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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第一章 夜のはじまり
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第一節 誰もいない夜景

 雨に濡れた宵浜の街は、地面の下にもう一つの街を持っていた。


 駅前広場を囲むビルの窓明かりも、青い案内標識も、走り去る路線バスの赤い尾灯も、黒いアスファルトの上でもう一度ぼやけて光っている。


 現実の街より、足元へ映った街のほうが静かだった。


 三倉戒十(みくらかいと)は、そういう夜が好きだった。


 傘の縁から落ちる雫を避けながら、首から下げたカメラを持ち上げる。液晶画面の中で、横断歩道を渡る人々の足が何本も重なった。


 透明な傘。


 濡れた革靴。


 自転車を押して走る会社員。


 スマートフォンを片手に、信号が変わっていることにも気づかない学生。


 シャッターを切る寸前、戒十は人差し指を止めた。


 画面の隅に、こちらを見ている男がいた。


 カメラを向けられたと気づいた途端、男はそれまでの疲れた顔を引っ込め、口元をわずかに整えた。誰に見せるでもない、写真に残るためだけの顔だった。


 戒十はカメラを下ろした。


「撮らないの?」


 隣から声がした。


 振り向かなくても、水城純だとわかる。


 戒十の黒い傘へ半分だけ身体を入れ、肩から提げた鞄を雨から守るように胸元へ寄せていた。薄い色のカーディガンの袖口が、少し濡れている。


「人が入ったから」


「人がいたら駄目なの?」


「人はカメラを向けると演技するから」


「今の人、気づいてなかったと思うけど」


「気づいたよ。撮ろうとした瞬間に顔が変わった」


 純は交差点の向こうへ目をやった。


 先ほどの男は、もう人混みの中へ消えている。


「よく見てるね」


「撮るなら普通でしょ」


「写真部の人は、みんなそんなに人の顔を見てるの?」


「知らない。僕、写真部の人とあまり話さないから」


「部員なのに?」


「部員だからって仲良くする義務はない」


「寂しい部活だね」


「集中できていい部活だよ」


 純は小さく笑った。


 馬鹿にした笑い方ではない。


 戒十がどこまで本気で、どこから意地を張っているのか、だいたいわかっているときの笑い方だった。


 それが少し気に障る。


 同時に、ほかの誰かに同じ顔を向けられるよりはよかった。


 信号が青へ変わる。


 二人は人の流れに混ざって歩き出した。


 戒十は自然なふりをして、傘を純の側へ傾けた。


 自分の右肩へ、冷たい雨が落ちてくる。


「戒十、濡れてるよ」


「そっちの鞄が出てるから」


「本はビニールに入れてあるから大丈夫」


「そういう問題じゃない」


「どういう問題?」


「濡らして、あとで紙が波打ったとか言われると面倒だから」


「私、一度も戒十に弁償してって言ったことないよ」


「言わなくても顔に出るでしょ」


「私、そんな顔する?」


「する」


「どんな?」


「人に罪悪感を持たせる顔」


「ひどい言い方」


 そう言いながらも、純は傘の中心へ寄ろうとはしなかった。


 戒十の肩が濡れていることに気づいて、一歩ぶんだけ距離を詰める。


 二人の腕が、制服越しに触れた。


 戒十は傘を持つ手へ余計な力が入るのを感じた。


 気づかれないよう、カメラのストラップを直すふりをする。


 駅前の大型画面では、明日の天気予報が流れていた。


 夜半にかけて雨脚が強くなる。


 沿岸部では風を伴い、一時間に三十ミリを超える恐れ。


 画面の中の気象予報士が、早めの帰宅を呼びかけている。


「聞いた?」


 純が言った。


「聞こえてる」


「今日は帰ったほうがいいんじゃない?」


「駅までは来てるけど」


「そうじゃなくて。このあと、また撮りに行くつもりでしょ」


 戒十は答えなかった。


 答えないことを、純は肯定として受け取ったらしい。


「昨日も遅かったよね」


「どうして知ってるの」


「一時過ぎに返信が来たから」


「あれは起きてただけ」


「夜中の一時に、高架下の写真を送ってきたのに?」


