第一節 誰もいない夜景
雨に濡れた宵浜の街は、地面の下にもう一つの街を持っていた。
駅前広場を囲むビルの窓明かりも、青い案内標識も、走り去る路線バスの赤い尾灯も、黒いアスファルトの上でもう一度ぼやけて光っている。
現実の街より、足元へ映った街のほうが静かだった。
三倉戒十は、そういう夜が好きだった。
傘の縁から落ちる雫を避けながら、首から下げたカメラを持ち上げる。液晶画面の中で、横断歩道を渡る人々の足が何本も重なった。
透明な傘。
濡れた革靴。
自転車を押して走る会社員。
スマートフォンを片手に、信号が変わっていることにも気づかない学生。
シャッターを切る寸前、戒十は人差し指を止めた。
画面の隅に、こちらを見ている男がいた。
カメラを向けられたと気づいた途端、男はそれまでの疲れた顔を引っ込め、口元をわずかに整えた。誰に見せるでもない、写真に残るためだけの顔だった。
戒十はカメラを下ろした。
「撮らないの?」
隣から声がした。
振り向かなくても、水城純だとわかる。
戒十の黒い傘へ半分だけ身体を入れ、肩から提げた鞄を雨から守るように胸元へ寄せていた。薄い色のカーディガンの袖口が、少し濡れている。
「人が入ったから」
「人がいたら駄目なの?」
「人はカメラを向けると演技するから」
「今の人、気づいてなかったと思うけど」
「気づいたよ。撮ろうとした瞬間に顔が変わった」
純は交差点の向こうへ目をやった。
先ほどの男は、もう人混みの中へ消えている。
「よく見てるね」
「撮るなら普通でしょ」
「写真部の人は、みんなそんなに人の顔を見てるの?」
「知らない。僕、写真部の人とあまり話さないから」
「部員なのに?」
「部員だからって仲良くする義務はない」
「寂しい部活だね」
「集中できていい部活だよ」
純は小さく笑った。
馬鹿にした笑い方ではない。
戒十がどこまで本気で、どこから意地を張っているのか、だいたいわかっているときの笑い方だった。
それが少し気に障る。
同時に、ほかの誰かに同じ顔を向けられるよりはよかった。
信号が青へ変わる。
二人は人の流れに混ざって歩き出した。
戒十は自然なふりをして、傘を純の側へ傾けた。
自分の右肩へ、冷たい雨が落ちてくる。
「戒十、濡れてるよ」
「そっちの鞄が出てるから」
「本はビニールに入れてあるから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題?」
「濡らして、あとで紙が波打ったとか言われると面倒だから」
「私、一度も戒十に弁償してって言ったことないよ」
「言わなくても顔に出るでしょ」
「私、そんな顔する?」
「する」
「どんな?」
「人に罪悪感を持たせる顔」
「ひどい言い方」
そう言いながらも、純は傘の中心へ寄ろうとはしなかった。
戒十の肩が濡れていることに気づいて、一歩ぶんだけ距離を詰める。
二人の腕が、制服越しに触れた。
戒十は傘を持つ手へ余計な力が入るのを感じた。
気づかれないよう、カメラのストラップを直すふりをする。
駅前の大型画面では、明日の天気予報が流れていた。
夜半にかけて雨脚が強くなる。
沿岸部では風を伴い、一時間に三十ミリを超える恐れ。
画面の中の気象予報士が、早めの帰宅を呼びかけている。
「聞いた?」
純が言った。
「聞こえてる」
「今日は帰ったほうがいいんじゃない?」
「駅までは来てるけど」
「そうじゃなくて。このあと、また撮りに行くつもりでしょ」
戒十は答えなかった。
答えないことを、純は肯定として受け取ったらしい。
「昨日も遅かったよね」
「どうして知ってるの」
「一時過ぎに返信が来たから」
「あれは起きてただけ」
「夜中の一時に、高架下の写真を送ってきたのに?」
「撮ったのは前かもしれない」
「ファイル名に時間が入ってたよ」
