 証拠がある。


 戒十は机の引き出しから古いノートを取り出した。


 写真部で撮影条件のメモに使っていたものだ。表紙の角が湿気で少し反っている。


 ページを開き、日付を書く。


 時刻。


 場所。


 天候。


 使用カメラ。


 レンズ。


 撮影データ。


 それから、少し迷って、別の項目を作った。


『症状』


 左手の傷。


 異常な治癒。


 黒い痣。


 光が眩しい。


 音が大きい。


 夢の記憶なし。


 暗闇で聞いた声。


 そこまで書いて、ペン先が止まった。


 声。


 あれは何だったのか。


 女の声。


 見つけた、と言った。


 誰が。


 何を。


 戒十はペンを置き、左手をもう一度見た。


 薄い噛み痕。


 黒い筋。


 これを誰かに見せれば、どうなる。


 病院へ行けと言われる。


 警察へ行けと言われる。


 野良猫に噛まれた高校生として処理される。


 高架下の写真も、錯覚か合成だと決められる。


 あるいは、もっと面倒なことになる。


 自分ではない誰かが、この現象に名前をつける。


 その考えだけで、胸の奥がざらついた。


 戒十はノートを閉じなかった。


 もう一行だけ書き足す。


『現時点では、他人に話さない』


 書いた文字を見て、少しだけ落ち着いた。


 自分で決めた。


 それが重要だった。


     ◇


 朝食は用意されていなかった。


 台所のテーブルには、母親が残した付箋が貼ってあった。


『今日は早番。夜は遅くなります。冷蔵庫にサラダ。父さんも遅いです』


 いつものことだった。


 家族仲が悪いわけではない。


 互いの生活時間が合わないだけ。


 そう説明すれば、たぶん嘘にはならない。


 冷蔵庫を開けると、冷気が顔へ当たった。


 その瞬間、鼻の奥が痛むほど強く匂いが広がった。


 サラダの葉物。


 ドレッシングの酢。


 ラップに包まれた焼き魚。


 昨日開けた牛乳。


 プラスチック容器。


 冷蔵庫の金属臭。


 全部が一度に押し寄せる。


「うっ」


 戒十は反射的に扉を閉めた。


 胸の奥がむかつく。


 腐っているわけではない。


 むしろ、匂いが細かすぎた。


 これまで一つの「冷蔵庫の匂い」として処理していたものが、ばらばらに解体され、それぞれ別の主張を始めたようだった。


 戒十はしばらく台所に立ち尽くし、結局、食パンを一枚だけトースターへ入れた。


 焼ける匂いも強かった。


 小麦の甘さ。


 焦げ始めた耳。


 熱くなった金属。


 トースターの中でパンの水分が抜ける匂いまで、わかる気がする。


 馬鹿げている。


 そう思いながら、戒十は焼き上がったトーストを半分だけ食べた。


 味は悪くない。


 ただ、舌の上で情報が多すぎた。


 バターを塗っていないのに、昨日の包丁についたマーガリンの匂いまで混ざっている気がして、途中で食べるのをやめた。


 洗面所へ行く。


 顔を洗うために蛇口をひねった瞬間、水の音が耳の奥へ響いた。


 細い水流が陶器へ当たり、跳ね、排水口へ落ちる。


 いつもなら聞き流せる音が、無数の細かい粒になって鼓膜を打った。


 戒十は蛇口を絞る。


 水の勢いが弱まる。


 それでもうるさい。


「なんなんだよ」


 呟きながら、顔を洗う。


 冷たい水が肌へ触れた瞬間、頬の毛穴が一つずつ反応したような感覚があった。


 鏡を見る。


 目の下に少しだけ隈がある。


 顔色は悪い。


 だが、熱があるようには見えない。


 左手を鏡へ映す。


 痣はやはり消えていない。


 手の甲を見ていると、鏡の中の自分の視線もそこへ落ちる。


 当然だ。


 当然なのに、一瞬だけ、鏡の中の自分が遅れたように見えた。


 戒十は瞬きをした。


 もう一度見る。


 鏡像は、普通に自分の動きをなぞっている。


「寝不足」


 そう声に出した。


 声に出すと、少しだけ現実らしくなる。


 制服へ着替え、左手の痣を隠すために、手首まで覆う黒い薄手のサポーターをつけた。


 中学のころ、手首を痛めたときに買ったものだ。


 季節外れではない。


 不自然でもない。


 そう自分へ言い聞かせる。


 カメラを持っていくか迷った。


 昨夜の画像が入っている。