「撮ったのは前かもしれない」


「ファイル名に時間が入ってたよ」


「そこまで見る?」


「送ってきたのは戒十でしょ」


 言い返す言葉を探しているうちに、駅の屋根の下へ入った。


 雨音が少し遠くなる。


 改札前は、帰宅する人間で混み合っていた。濡れた傘を畳む音、交通系カードの電子音、電車の到着を告げる案内放送が、広い空間の中で重なっている。


 純は鞄から、紺色の折り畳み傘を取り出した。


 骨が一本、外側へ不自然に曲がっている。


 戒十はそれを見て眉を寄せた。


「それで帰るつもり?」


「朝は壊れてなかったんだけど」


「いつ壊したの」


「昼休みに風で」


「だったら学校で言えばよかったのに」


「戒十が傘を持ってたから」


 あまりに当然のように言われ、戒十は返事に詰まった。


「僕が持ってなかったら?」


「駅で新しいのを買ってたと思う」


「じゃあ買えば」


「一緒に帰れるのに、わざわざ買うのも変でしょ」


「別に変じゃない」


「戒十は変だと思わなくても、私は変だと思うの」


 純は曲がった傘の骨を指で押し戻そうとした。


 金属が小さく軋む。


 戒十はその傘を取り上げた。


「ちょっと」


「貸して」


「直せるの?」


「直せない」


「じゃあ、どうするの」


 戒十は自分が使っていた黒い傘を閉じ、純へ押しつけた。


「これ使えば」


 純は傘と戒十の濡れた肩を交互に見た。


「戒十は?」


「高架下に行くから、ほとんど濡れない」


「行くんだ」


「まだ行くとは言ってない」


「傘を貸す理由が、高架下に行くからなんでしょ」


「細かいな」


「戒十がわかりやすいだけ」


「水城に言われたくない」


「私、わかりやすい?」


「すぐ人の心配をする」


「それは、わかりやすいっていうより普通じゃない?」


「普通の人は、壊れた傘で他人の傘へ入ってこない」


「それ、まだ言うの?」


 純は呆れたように言いながら、黒い傘を受け取った。


 戒十の手から柄が離れる。


 たったそれだけで、駅の外の雨が急に自分だけのものになった気がした。


「明日返すね」


「いつでもいい」


「なくさないよ」


「別に、なくしても」


「大事に使ってる傘でしょ」


「コンビニで買っただけ」


「持ち手のところ、補修してあるけど」


 透明な樹脂テープで巻いた部分へ、純が指を触れた。


 戒十は視線を逸らす。


「買い直すのが面倒だっただけ」


「そういうことにしておく」


「何、その言い方」


「戒十が、そういうことにしたいみたいだから」


 改札の上にある電光掲示板が、次の電車の到着時刻を表示した。


 あと四分。


 純は改札へ向かいかけ、それから足を止める。


「雨が強くなるから、あまり遅くならないで」


「誰に報告する必要があるの」


「私にとは言ってないよ」


「じゃあ誰」


「ご両親とか」


「あの二人、僕が何時に帰っても気づかないよ」


 口にしてから、少しだけ言いすぎたと思った。


 純はすぐに慰めるような顔をしなかった。


 かわいそうだとも言わなかった。


 ただ、戒十を見た。


「じゃあ、私に」


 その言葉は、改札の電子音や構内放送に消されそうなほど静かだった。


 戒十は聞こえなかったふりをした。


「何」


「帰ったら、一言送って」


「どうして」


「雨で流されてないか確認するため」


「高校生が街中で流されるような雨なら、水城も帰れないでしょ」


「そういうところ、面倒くさいよね」


「心配の仕方が非合理的なんだよ」


「じゃあ、合理的に考えて。帰ったって一言送るのと、私がずっと心配するの、どっちが手間?」


「水城が心配しなければいい」


「それができないから言ってるの」


 純は言い切った。


 戒十は、改札の向こうへ視線を逃がした。


 胸の奥に、居心地の悪いものが残る。


 嬉しいと認めれば、何かを返さなければならないような気がした。


 だから、軽く息を吐く。


「覚えてたら」


「忘れないで」


「善処する」


「それ、しない人の言い方だよ」


「政治家じゃないんだから」


「戒十も、たまに同じくらい信用できない」


「失礼だな」


「じゃあ、送って」


「わかったよ」