「そこまで見る?」
「送ってきたのは戒十でしょ」
言い返す言葉を探しているうちに、駅の屋根の下へ入った。
雨音が少し遠くなる。
改札前は、帰宅する人間で混み合っていた。濡れた傘を畳む音、交通系カードの電子音、電車の到着を告げる案内放送が、広い空間の中で重なっている。
純は鞄から、紺色の折り畳み傘を取り出した。
骨が一本、外側へ不自然に曲がっている。
戒十はそれを見て眉を寄せた。
「それで帰るつもり?」
「朝は壊れてなかったんだけど」
「いつ壊したの」
「昼休みに風で」
「だったら学校で言えばよかったのに」
「戒十が傘を持ってたから」
あまりに当然のように言われ、戒十は返事に詰まった。
「僕が持ってなかったら?」
「駅で新しいのを買ってたと思う」
「じゃあ買えば」
「一緒に帰れるのに、わざわざ買うのも変でしょ」
「別に変じゃない」
「戒十は変だと思わなくても、私は変だと思うの」
純は曲がった傘の骨を指で押し戻そうとした。
金属が小さく軋む。
戒十はその傘を取り上げた。
「ちょっと」
「貸して」
「直せるの?」
「直せない」
「じゃあ、どうするの」
戒十は自分が使っていた黒い傘を閉じ、純へ押しつけた。
「これ使えば」
純は傘と戒十の濡れた肩を交互に見た。
「戒十は?」
「高架下に行くから、ほとんど濡れない」
「行くんだ」
「まだ行くとは言ってない」
「傘を貸す理由が、高架下に行くからなんでしょ」
「細かいな」
「戒十がわかりやすいだけ」
「水城に言われたくない」
「私、わかりやすい?」
「すぐ人の心配をする」
「それは、わかりやすいっていうより普通じゃない?」
「普通の人は、壊れた傘で他人の傘へ入ってこない」
「それ、まだ言うの?」
純は呆れたように言いながら、黒い傘を受け取った。
戒十の手から柄が離れる。
たったそれだけで、駅の外の雨が急に自分だけのものになった気がした。
「明日返すね」
「いつでもいい」
「なくさないよ」
「別に、なくしても」
「大事に使ってる傘でしょ」
「コンビニで買っただけ」
「持ち手のところ、補修してあるけど」
透明な樹脂テープで巻いた部分へ、純が指を触れた。
戒十は視線を逸らす。
「買い直すのが面倒だっただけ」
「そういうことにしておく」
「何、その言い方」
「戒十が、そういうことにしたいみたいだから」
改札の上にある電光掲示板が、次の電車の到着時刻を表示した。
あと四分。
純は改札へ向かいかけ、それから足を止める。
「雨が強くなるから、あまり遅くならないで」
「誰に報告する必要があるの」
「私にとは言ってないよ」
「じゃあ誰」
「ご両親とか」
「あの二人、僕が何時に帰っても気づかないよ」
口にしてから、少しだけ言いすぎたと思った。
純はすぐに慰めるような顔をしなかった。
かわいそうだとも言わなかった。
ただ、戒十を見た。
「じゃあ、私に」
その言葉は、改札の電子音や構内放送に消されそうなほど静かだった。
戒十は聞こえなかったふりをした。
「何」
「帰ったら、一言送って」
「どうして」
「雨で流されてないか確認するため」
「高校生が街中で流されるような雨なら、水城も帰れないでしょ」
「そういうところ、面倒くさいよね」
「心配の仕方が非合理的なんだよ」
「じゃあ、合理的に考えて。帰ったって一言送るのと、私がずっと心配するの、どっちが手間?」
「水城が心配しなければいい」
「それができないから言ってるの」
純は言い切った。
戒十は、改札の向こうへ視線を逃がした。
胸の奥に、居心地の悪いものが残る。
嬉しいと認めれば、何かを返さなければならないような気がした。
だから、軽く息を吐く。
「覚えてたら」
「忘れないで」
「善処する」
「それ、しない人の言い方だよ」
「政治家じゃないんだから」
「戒十も、たまに同じくらい信用できない」