 置いていくほうが安全だ。


 だが、家族が触ることはないにしても、証拠を自分の手元から離すのが嫌だった。


 戒十はカメラをバッグへ入れた。


 ついでにノートも入れる。


 病院へは行かない。


 学校へは行く。


 普通のふりをしながら、症状を記録する。


 それが一番合理的だ、と戒十は決めた。


     ◇


 外へ出た瞬間、世界が白かった。


 雨上がりの朝は、街全体が水で磨かれたように光っていた。


 道路の端に残った水たまり。


 マンションの手すり。


 電線から落ちる雫。


 通学路のガードレール。


 すべてが太陽を細かく反射している。


 戒十は思わず目を細めた。


 まぶしい。


 ただまぶしいのではない。


 光の一つ一つが、目の奥へ直接刺さってくる。


 朝の太陽が嫌いなわけではなかった。


 むしろ、写真を撮るには雨上がりの朝は悪くない。


 雲の切れ間から入る光は柔らかく、濡れた街に輪郭を与える。


 そうわかっているのに、今朝の光は乱暴だった。


 戒十はバッグから予備の眼鏡ケースを取り出した。


 度なしの薄い色付きレンズ。


 強い日差しの日に撮影用として使っていたものだ。


 かけると、少しだけ楽になる。


 それでも白い。


 登校する生徒たちの声が、いつもより近く聞こえた。


 十メートル先で笑う女子生徒。


 後ろから走ってくる男子の靴音。


 自転車のブレーキが擦れる音。


 誰かの鞄についたキーホルダーが揺れる音。


 遠くの交差点で、トラックがギアを変える音。


 聞こえすぎる。


 戒十は耳を塞ぎたくなったが、そんなことをすれば目立つ。


 視線を落とし、できるだけ人から離れて歩く。


 校門へ近づくにつれ、匂いも増えていった。


 濡れた土。


 制服の洗剤。


 制汗剤。


 コンビニの揚げ物。


 体育館のゴム床。


 誰かの甘い飲料。


 全部が混ざって、頭が痛くなる。


 校舎へ入るころには、戒十は軽い吐き気を覚えていた。


 下駄箱で靴を履き替える。


 そのとき、後ろから声をかけられた。


「戒十」


 純だった。


 黒い傘を丁寧に畳み、ビニール袋へ入れている。


 昨日貸した傘だ。


 戒十は、昨日より髪が少し湿っていることへ目が行った。


 耳の横の髪が一房だけ頬へ張りついている。


 なぜそこへ気づいたのか、自分でもわからなかった。


「おはよう」


「おはよう」


 返事が少し遅れた。


 純はその間を見逃さなかった。


「寝不足?」


「普通」


「普通の顔じゃないけど」


「人の顔を朝から採点しないで」


「採点じゃなくて確認」


「僕は出席確認される側じゃない」


「じゃあ、安否確認」


「昨日の夜のことをまだ言ってる?」


「言うよ。返信、朝だったし」


 純は黒い傘を差し出した。


「ありがとう。助かった」


「壊してない?」


「壊してない。ちゃんと乾かしてから返そうと思ったけど、今日も降りそうだから」


「別に急がなくてもよかったのに」


「戒十、今日それで困るでしょ」


「天気予報では夕方から」


「高架下なら雨を避けられるんだっけ?」


 戒十は下駄箱の扉を閉めた。


「行くとは言ってない」


「昨日もそう言ってた」


「結果的に行っただけ」


「結果的にずぶ濡れになった?」


「多少」


 純の視線が、戒十の左手へ落ちた。


 黒いサポーター。


 袖口で半分隠しているつもりだったが、靴を履き替える動作で見えていたらしい。


「手、どうしたの」


「何が」


「それ」


「昔のやつ。ちょっと痛めただけ」


「昨日はしてなかったよね」


「昨日は痛くなかった」


「何をしたら、朝起きて急に痛くなるの」


「寝相」


「左手だけ?」


「器用なんだよ」


「そういうごまかし方、雑」


 純は近づいて、戒十の手へ触れようとした。


 戒十は反射的に左手を引いた。


 思ったより速く動いた。


 純の指先が空を掴む。


 自分でも驚くほど、動作が鋭かった。


 純も目を瞬かせた。


「……そんなに見られたくない?」


「別に」


「じゃあ見せて」


「ただの捻挫みたいなものだから」


「みたいなもの?」


「打っただけ」


「どこで」


「昨日、帰りに」


「転んだ?」