 ようやく答えると、純は満足したように小さくうなずいた。


 改札へ交通系カードを触れさせる。


 通り抜けたあと、黒い傘を少し持ち上げた。


「ありがとう」


「別に」


「また明日」


 戒十は返事の代わりに、片手を上げた。


 純はそれを確認してから、人の流れへ入っていく。


 紺色のリボンと、肩までの髪。


 何度か人影に隠れ、階段へ向かう手前で見えなくなる。


 戒十は少しのあいだ、その場から動かなかった。


 純が振り返るかもしれないと思ったわけではない。


 ただ、すぐに背を向けると、見送っていたことを認めるようで嫌だった。


 やがてホームへ続く階段から、電車の到着音が聞こえた。


 戒十はカメラバッグの位置を直し、雨の中へ戻った。


     ◇


 駅前から東へ離れるほど、人通りは少なくなった。


 再開発された高層住宅の明かりが背後へ遠ざかり、代わりに物流倉庫や自動車整備工場の低い建物が増えていく。


 雨は予報どおり強くなっていた。


 傘は純へ渡した。


 制服の上着はすでに肩から胸まで濡れている。


 それでも戒十は、カメラバッグだけは身体の前へ抱え、雨避けのカバーを丁寧に掛けていた。


 自分が濡れるのは乾けば済む。


 レンズへ水が入れば、そうはいかない。


 道路脇の水たまりを、大型トラックが踏み抜いていく。


 灰色の水が壁のように跳ねた。


 戒十は一歩退き、ぎりぎりで避ける。


「最悪」


 悪態をつきながらも、走り去るトラックの尾灯が水煙の中で滲む様子を見て、足を止めた。


 カメラを取り出す。


 レンズへ付いた小さな水滴を拭い、車道へ向ける。


 赤い二つの光が、濡れた道路の上で長く引き伸ばされている。


 そこへ、頭上を走る貨物列車の窓明かりが重なった。


 戒十は一枚撮る。


 液晶画面に表示された画像を確認し、すぐに眉を寄せた。


 悪くない。


 悪くないからこそ、気に入らなかった。


 誰が撮っても、同じように綺麗だと思える写真だった。


 濡れた道路。


 赤い尾灯。


 夜の貨物列車。


 写真投稿サイトへ載せれば、それなりに反応はつくかもしれない。


 けれど、それだけだった。


 戒十が撮らなくても存在する写真だ。


 削除はせず、カメラを下ろす。


 道路沿いの歩道をさらに進むと、線路を支える高架が見えてきた。


 古いコンクリートの柱が、一定の間隔で闇の中へ並んでいる。


 その下だけは雨が弱い。


 頭上の継ぎ目から落ちてくる雫が、舗装の上へ丸い染みを作っていた。


 高架の向こうには湾岸道路。


 街灯、信号、工場の保安灯、走行する車のヘッドライトが、それぞれ別の角度から高架下へ光を投げ込んでいる。


 人間が立てば、一つの身体から何本もの影が伸びる場所だった。


 戒十はこの場所を何度か撮っている。


 同じ構図でも、雨の日は光の位置が変わる。


 路面が鏡になり、上からだけでなく、下からも街を照らすからだ。


 戒十は柱と柱の間へ立ち、カメラを構えた。


 ファインダーの中から、現実より少し暗い世界を覗く。


 柱。


 白線。


 排水溝。


 遠くの自動販売機。


 その前に置かれた、壊れかけたベンチ。


 人は映っていない。


 それでも、誰かがそこへ座るのを待っているように見えた。


 純なら、どう言うだろう。


 また、誰もいないのに誰かを待っているみたい、と言うかもしれない。


 戒十は、その考えを振り払うようにシャッターを切った。


 乾いた作動音が、雨音の下へ沈む。


 もう一枚。


 露出を変える。


 さらに一枚。


 画面を確認しようとしたときだった。


 ファインダーの右下を、黒いものが横切った。


 戒十はカメラを下ろした。


 排水溝のそばに、一匹の猫がいた。


 いつからいたのかわからない。


 ほんの数秒前まで、そこには何もいなかったはずだった。


 黒猫だった。


 子猫ではない。


 痩せてもいない。


 毛並みは夜の色へ溶け込むほど黒く、顔の輪郭だけが街灯の反射でわずかに浮かんでいる。


 猫は戒十から五メートルほど離れた場所に座り、まっすぐこちらを見ていた。


 その瞳は金色ではなかった。


 光を反射しているというより、瞳の奥へ二つの小さな灯りがあるように見えた。