「失礼だな」
「じゃあ、送って」
「わかったよ」
ようやく答えると、純は満足したように小さくうなずいた。
改札へ交通系カードを触れさせる。
通り抜けたあと、黒い傘を少し持ち上げた。
「ありがとう」
「別に」
「また明日」
戒十は返事の代わりに、片手を上げた。
純はそれを確認してから、人の流れへ入っていく。
紺色のリボンと、肩までの髪。
何度か人影に隠れ、階段へ向かう手前で見えなくなる。
戒十は少しのあいだ、その場から動かなかった。
純が振り返るかもしれないと思ったわけではない。
ただ、すぐに背を向けると、見送っていたことを認めるようで嫌だった。
やがてホームへ続く階段から、電車の到着音が聞こえた。
戒十はカメラバッグの位置を直し、雨の中へ戻った。
◇
駅前から東へ離れるほど、人通りは少なくなった。
再開発された高層住宅の明かりが背後へ遠ざかり、代わりに物流倉庫や自動車整備工場の低い建物が増えていく。
雨は予報どおり強くなっていた。
傘は純へ渡した。
制服の上着はすでに肩から胸まで濡れている。
それでも戒十は、カメラバッグだけは身体の前へ抱え、雨避けのカバーを丁寧に掛けていた。
自分が濡れるのは乾けば済む。
レンズへ水が入れば、そうはいかない。
道路脇の水たまりを、大型トラックが踏み抜いていく。
灰色の水が壁のように跳ねた。
戒十は一歩退き、ぎりぎりで避ける。
「最悪」
悪態をつきながらも、走り去るトラックの尾灯が水煙の中で滲む様子を見て、足を止めた。
カメラを取り出す。
レンズへ付いた小さな水滴を拭い、車道へ向ける。
赤い二つの光が、濡れた道路の上で長く引き伸ばされている。
そこへ、頭上を走る貨物列車の窓明かりが重なった。
戒十は一枚撮る。
液晶画面に表示された画像を確認し、すぐに眉を寄せた。
悪くない。
悪くないからこそ、気に入らなかった。
誰が撮っても、同じように綺麗だと思える写真だった。
濡れた道路。
赤い尾灯。
夜の貨物列車。
写真投稿サイトへ載せれば、それなりに反応はつくかもしれない。
けれど、それだけだった。
戒十が撮らなくても存在する写真だ。
削除はせず、カメラを下ろす。
道路沿いの歩道をさらに進むと、線路を支える高架が見えてきた。
古いコンクリートの柱が、一定の間隔で闇の中へ並んでいる。
その下だけは雨が弱い。
頭上の継ぎ目から落ちてくる雫が、舗装の上へ丸い染みを作っていた。
高架の向こうには湾岸道路。
街灯、信号、工場の保安灯、走行する車のヘッドライトが、それぞれ別の角度から高架下へ光を投げ込んでいる。
人間が立てば、一つの身体から何本もの影が伸びる場所だった。
戒十はこの場所を何度か撮っている。
同じ構図でも、雨の日は光の位置が変わる。
路面が鏡になり、上からだけでなく、下からも街を照らすからだ。
戒十は柱と柱の間へ立ち、カメラを構えた。
ファインダーの中から、現実より少し暗い世界を覗く。
柱。
白線。
排水溝。
遠くの自動販売機。
その前に置かれた、壊れかけたベンチ。
人は映っていない。
それでも、誰かがそこへ座るのを待っているように見えた。
純なら、どう言うだろう。
また、誰もいないのに誰かを待っているみたい、と言うかもしれない。
戒十は、その考えを振り払うようにシャッターを切った。
乾いた作動音が、雨音の下へ沈む。
もう一枚。
露出を変える。
さらに一枚。
画面を確認しようとしたときだった。
ファインダーの右下を、黒いものが横切った。
戒十はカメラを下ろした。
排水溝のそばに、一匹の猫がいた。
いつからいたのかわからない。
ほんの数秒前まで、そこには何もいなかったはずだった。
黒猫だった。
子猫ではない。
痩せてもいない。
毛並みは夜の色へ溶け込むほど黒く、顔の輪郭だけが街灯の反射でわずかに浮かんでいる。