「そう」


「高架下で?」


「……まあ」


「血は?」


「出てない」


 言ってから、まずいと思った。


 純の表情が変わる。


「私、血が出たかどうか聞いたつもりじゃなかったんだけど」


 戒十は言葉に詰まった。


 純はこういうところだけ鋭い。


 聞かれた以上のことを答えれば、そこに隠したいものがあると気づく。


「一般論として」


「一般論で、自分の怪我の説明をする人いる?」


「いるでしょ」


「少なくとも、私は今まで見たことない」


「水城の人生経験が少ないだけ」


「そういう言い方で逃げない」


 純の声は強くなかった。


 だから余計に逃げにくい。


 戒十は視線を逸らし、階段のほうへ向かった。


「遅れる」


「まだ予鈴まで十分あるよ」


「教室で寝たい」


「やっぱり寝不足じゃない」


「普通の範囲で」


「普通の範囲って何」


「保健体育の先生に聞いて」


「戒十」


 名前を呼ばれ、足が止まった。


 廊下の蛍光灯が白い。


 朝の光とは違う白さだった。


 均一で、冷たく、逃げ場がない。


 戒十は無意識に窓から離れ、廊下の内側を歩いていた。


 純はそれにも気づいたらしい。


「今日、窓側行かないんだ」


「混んでるから」


「廊下、こっちのほうが人多いよ」


「じゃあ気分」


「目、痛い?」


 戒十は振り返った。


「どうして」


「さっきから眩しそうにしてる」


「雨上がりだから」


「教室でも?」


「まだ教室に行ってない」


「でも蛍光灯、見ないようにしてる」


 純は本当に見ている。


 それがわかって、戒十は胸の奥がざわついた。


 心配されるのが嫌なのではない。


 いや、嫌なのかもしれない。


 心配されれば、説明しなければならない。


 説明すれば、昨夜のことを誰かへ渡すことになる。


 それが嫌だった。


「水城」


「うん」


「大丈夫だから」


 純はすぐに頷かなかった。


 その沈黙が、戒十の言葉を信用していないと告げていた。


「大丈夫な人は、先にそう言わないことが多いよ」


「統計でも取ったの」


「私の経験上」


「人生経験が少ないんじゃなかった?」


「戒十よりは、人に怪我を隠された経験が多いかも」


「それ、どういう経験」


「弟がよく転ぶから」


「中学生男子と一緒にしないで」


「怪我を隠すところは似てる」


「似てない」


「じゃあ見せて」


「だから、ただの打撲だって」


「打撲なら見せられるよね」


 完全に逃げ道を塞がれた。


 戒十は舌打ちしそうになり、寸前で止める。


「教室で」


「本当に?」


「昼休み」


「約束?」


「……見せるとは言ってない」


「戒十」


「わかった。必要なら」


「必要かどうかは私も判断する」


「医者でもないのに」


「少なくとも、放っておく人よりは見る」


 純はそれだけ言って、先に階段を上がった。


 戒十は少し遅れて歩き出す。


 その背中を見ながら、左手を制服の袖の中へさらに隠した。


     ◇


 教室はうるさかった。


 いつももうるさい。


 だが、今日のそれは別物だった。


 窓を開ける音。


 椅子を引く音。


 教科書を机へ置く音。


 笑い声。


 誰かが菓子袋を開ける音。


 スマートフォンの通知音。


 後ろの席で男子が机を叩く指先のリズム。


 すべてが同じ音量で頭の中へ入ってくる。


 戒十は自分の席へ着くと、まず窓を見た。


 席は窓側だった。


 いつもなら嫌いではない場所だ。


 外が見える。


 教師の視線も届きにくい。


 写真の構図を考えながら授業を聞き流すには都合がいい。


 だが、今朝は窓の外が明るすぎた。


 濡れた校庭が白く光っている。


 金網に残った水滴が、数えきれない小さな太陽になっていた。


 戒十は椅子を少し内側へ引いた。


 窓から離れる。


 机の位置は動かせないので、身体だけ廊下側へ寄せる。


 前の席の生徒が振り返った。


「三倉、なんか今日変じゃね?」


「いつも変でしょ」


「自覚あんのかよ」


「自覚があるから、君よりまし」


「朝から嫌なやつだな」


「朝以外なら許される?」


 適当に返す。


 軽いやり取りのはずなのに、相手の心臓の音が聞こえた。