「何」


 返事を期待したわけではない。


 雨と列車の音しかない場所で、黙って見られていることに耐えられず、声が出ただけだった。


 黒猫は動かない。


 耳も伏せない。


 尻尾も揺らさない。


 警戒している様子も、逃げる様子もなかった。


 戒十は再びカメラを構えた。


 ファインダーへ猫を収める。


 画面の中では、黒い身体が背景へ潰れ、二つの目だけが不自然に浮いている。


 ピントが合わない。


 自動焦点が排水溝や背後の柱を何度も拾い、猫の輪郭だけを見失う。


「じっとしてるのに」


 設定を手動へ切り替える。


 拡大表示にする。


 毛並みの境界を探す。


 そのとき、戒十は妙なことに気づいた。


 猫は雨の中にいる。


 高架の端から吹き込む雨が、間違いなく黒い身体へ当たっている。


 毛並みの表面は濡れたように光っている。


 だが、雫が落ちていない。


 猫の足元に、水滴が跳ねた跡がない。


 濡れた動物特有の、毛が束になる様子もない。


 まるで黒い紙を猫の形へ切り抜き、その表面にだけ光を滑らせているようだった。


 戒十はファインダーから目を離した。


 肉眼で見ても同じだった。


「……置物?」


 そう口にした直後、黒猫の頭がわずかに傾いた。


 耳が戒十の声を拾う。


 生きている。


 少なくとも、置物ではない。


 車が湾岸道路を通過した。


 白いヘッドライトが高架下へ差し込み、黒猫の背後へ濃い影を作った。


 影は、光と反対側へ長く伸びる。


 当然の現象だった。


 車が近づき、光の角度が変わる。


 猫の影も地面の上を滑る。


 そこで戒十は、息を止めた。


 影が動いた方向は、光源の移動と合っていなかった。


 車は右から左へ走っている。


 なら影は、左から右へ回り込まなければならない。


 だが、猫の影は逆に左へ伸びた。


 走り去る車を追うように。


 戒十は道路を見る。


 車の位置を確認する。


 猫へ戻す。


「いや」


 複数の光がある。


 街灯。


 自動販売機。


 対向車。


 工場の保安灯。


 それらが重なれば、影が複雑な方向へ伸びることはある。


 写真を撮っている人間なら知っている。


 だから異常に見えただけだ。


 次の車が来る。


 戒十は猫ではなく、その足元へ注目した。


 ヘッドライトが高架下へ入る。


 猫の影が一つ、地面へ伸びる。


 直後、街灯による薄い影が反対側へ生まれた。


 二つ。


 ここまでは正しい。


 しかし車が通り過ぎても、最初の影が消えなかった。


 光を失ったはずの濃い影だけが、地面の上へ残っている。


 それは猫の足元へ戻らず、排水溝の黒い線へ細長くつながっていた。


 戒十はゆっくりとカメラを下ろした。


 喉が乾いていた。


 雨の匂いが、急に濃く感じられる。


 濡れたコンクリート。


 鉄。


 排気ガス。


 古い油。


 その中へ、何か冷たいものの匂いが混ざっている。


 匂いと呼べるのかもわからない。


 冷蔵庫を開けたときの空気に似ている。


 冬の朝、誰もいない部屋へ入ったときの冷たさにも似ていた。


 黒猫は戒十を見ていた。


 逃げるべきだ、と頭のどこかで思った。


 野良猫の動きではない。


 光のせいでもない。


 普通ではない。


 スマートフォンを出し、誰かを呼ぶこともできた。


 純はまだ電車の中かもしれない。


 駅へ戻れば、人もいる。


 コンビニもある。


 だが、戒十の足は動かなかった。


 恐怖よりも先に、別の感情が胸の内側から膨らんでいた。


 高揚だった。


 自分だけが見つけた。


 誰も知らない。


 投稿サイトにも、ニュースにも、学校の噂にもない。


 目の前に、説明できないものがいる。


 しかも、それを最初に見つけたのは自分だ。


 純でもない。


 写真部の連中でもない。


 専門家でも、大人でもない。


 三倉戒十が見つけた。


 その事実が、黒猫への警戒を少しずつ押し退けていく。


 証拠を残さなければならない。


 近くで見なければならない。


 誰かを呼んで、先に結論を言われたくなかった。


 これは光の錯覚だ。


 動物の病気だ。