猫は戒十から五メートルほど離れた場所に座り、まっすぐこちらを見ていた。
その瞳は金色ではなかった。
光を反射しているというより、瞳の奥へ二つの小さな灯りがあるように見えた。
「何」
返事を期待したわけではない。
雨と列車の音しかない場所で、黙って見られていることに耐えられず、声が出ただけだった。
黒猫は動かない。
耳も伏せない。
尻尾も揺らさない。
警戒している様子も、逃げる様子もなかった。
戒十は再びカメラを構えた。
ファインダーへ猫を収める。
画面の中では、黒い身体が背景へ潰れ、二つの目だけが不自然に浮いている。
ピントが合わない。
自動焦点が排水溝や背後の柱を何度も拾い、猫の輪郭だけを見失う。
「じっとしてるのに」
設定を手動へ切り替える。
拡大表示にする。
毛並みの境界を探す。
そのとき、戒十は妙なことに気づいた。
猫は雨の中にいる。
高架の端から吹き込む雨が、間違いなく黒い身体へ当たっている。
毛並みの表面は濡れたように光っている。
だが、雫が落ちていない。
猫の足元に、水滴が跳ねた跡がない。
濡れた動物特有の、毛が束になる様子もない。
まるで黒い紙を猫の形へ切り抜き、その表面にだけ光を滑らせているようだった。
戒十はファインダーから目を離した。
肉眼で見ても同じだった。
「……置物?」
そう口にした直後、黒猫の頭がわずかに傾いた。
耳が戒十の声を拾う。
生きている。
少なくとも、置物ではない。
車が湾岸道路を通過した。
白いヘッドライトが高架下へ差し込み、黒猫の背後へ濃い影を作った。
影は、光と反対側へ長く伸びる。
当然の現象だった。
車が近づき、光の角度が変わる。
猫の影も地面の上を滑る。
そこで戒十は、息を止めた。
影が動いた方向は、光源の移動と合っていなかった。
車は右から左へ走っている。
なら影は、左から右へ回り込まなければならない。
だが、猫の影は逆に左へ伸びた。
走り去る車を追うように。
戒十は道路を見る。
車の位置を確認する。
猫へ戻す。
「いや」
複数の光がある。
街灯。
自動販売機。
対向車。
工場の保安灯。
それらが重なれば、影が複雑な方向へ伸びることはある。
写真を撮っている人間なら知っている。
だから異常に見えただけだ。
次の車が来る。
戒十は猫ではなく、その足元へ注目した。
ヘッドライトが高架下へ入る。
猫の影が一つ、地面へ伸びる。
直後、街灯による薄い影が反対側へ生まれた。
二つ。
ここまでは正しい。
しかし車が通り過ぎても、最初の影が消えなかった。
光を失ったはずの濃い影だけが、地面の上へ残っている。
それは猫の足元へ戻らず、排水溝の黒い線へ細長くつながっていた。
戒十はゆっくりとカメラを下ろした。
喉が乾いていた。
雨の匂いが、急に濃く感じられる。
濡れたコンクリート。
鉄。
排気ガス。
古い油。
その中へ、何か冷たいものの匂いが混ざっている。
匂いと呼べるのかもわからない。
冷蔵庫を開けたときの空気に似ている。
冬の朝、誰もいない部屋へ入ったときの冷たさにも似ていた。
黒猫は戒十を見ていた。
逃げるべきだ、と頭のどこかで思った。
野良猫の動きではない。
光のせいでもない。
普通ではない。
スマートフォンを出し、誰かを呼ぶこともできた。
純はまだ電車の中かもしれない。
駅へ戻れば、人もいる。
コンビニもある。
だが、戒十の足は動かなかった。
恐怖よりも先に、別の感情が胸の内側から膨らんでいた。
高揚だった。
自分だけが見つけた。
誰も知らない。
投稿サイトにも、ニュースにも、学校の噂にもない。
目の前に、説明できないものがいる。
しかも、それを最初に見つけたのは自分だ。
純でもない。
写真部の連中でもない。
専門家でも、大人でもない。
三倉戒十が見つけた。
その事実が、黒猫への警戒を少しずつ押し退けていく。