 どくん。


 どくん。


 一定ではない。


 笑っているのに、少し速い。


 会話で興奮しているだけか。


 それとも、戒十に言い返されたことへ少し苛立ったのか。


 そんなことまで考えてしまう。


 聞こえるはずがない。


 鼓動なんて、こんな距離で聞こえるわけがない。


 戒十は自分の耳を疑った。


 前の席の生徒が身体の向きを戻す。


 鼓動が少し遠ざかる。


 代わりに、教室の反対側から別の鼓動が聞こえた。


 女子二人が話している。


 そのうち一人の心拍が、笑い声に合わせて早くなる。


 後ろの席で居眠りしている男子の鼓動は遅い。


 教師が廊下を歩いてくる足音の奥にも、低く規則正しい音がある。


 心音。


 戒十はペンケースを開け、ノートを出した。


 授業用ではない。


 朝、症状を書いたノートだ。


 教師が入ってくる前に、机の陰でページを開く。


『聴覚異常。会話以外の音を拾う。心音らしきもの。距離不明。集中すると増える。意識を逸らすとやや弱まる』


 書いている途中、シャープペンシルの芯が紙を擦る音がやけに大きく聞こえた。


 不快ではない。


 むしろ、細部までわかる。


 紙の繊維へ芯が引っかかる感触まで、指先へ伝わる。


 戒十は思わず手を止めた。


 怖い。


 だが、同時に。


 面白い。


 自分の身体の解像度が上がっている。


 世界のほうが急に細かくなったのではない。


 これまでも存在していたものへ、自分の感覚が追いつき始めたのだ。


 そう考えると、胸の奥に昨夜と似た熱が生まれる。


 教師が教室へ入ってきた。


 蛍光灯が点く。


 白い光が一斉に落ちた。


「っ」


 戒十は反射的に目を閉じた。


 瞼を閉じても、光が赤く透ける。


 痛い。


 目の奥が焼けるようだった。


 周囲の生徒たちは誰も反応していない。


 普通の光だ。


 教室の蛍光灯。


 昨日まで、自分も何も感じなかった光。


「三倉?」


 教師の声がした。


 戒十は目を開ける。


「なんですか」


「具合が悪いのか」


「寝不足です」


「また夜更かしか。授業中に寝るなよ」


「努力します」


 教室に軽い笑いが起きる。


 戒十も薄く笑ってやり過ごした。


 廊下側の席から、純がこちらを見ている。


 心配そうな顔。


 いや、心配だけではない。


 観察している。


 今朝の違和感を、また一つ増やした顔だった。


 戒十は視線を逸らした。


     ◇


 午前中の授業は、長かった。


 黒板の白いチョークが眩しい。


 教科書の紙の匂いが強い。


 隣の席の生徒が飲んでいるミルクティーの甘い匂いが、机一つ分の距離を越えて鼻へ張りつく。


 授業内容は頭へ入っている。


 むしろ、いつもより聞こえる。


 教師が小声で呟いた補足も、廊下で話す別のクラスの声も、校庭を走る下級生の掛け声も拾える。


 情報が多すぎるだけだ。


 戒十は何度もノートへ症状を書き足した。


『嗅覚過敏。甘味、油、洗剤、雨の残り。分類できる』


『光過敏。特に白い蛍光灯。窓の反射も強い』


『集中すると遠い会話が聞こえる。無意識に拾うと疲労』


『左手の疼痛は弱い。黒線変化なし』


 三時間目が体育でなかったことに、戒十は少し安堵した。


 だが、四時間目は体育だった。


 雨上がりで校庭が使えず、体育館でバスケットボールになった。


 戒十は運動が嫌いではない。


 積極的に目立ちたいわけではないだけだ。


 体育館の蛍光灯は、教室より高い位置にある。


 それでも白い。


 磨かれた床へ反射し、二重に目へ入ってくる。


 ゴム底の靴が床を擦る音が、耳の奥で甲高く鳴った。


 ボールの弾む音。


 教師の笛。


 男子の笑い声。


 全部がうるさい。


「三倉、顔色悪いけど平気か?」


 同じチームの男子に声をかけられる。


「平気」


「無理すんなよ。おまえ、やる気ないとき本当に動かないし」


「今日はやる気に満ちてるように見える?」


「全然」


「じゃあ期待しないで」


 ボールが投げられる。


 戒十は受け取るつもりだった。


 ただ、それだけだった。


 だが、ボールの回転が見えた。


 床の照明を反射しながら、自分へ向かってくる革の表面。


 縫い目。


 指の跡。