 カメラの故障だ。


 そんな名前をつけられた瞬間、自分だけの発見ではなくなる。


 戒十は一歩、猫へ近づいた。


 靴底が浅い水たまりを踏む。


 黒猫は逃げない。


「人に慣れてるの」


 声が少し掠れた。


 戒十は咳払いをした。


「それとも、餌でも欲しい?」


 鞄の中に食べ物はない。


 わかっていながら、猫へ話しかける。


 返事のない相手へ一方的に声をかけている自分が、少し滑稽に思えた。


 その滑稽さが、恐怖を薄めてくれる。


 さらに一歩。


 距離は三メートル。


 黒猫の輪郭が、はっきり見える。


 やはり、毛並みではない。


 表面は黒い霧か、光を吸い込む液体のように揺れている。


 耳の先だけが、風もないのにわずかに震えていた。


「怪我してる?」


 猫の前脚の一部が欠けているように見えた。


 黒いため見えにくいのではない。


 本当に輪郭がない。


 地面の影と身体の境界が混ざり、どこまでが脚なのかわからなくなっている。


 戒十はカメラを胸元へ下げ、ゆっくり腰を落とした。


 猫と同じ高さになる。


 黒猫の目が、戒十の顔ではなく、足元へ向いた。


 つられて視線を落とす。


 街灯によって、戒十の影が前方へ伸びていた。


 濡れた路面の上へ、細く長く投げ出されている。


 左手を膝へ置いているため、影の左腕も同じ形になっている。


 当然だった。


 戒十はもう一度、猫を見る。


 黒猫は戒十本人ではなく、その影を見ていた。


「そっち?」


 馬鹿な問いだった。


 それでも、猫の瞳がわずかに細くなったように見えた。


 戒十は左手を差し出した。


 急に触れれば逃げるかもしれない。


 まず匂いを嗅がせる。


 猫へ近づくときの普通の手順を、昔どこかで聞いたことがある。


 指先を低くする。


 手の甲を見せる。


 黒猫まで、あと一メートル。


 その瞬間、湾岸道路から大型車のヘッドライトが差し込んだ。


 戒十の影が濃くなる。


 地面へ伸びた左手の輪郭が、はっきりと五本の指を持つ。


 戒十の肉体の指は、まだ猫へ届いていない。


 だが。


 影の指先だけが、黒猫の前脚へ触れた。


 戒十は動きを止めた。


 自分が無意識に手を伸ばしたのだと思った。


 目の錯覚だとも思った。


 しかし肉体の手と猫の間には、まだ二十センチほどの距離がある。


 地面の影だけが、その距離を無視していた。


 影の腕が、不自然に長く伸びている。


 黒猫が頭を下げた。


 ゆっくりと。


 戒十の肉体ではなく、地面へ伸びた影の左手へ鼻先を寄せる。


「待って」


 戒十は手を引こうとした。


 影の手は動かなかった。


 黒猫の口が開く。


 闇の中から、白い牙が見えた。


 次の瞬間。


 猫は、戒十の影の左手へ噛みついた。


 音はしなかった。


 少なくとも、耳では聞こえなかった。


 代わりに、頭の内側で、濡れた布を引き裂くような音がした。


「――っ!」


 左手へ、鋭い痛みが走った。


 指先から手首まで、太い針を一気に突き通されたような痛み。


 戒十は反射的に腕を引いた。


 今度は影も動く。


 黒猫の牙が影の手へ食い込んだまま、黒い輪郭がゴムのように引き伸ばされた。


「離せ!」


 叫びながら立ち上がろうとする。


 濡れた靴底が滑る。


 戒十の身体は後方へ倒れ、右肘と背中をアスファルトへ打ちつけた。


 カメラが胸元で大きく揺れた。


 息が詰まる。


 左手が焼けるように痛い。


 見ると、手の甲には何も触れていない。


 黒猫は一メートル以上離れた場所にいる。


 それなのに皮膚が内側から盛り上がり、二つの赤い点が浮かび上がった。


 傷口が開く。


 血が滲む。


 一滴。


 二滴。


 手の甲から流れた赤が、指の間を伝った。


 その血が地面へ落ちるより先に、周囲の照明がすべて消えた。


 街灯。


 自動販売機。


 工場の保安灯。


 遠くの信号。


 高架下へ差し込んでいた車の光までが、一斉に途絶えた。


 完全な暗闇だった。


 目を閉じたのかと思った。


 だが、雨は頬へ当たっている。


 冷たい地面の感触もある。


 戒十は目を開いている。