証拠を残さなければならない。
近くで見なければならない。
誰かを呼んで、先に結論を言われたくなかった。
これは光の錯覚だ。
動物の病気だ。
カメラの故障だ。
そんな名前をつけられた瞬間、自分だけの発見ではなくなる。
戒十は一歩、猫へ近づいた。
靴底が浅い水たまりを踏む。
黒猫は逃げない。
「人に慣れてるの」
声が少し掠れた。
戒十は咳払いをした。
「それとも、餌でも欲しい?」
鞄の中に食べ物はない。
わかっていながら、猫へ話しかける。
返事のない相手へ一方的に声をかけている自分が、少し滑稽に思えた。
その滑稽さが、恐怖を薄めてくれる。
さらに一歩。
距離は三メートル。
黒猫の輪郭が、はっきり見える。
やはり、毛並みではない。
表面は黒い霧か、光を吸い込む液体のように揺れている。
耳の先だけが、風もないのにわずかに震えていた。
「怪我してる?」
猫の前脚の一部が欠けているように見えた。
黒いため見えにくいのではない。
本当に輪郭がない。
地面の影と身体の境界が混ざり、どこまでが脚なのかわからなくなっている。
戒十はカメラを胸元へ下げ、ゆっくり腰を落とした。
猫と同じ高さになる。
黒猫の目が、戒十の顔ではなく、足元へ向いた。
つられて視線を落とす。
街灯によって、戒十の影が前方へ伸びていた。
濡れた路面の上へ、細く長く投げ出されている。
左手を膝へ置いているため、影の左腕も同じ形になっている。
当然だった。
戒十はもう一度、猫を見る。
黒猫は戒十本人ではなく、その影を見ていた。
「そっち?」
馬鹿な問いだった。
それでも、猫の瞳がわずかに細くなったように見えた。
戒十は左手を差し出した。
急に触れれば逃げるかもしれない。
まず匂いを嗅がせる。
猫へ近づくときの普通の手順を、昔どこかで聞いたことがある。
指先を低くする。
手の甲を見せる。
黒猫まで、あと一メートル。
その瞬間、湾岸道路から大型車のヘッドライトが差し込んだ。
戒十の影が濃くなる。
地面へ伸びた左手の輪郭が、はっきりと五本の指を持つ。
戒十の肉体の指は、まだ猫へ届いていない。
だが。
影の指先だけが、黒猫の前脚へ触れた。
戒十は動きを止めた。
自分が無意識に手を伸ばしたのだと思った。
目の錯覚だとも思った。
しかし肉体の手と猫の間には、まだ二十センチほどの距離がある。
地面の影だけが、その距離を無視していた。
影の腕が、不自然に長く伸びている。
黒猫が頭を下げた。
ゆっくりと。
戒十の肉体ではなく、地面へ伸びた影の左手へ鼻先を寄せる。
「待って」
戒十は手を引こうとした。
影の手は動かなかった。
黒猫の口が開く。
闇の中から、白い牙が見えた。
次の瞬間。
猫は、戒十の影の左手へ噛みついた。
音はしなかった。
少なくとも、耳では聞こえなかった。
代わりに、頭の内側で、濡れた布を引き裂くような音がした。
「――っ!」
左手へ、鋭い痛みが走った。
指先から手首まで、太い針を一気に突き通されたような痛み。
戒十は反射的に腕を引いた。
今度は影も動く。
黒猫の牙が影の手へ食い込んだまま、黒い輪郭がゴムのように引き伸ばされた。
「離せ!」
叫びながら立ち上がろうとする。
濡れた靴底が滑る。
戒十の身体は後方へ倒れ、右肘と背中をアスファルトへ打ちつけた。
カメラが胸元で大きく揺れた。
息が詰まる。
左手が焼けるように痛い。
見ると、手の甲には何も触れていない。
黒猫は一メートル以上離れた場所にいる。
それなのに皮膚が内側から盛り上がり、二つの赤い点が浮かび上がった。
傷口が開く。
血が滲む。
一滴。
二滴。
手の甲から流れた赤が、指の間を伝った。
その血が地面へ落ちるより先に、周囲の照明がすべて消えた。
街灯。
自動販売機。
工場の保安灯。
遠くの信号。
高架下へ差し込んでいた車の光までが、一斉に途絶えた。