 空気を押す軌道。


 少し右へ逸れる。


 そう判断した瞬間、身体が先に動いていた。


 左手を使う前に、右手だけでボールを掴む。


 勢いを殺す。


 足が自然に半歩引かれ、重心が整う。


 周囲の動きが遅い。


 同じチームの一人が前へ走り出す。


 相手チームの男子がそれを追う。


 右側が空く。


 戒十は一歩踏み出した。


 床を蹴る。


 思ったより身体が前へ出た。


「え」


 自分の声が漏れる。


 相手が反応する前に、戒十は二人の間を抜けていた。


 速い。


 速すぎる。


 体感と身体の位置が合わない。


 ゴール下へ入り、ほとんど無意識に跳んだ。


 ボールを置くように投げる。


 リングへ当たり、ネットを揺らして落ちた。


 数秒、体育館が静かになった。


 それから、同じチームの男子が笑う。


「おい三倉、今の何?」


「たまたま」


「たまたまであんな動きする?」


「相手が遅かっただけ」


「言うねえ」


 笑いに混ざって、相手チームの男子が少しむっとする。


 戒十はそれを見て、いつものように皮肉を返そうとした。


 だが、言葉が出る前に、膝が震えた。


 遅れて、心臓が激しく鳴り始める。


 身体の内側で、血が走る音がする。


 呼吸が熱い。


 視界の端が明るく滲む。


 左手の痣が脈打った。


 戒十は手を握り込む。


 黒いサポーターの下で、皮膚が熱を持っている。


「三倉?」


「ちょっと、水」


 できるだけ普通に言い、体育館の壁際へ向かう。


 ボトルの水を飲む。


 喉を通る冷たさまで、はっきりわかった。


 怖い。


 だが、怖いだけではない。


 走れた。


 跳べた。


 何も考えずに、身体が正解を選んだ。


 自分の身体が、自分の知っている範囲を超えている。


 戒十は壁へ背中をつけた。


 笑いそうになるのを、唇を噛んで抑えた。


 血の味がした。


 その瞬間、左手の疼きが少しだけ強くなる。


 戒十は舌で唇を舐めた。


 鉄の味が妙に濃かった。


     ◇


 昼休み。


 戒十は教室へ戻るなり、自分の席ではなく、廊下側の空いている席へ座った。


 窓からできるだけ遠い場所だ。


 持参したパンは食べる気にならなかった。


 袋を開ける前から、甘いクリームの匂いで胸がいっぱいになる。


 飲み物だけ買おうと立ち上がったところで、純が机の前へ来た。


 手には小さな布製のポーチを持っている。


 薄いグレーで、端に小さな猫の刺繍がある。


 戒十はそれを見て、少し嫌な偶然だと思った。


「何」


「手」


「まだ言うの」


「約束したから」


「必要ならって言った」


「必要だと思う」


「医者でもないのに」


「医者じゃなくても、怪我してるかどうかくらいは見えるよ」


「見えないようにしてるんだけど」


「だから気になるの」


 純は向かいの席へ座った。


 逃げるには、少し不自然な距離だった。


 戒十はため息をつく。


「打っただけ」


「どこを?」


「手を」


「何に?」


「地面」


「転んだんだ」


「そう」


「どんな転び方をしたら、サポーターが必要になるの」


「水城は尋問官に向いてる」


「戒十は容疑者に向いてる」


「不名誉」


「自白してくれたら、すぐ終わるよ」


「転んだ」


「それはもう聞いた」


 純はポーチを机に置き、ファスナーを開けた。


 中には絆創膏、消毒液、ガーゼ、テープ、小さなはさみ、体温計、鎮痛薬らしきものまで入っている。


「持ち歩いてるの?」


「弟がよく怪我するから」


「学校に弟はいないでしょ」


「戒十もよく隠しそうだから」


「僕は弟枠?」


「手がかかる人枠」


「もっと嫌だ」


「じゃあ見せて」


 戒十は左手を机の下へ隠したまま、純を見る。


「見せたら、どうするの」


「必要なら消毒する」


「必要じゃなかったら?」


「安心する」


「水城が?」


「私が」


「僕にメリットがない」


「心配されなくなる」


 戒十は返事に詰まった。


 確かに、それは少しだけメリットだった。


 だが、見せればもっと心配される可能性もある。


 黒い痣。


 異常な治り方。


 噛み痕。


 どう説明する。