 何も見えない。


 光がないから、影もない。


 それなのに。


 暗闇の中で、何かが動いていた。


 足元から這い上がってくる。


 濡れた制服の背中へ沿い、首筋を通り、耳のすぐ後ろで止まる。


 冷たい息が触れたような気がした。


 女の声がした。


「見つけた」


 若い声にも聞こえた。


 ひどく長い時間を生きた声にも聞こえた。


 近くから囁かれたはずなのに、同時に、地面の底から響いているようでもあった。


 戒十は振り向こうとした。


 身体が動かない。


 左手だけが激しく脈打っている。


 自分の心臓が、手の中へ移ったようだった。


 次の瞬間、照明が戻った。


 最初に遠くの信号。


 次に自動販売機。


 最後に、頭上の白い街灯。


 光が順番に高架下を塗り直していく。


 戒十は片手を地面へつき、身体を起こした。


 黒猫はいなかった。


 排水溝。


 柱の陰。


 道路の向こう。


 高架の梁。


 どこにもいない。


 走り去った音もしなかった。


 水たまりに足跡も残っていない。


「……何だったんだよ」


 声が震えた。


 自分でもわかった。


 寒さのせいではない。


 左手の傷から血が流れている。


 痛みもある。


 暗闇の中で聞いた声も、耳に残っている。


 逃げなければならない。


 駅へ戻る。


 病院へ行く。


 警察へ連絡する。


 純へ電話する。


 いくつもの選択肢が頭へ浮かんだ。


 しかし戒十が最初に手を伸ばしたのは、スマートフォンではなかった。


 胸元のカメラだった。


 転倒した衝撃でレンズが割れていないか確認する。


 電源は入る。


 液晶画面も点灯する。


 戒十は再生ボタンを押した。


 直前に撮影した画像が表示される。


 濡れた高架下。


 排水溝。


 柱。


 そして黒猫。


 いや。


 猫の身体は、ほとんど写っていなかった。


 そこだけ画像が欠けたように黒く潰れている。


 露出不足とは違う。


 黒い輪郭の内側に、画面のざらつきすら存在しない。


 穴だった。


 写真の一部を猫の形に切り取ったような、完全な黒。


 その足元から、細長い影が伸びている。


 光源とは反対ではない。


 画面の手前へ。


 カメラを構えていた戒十へ向かって。


 戒十は次の画像を表示した。


 黒猫が頭を下げている。


 地面へ伸びた戒十の影の左手が、猫へ届いている。


 肉体の左手はまだ離れている。


 写真なら、見間違いではない。


 画像の中でも、自分より先に影が動いている。


 戒十の呼吸が浅くなる。


 怖い。


 そう思っている。


 左手は痛い。


 逃げたいとも思っている。


 それでも、画面から目を離せなかった。


 もう一度、同じ画像を見る。


 拡大する。


 影の指。


 黒猫の牙。


 あり得ない距離。


 理屈では説明できない。


 誰も知らない。


 自分だけが見た。


 自分だけが撮った。


 胸の奥で、熱いものがゆっくりと広がっていく。


 何か大変なことが起きた。


 そう考えるより先に。


 ついに、自分にも何かが起きたのだと思った。


 学校へ行き、授業を受け、適当に話を合わせ、帰宅する。


 撮った写真を誰かに見せても、綺麗だと言われるか、暗いと言われるだけ。


 そんな毎日の外側にあるものが、自分を選んだ。


 暗闇の女は、確かに言った。


 見つけた、と。


 戒十は、自分の口元がわずかに緩むのを感じた。


 笑うような場面ではない。


 血も出ている。


 理解できないものに噛まれた。


 それでも笑みを抑えられなかった。


 左手の血が、カメラの黒い外装へ付着した。


 戒十はそれを拭わず、黒猫がいた場所へもう一度レンズを向けた。


 そこには、誰もいない。


 ただ雨だけが吹き込み、複数の街灯によって、戒十の影が何本も地面へ伸びている。


 シャッターを切る。


 乾いた音がした。


 戒十は画像を確認しなかった。


 誰もいない夜景の中で。


 初めて、自分のほうが何かに見つけられた気がしていた。

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