完全な暗闇だった。
目を閉じたのかと思った。
だが、雨は頬へ当たっている。
冷たい地面の感触もある。
戒十は目を開いている。
何も見えない。
光がないから、影もない。
それなのに。
暗闇の中で、何かが動いていた。
足元から這い上がってくる。
濡れた制服の背中へ沿い、首筋を通り、耳のすぐ後ろで止まる。
冷たい息が触れたような気がした。
女の声がした。
「見つけた」
若い声にも聞こえた。
ひどく長い時間を生きた声にも聞こえた。
近くから囁かれたはずなのに、同時に、地面の底から響いているようでもあった。
戒十は振り向こうとした。
身体が動かない。
左手だけが激しく脈打っている。
自分の心臓が、手の中へ移ったようだった。
次の瞬間、照明が戻った。
最初に遠くの信号。
次に自動販売機。
最後に、頭上の白い街灯。
光が順番に高架下を塗り直していく。
戒十は片手を地面へつき、身体を起こした。
黒猫はいなかった。
排水溝。
柱の陰。
道路の向こう。
高架の梁。
どこにもいない。
走り去った音もしなかった。
水たまりに足跡も残っていない。
「……何だったんだよ」
声が震えた。
自分でもわかった。
寒さのせいではない。
左手の傷から血が流れている。
痛みもある。
暗闇の中で聞いた声も、耳に残っている。
逃げなければならない。
駅へ戻る。
病院へ行く。
警察へ連絡する。
純へ電話する。
いくつもの選択肢が頭へ浮かんだ。
しかし戒十が最初に手を伸ばしたのは、スマートフォンではなかった。
胸元のカメラだった。
転倒した衝撃でレンズが割れていないか確認する。
電源は入る。
液晶画面も点灯する。
戒十は再生ボタンを押した。
直前に撮影した画像が表示される。
濡れた高架下。
排水溝。
柱。
そして黒猫。
いや。
猫の身体は、ほとんど写っていなかった。
そこだけ画像が欠けたように黒く潰れている。
露出不足とは違う。
黒い輪郭の内側に、画面のざらつきすら存在しない。
穴だった。
写真の一部を猫の形に切り取ったような、完全な黒。
その足元から、細長い影が伸びている。
光源とは反対ではない。
画面の手前へ。
カメラを構えていた戒十へ向かって。
戒十は次の画像を表示した。
黒猫が頭を下げている。
地面へ伸びた戒十の影の左手が、猫へ届いている。
肉体の左手はまだ離れている。
写真なら、見間違いではない。
画像の中でも、自分より先に影が動いている。
戒十の呼吸が浅くなる。
怖い。
そう思っている。
左手は痛い。
逃げたいとも思っている。
それでも、画面から目を離せなかった。
もう一度、同じ画像を見る。
拡大する。
影の指。
黒猫の牙。
あり得ない距離。
理屈では説明できない。
誰も知らない。
自分だけが見た。
自分だけが撮った。
胸の奥で、熱いものがゆっくりと広がっていく。
何か大変なことが起きた。
そう考えるより先に。
ついに、自分にも何かが起きたのだと思った。
学校へ行き、授業を受け、適当に話を合わせ、帰宅する。
撮った写真を誰かに見せても、綺麗だと言われるか、暗いと言われるだけ。
そんな毎日の外側にあるものが、自分を選んだ。
暗闇の女は、確かに言った。
見つけた、と。
戒十は、自分の口元がわずかに緩むのを感じた。
笑うような場面ではない。
血も出ている。
理解できないものに噛まれた。
それでも笑みを抑えられなかった。
左手の血が、カメラの黒い外装へ付着した。
戒十はそれを拭わず、黒猫がいた場所へもう一度レンズを向けた。
そこには、誰もいない。
ただ雨だけが吹き込み、複数の街灯によって、戒十の影が何本も地面へ伸びている。
シャッターを切る。
乾いた音がした。
戒十は画像を確認しなかった。
誰もいない夜景の中で。
初めて、自分のほうが何かに見つけられた気がしていた。