 猫に噛まれたと言えば病院へ行けと言われる。


 転んだと言い続けるには、傷の形が不自然すぎる。


 戒十は左手のサポーターを押さえた。


「本当に大したことない」


「それ、昨日の夜から何回目?」


「数えてたの」


「数えたくなるくらい言ってる」


「大丈夫って言ってる人を信用しないのは失礼だと思うけど」


「大丈夫じゃない人が大丈夫って言うのは、相手を安心させるためじゃなくて、質問を終わらせるためのこともあるよ」


 純の声は静かだった。


 静かだから、刺さった。


「戒十は、どっち?」


 戒十は答えなかった。


 純は無理に手を掴まなかった。


 それが、かえって逃げ場をなくす。


 掴まれたなら、拒否できた。


 勝手に見るなと言えた。


 だが純は、戒十が自分で出すのを待っている。


 その姿勢が苦手だった。


 戒十はゆっくりと左手を机の上へ出した。


 ただし、サポーターは外さない。


「これで満足?」


「外して」


「そこまで?」


「そこまで」


「ただの打撲に、ずいぶん熱心だね」


「ただの打撲じゃないと思ってるから」


「思い込み」


「そうならいいよ」


 純の視線は揺れなかった。


 戒十は一瞬だけ、昨夜の黒猫の目を思い出した。


 見られている。


 自分ではなく、隠している場所を。


 それが嫌で、戒十は手を引っ込めた。


「やっぱりいい」


「戒十」


「自分でやる」


「できるの?」


「消毒くらい」


「傷があるの?」


 まただ。


 言葉を拾われる。


 戒十は立ち上がった。


「購買行く」


「食べられるの?」


「食べるために行くんだけど」


「朝から顔色悪いし、体育のあとも変だった」


「見すぎ」


「目に入るんだよ」


「僕だけ見てるみたいな言い方」


 言ってから、しまったと思った。


 純が一瞬だけ黙る。


 その沈黙に、心臓が嫌な跳ね方をした。


 教室のざわめきが遠くなる。


 代わりに、純の鼓動が聞こえた気がした。


 少し速い。


 自分のせいか。


 それとも、ただ驚いただけか。


 戒十はそれを確かめたくないのに、耳が勝手に拾おうとする。


 純は目を逸らさなかった。


「心配してるだけ」


「それが困る」


「困るの?」


「困る」


「どうして」


「説明しなきゃいけなくなるから」


 言ってしまってから、遅かった。


 純の表情が変わる。


「説明できないことがあるの?」


「言葉の綾」


「戒十」


「何」


「昨日、何があったの」


 教室の音が、急に戻ってきた。


 笑い声。


 椅子の音。


 誰かが弁当箱を開ける音。


 全部が一斉に押し寄せる。


 戒十はバッグを掴んだ。


「何も」


「何もないなら、手を見せて」


「水城には関係ない」


 純の顔が、わずかに傷ついた。


 見た瞬間、胸が痛んだ。


 だが、撤回できなかった。


 撤回すれば、踏み込まれる。


 踏み込まれれば、昨夜のことが自分だけのものではなくなる。


 純は少しだけ息を吸い、ポーチの中から小さな消毒液と絆創膏を取り出した。


 それを戒十の机へ置く。


「関係ないなら、勝手に使って」


「いらない」


「そう」


 純はポーチを閉じた。


 いつもなら、ここで何か言い足す。


 無理しないで、とか。


 あとで返して、とか。


 だが何も言わなかった。


 そのまま席へ戻る。


 戒十は置かれた消毒液を見下ろした。


 いらない。


 本当にそう思った。


 傷はほとんど塞がっている。


 消毒する必要などない。


 むしろ、消毒液の匂いを想像しただけで鼻の奥が痛くなる。


 だから、必要ない。


 そう結論づけたはずなのに、足は購買ではなく廊下へ向いていた。


     ◇


 昼休みの終わり近く。


 戒十は人気の少ない階段の踊り場にいた。


 校舎の端にある非常階段へ続く場所で、昼休みでもあまり人が来ない。


 窓には薄い曇りガラスが入っているため、直射日光は弱い。


 それでも白く滲む光が痛くて、戒十は窓へ背を向けた。


 左手のサポーターを外す。


 傷はさらに薄くなっていた。


 朝よりも塞がっている。


 黒い痣だけがはっきり残り、二つの点を中心に細い線が手首へ伸びている。


 まるで、皮膚の下へ何かが根を張り始めているようだった。


 戒十は息を呑む。


「……治ってるなら、いいだろ」


 誰に言うでもなく呟く。


 だが、その声は自分でも弱かった。


 治っている。


 それは普通なら安心することだ。


 なのに、安心できない。


 早すぎる。


 身体が、自分の知らない規則で動いている。


 ノートを取り出す。


『治癒速度。午前中だけで痕がさらに薄くなる。黒線は残存。痛みは脈動性。消毒不要?』


 最後の疑問符を書いたあと、戒十はしばらくペン先を止めた。


 純の消毒液は、ポケットに入っていた。


 いらないと言った。


 机へ置いたままにしておけばよかった。


 だが、教室を出るとき、誰にも見られないように手の中へ滑り込ませた。


 自分でも理由はわかっている。


 必要ないと証明するために持ってきた。


 そう言えば、まだ格好がつく。


 戒十は消毒液のキャップを開けた。


 匂いが強烈だった。


 アルコールの鋭さ。


 薬品の苦味。


 樹脂容器の匂い。


 純のポーチに入っていた布の匂い。


 そして、ほんのわずかに、純が使っている柔軟剤の匂い。


 そこまでわかってしまって、戒十は手を止めた。


 自分が何を嗅ぎ分けているのか気づき、顔が熱くなる。


「気持ち悪いな、これ」


 自分の感覚に対して言った。


 それとも、自分自身に対して言ったのかはわからない。


 左手へ消毒液を垂らす。


 沁みない。


 傷口はもう閉じている。


 ただ、黒い痣の周囲だけが、冷たいものを嫌がるようにぴくりと動いた。


 戒十は目を凝らす。


 動いた。


 皮膚ではない。


 痣の下の黒い線が、ほんの一瞬、細い虫のように身じろぎした。


 心臓が跳ねる。


 消毒液の容器を落としそうになる。


 そのとき、階段の下から足音が聞こえた。


 軽い足音。


 速すぎず、迷いもない。


 誰かがこちらへ来る。


 戒十は慌ててサポーターを戻した。


 消毒液をポケットへ押し込む。


 数秒後、踊り場へ純が顔を出した。


「いた」


「探偵?」


「教室にいなかったから」


「購買」


「購買は反対方向だよ」


「遠回り」


「消毒液、使った?」


 戒十は無言で純を見た。


 純は怒ってはいなかった。


 ただ、少しだけ安心した顔をしていた。


 それが、余計に面倒だった。


「勝手に使ってって言ったのは水城だろ」


「うん」


「だから使った」


「うん」


「何」


「ちゃんと使うなら、いらないって言わなきゃいいのに」


「必要になっただけ」


「さっきは必要ないって言ってた」


「状況は変わる」


「十五分で?」


「十五分でも変わることはある」


「例えば?」


 戒十はポケットの中の消毒液を指で押さえた。


 キャップを閉めたはずなのに、匂いがまだ強い。


「気が変わった」


「それなら、そう言えばいいのに」


「言う必要ある?」


「あるよ」


「どうして」


「私が心配してるってわかってるなら」


 純は階段を上がりきり、戒十の一段下で止まった。


 目線が少しだけ近くなる。


 戒十は窓の光を避けるために壁際へ寄った。


 純はその動きも見ていた。


「戒十、今日ずっと光を避けてる」


「眩しいから」


「音にも反応してる」


「寝不足だから」


「匂いで気分悪そうにしてた」


「朝食べすぎた」


「戒十、朝あまり食べないでしょ」


「よく覚えてるね」


「覚えてるよ」


 純は当然のように言った。


 その当然さが、戒十の言葉を奪う。


「左手、見せて」


「嫌だ」


「どうして」


「嫌だから」


「子供みたい」


「手がかかる人枠らしいから」


「冗談にしないで」


 少しだけ、純の声が強くなった。


 戒十は黙る。


 純は階段の手すりを握った。


「無理に見るつもりはないよ」


「じゃあ聞かないで」


「聞くのはやめない」


「矛盾してる」


「戒十も矛盾してる」


「どこが」


「関係ないって言うのに、消毒液は使う」


「それは物理的に必要だったから」


「心配は拒むのに、助けだけは受け取る」


 戒十は息を止めた。


 言い返す言葉が、すぐに出なかった。


 純は自分で言った言葉に少し驚いたような顔をした。


 それでも撤回しない。


「ごめん。言い方、きつかった」


「別に」


「でも、そう思った」


「……水城が勝手に置いていったんだろ」


「うん。勝手に置いた」


「じゃあ、僕がどう使おうと僕の勝手」


「そうだね」


「なら、終わり」


「終わりにはならないよ」


「どうして」


「戒十が、何か隠してるから」


 廊下の遠くで、予鈴が鳴った。


 その音が頭の内側へ強く響く。


 戒十は顔をしかめた。


 純がそれへ反応し、少しだけ目を細める。


「今のも?」


「何でもない」


「何でもないって言わないで」


「じゃあ何て言えば満足するの」


「わからないなら、わからないって言って」


 戒十は笑った。


 笑いにしたかった。


「急に哲学?」


「急にじゃないよ。戒十がずっと、わかったふりしてるから」


 言葉が胸へ当たる。


 痛い、と思った。


 左手ではなく、もっと内側が。


 戒十は純を見ないまま言った。


「わからない」


 純が黙る。


 自分でも、なぜ言ったのかわからなかった。


 言えば余計に踏み込まれる。


 そうわかっているのに、口から出た。


「何が起きてるのか、わからない」


 純はすぐに質問しなかった。


 それがありがたくて、同時に腹立たしかった。


 もっと問い詰められれば、何も言わずに済んだのに。


「病院、行こう」


 純は静かに言った。


 戒十は首を振る。


「それはいい」


「よくない」


「今はいい」


「今って、いつまで?」


「判断できるまで」


「誰が?」


「僕が」


「戒十一人で?」


「僕の身体だ」


「そうだけど」


 純は言葉を選んでいるようだった。


 戒十はその間に、壁へ視線を移す。


 曇りガラスから入る光によって、自分の影が階段の壁へ薄く映っていた。


 左手の影。


 黒いサポーターをした自分の手。


 その指先が、一瞬だけ自分の動きより遅れて閉じたように見えた。


 戒十は瞬きをする。


 影はもう普通に戻っている。


「戒十?」


「何でもない」


「また」


「本当に、今のは」


 言いかけて、やめる。


 何を言う。


 自分の影が遅れた気がした。


 そんなことを言えるわけがない。


 純は階段を一段上がった。


 近づく。


 戒十は逃げなかった。


「約束して」


「何を」


「悪くなったら言う」


「悪くならなかったら?」


「それでも、変だったら言う」


「基準が曖昧」


「戒十の判断でいいから」


「僕の判断を信用するんだ」


「全部は信用してない」


「正直だね」


「でも、何も言わないよりは信用する」


 予鈴の余韻が消え、校舎が少しずつ授業前の静けさへ戻っていく。


 いや、戻ってはいない。


 戒十にはまだ遠くの声も、椅子の音も、教師の足音も聞こえている。


 ただ、純の声がその中で一番近かった。


「善処する」


 戒十が言うと、純は眉を寄せた。


「それ、しない人の言い方」


「じゃあ、言う。必要なら」


「また必要なら」


「今のところ、僕の最大限の譲歩」


「……わかった。今日はそれでいい」


「今日だけ?」


「今日だけ」


 純は一度、戒十の左手を見た。


「消毒液、あとで返して」


「使い切ったら?」


「そんなに使う傷なら、絶対に見せて」


「冗談」


「冗談に聞こえない」


「返すよ」


「うん」


 純は少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、戒十は胸の奥が軽くなるのを感じた。


 だが、その直後に左手が小さく疼く。


 まるで、安心するなとでも言うように。


 戒十はポケットの中で左手を握った。


 黒い痣の下に、まだ熱がある。


 昨夜、自分を見つけた何かは、消えていない。


 傷が塞がっても、終わっていない。


 純が先に教室へ戻る。


 戒十は数秒遅れて、その背中を追った。


 階段の壁に映った自分の影が、同じように動く。


 同じ速度で。


 同じ形で。


 少なくとも、そのときはそう見えた。


 戒十はそれを確認してから、何事もなかったような顔で教室へ戻った。

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